2.
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「そういえば、お前なんでキャリーバック持ってきてんの?」
衣服などのかさばる私物は、全て宅急便でこちらに送ってきているものだと思っていた大介には、どうしてもその中身の予測がつかない。それに加え、電車を降りてからアスファルトで舗装された道を歩き続けているため、キャリーバックの車輪が転がる音は嫌でも耳につく。大介は橘の数歩前を歩きながら、質問を投げかけた。
「いや、もし事故とかあって服届いてなかったときの場合の替えとか、電車が止まった時の食料とか準備してたらこんなんなっちゃって」
「相変わらず準備いいな。服は俺の着ればいいだろ」
「兄貴のだと小さすぎるし」
「……あっそ」
橘の場合、多少無遠慮な発言をしても、その声色や口調に不思議と嫌味ったらしさを感じさせない。なので、決して自身も低身長ではないが、弟との体格の差につねづねコンプレックスを感じていた大介も、気分を害された気はしないのであった。今まで、特に目立ったトラブルもなく人付き合いをやり過ごしてきたのであろうと想像にたやすい彼の人柄に関しては、大介は羨望の感情すら持ち合わせていた。
「心配せんでも、もう荷物は全部届いてるよ。めっちゃ場所とってっから、今日中に全部片付けろよ」
「えー……全部は無理。俺もう今日は疲れたぁ」
「嘘つくな高校生」
新潟といえば米。米といえばどこまでも続く田園風景。兄の勤める大学の最寄り駅付近は、そんな安直な橘の連想とは大きくかけ離れている、ごくありふれた住宅街であった。帰宅途中とおもわれる大学生があちこちに見受けられたが、その背景が住宅街というのは、橘にとってひどく見慣れない組み合わせのように感じられた。住宅街に沿った坂道を歩いているだけで、近くの家から漂う夕飯の香りが橘の鼻腔を容赦なく刺激した。
「てか、どっかでごはん買おうよ。コンビニとかどこにあんの?」
猫背のままぐんぐんと前を歩いていく大介にむかって、橘は少しだけ声を張りあげる。しかし、大介は前だけを見据え、橘の提案への反応を示すそぶりすら見せない。
「ねえって」
依然応答なし。
橘も、兄の返答の気まぐれさへの不満を押し殺し、とりあえず黙っておくことにした。
坂道の途中にすれちがうサラリーマンや学生の何人かが、一見してどのような関係か推し量りがたい二人のほうにちらりと目線をよこした。
住宅街の曲がり角に差し掛かった時、信号の光がちょうど赤く色を変えたので、大介はぴたりと歩を止めた。駅から反対方向へかなりの距離を歩いてきたために、いつの間にか周りにほとんど人気がなくなっていた。橘も、間もなくして大介と足並みを揃える。
「俺はまだ仕事が残ってるから、お前先に部屋いっといて。晩飯は台所にあるもん適当に食っていいから」
何年ぶりかに橘と大介の目線が合った。先ほどの橘への無視は、機嫌を損ねたからとかそういう理由からではないようだった。少し息切れをしている大介を見て、やっぱり無理に早歩きをしてたんだな、と橘は一人得心する。なぜ無理をしたのかは、よく分からなかったが。
「りょーかい。じゃあ鍵ちょーだい」
「ん」
大介はズボンのポケットから慣れた手つきで鍵を取り出し、差し出された橘の手のひらに、餌を与えるようにぽとりとそれを落とした。
「で、兄貴のマンションってどうやっていくの?」
「ん」
彼は質問に答えるかわりに、信号を渡って向かい側の、左にのびている道路の奥のほうを指差した。住宅街を越えた向こうに、五階建ての赤茶色の建物が見える。
「え、あれ? へえー、意外と新しいね」
「四○二号室な」
「ヨンマルニね。OK」
信号が青になるや否や、じゃ、と短く別れを告げ大介はさっさと歩いていってしまった。
歩幅は変わっていなくとも、彼の歩く速度は、さきほどより確実に落ちているように橘には思えた。