夕暮れに咲く花
ある国の都の片隅にこじんまりとした館があった。
そこに、当年取って二十九歳になる女がひっそりと暮らしている。名前は宇都売。かつて、さる大臣家の公達と恋人であり、既に一人息子も生まれていた。息子は若王と名付けられ、すくすくと育っている。今年で八歳になっていた。だが、公達には正妻たる宮家筋の姫がおり、宇都売は執拗な脅しや嫌がらせを長い間に受けていて。仕方なく、公達へ関係を解消したいと文を送り、荷物を纏める。少ない護衛の従者と牛飼童、女房の合計して八人でひっそりと邸を出た。宇都売は息子の若王を傍らに座らせ、牛車で都の郊外に近い手狭な住居へと移る。四人程の同行した女房達は「お方様や若君、おいたわしや」と嘆いていた。それでも、住居での暮らしは穏やかでいながらも賑やかだ。若王はよく外に出て、近くに住む平民の子らと遊ぶようになる。却って、元の邸よりは自由で伸びやかに彼は過ごすようになった。宇都売は微笑ましく、その様子を見守るのだった。
住居に移ってから、四月が過ぎる。季節は七月、初秋に入っていたが。まだまだ、暑さは厳しい。宇都売は肌が透ける生絹の単衣に袴と言う軽装でいた。それでも、茹だるように蒸し暑くて。
「……体が怠く感じるわ」
「お方様、大丈夫ですか?」
「ええ、今はね。せめて、この長い髪をどうにかしたいけど」
宇都売はため息をつく。傍らに控えていた女房の香乃や紀伊、堀河や真菰の四人は心配そうに見ていた。
ちなみに、主に声を掛けたのは香乃だ。
「お方様、見事な御髪ですのに。まさか、切りたいと思うてはいますまい?」
「そのまさかよ、若王が元服したら。さっさと俗世を捨てようかと思ってるの」
「冗談がきついですよ、お方様!」
香乃がぴしゃりと言うも。宇都売は苦笑いする。
「冗談じゃないわ、出家さえすれば。髪を短くできるからね」
「お方様、思い留まってくださいまし!」
悲痛に香乃が言う。他の三人も困ったと頭を抱えた。宇都売は静かに立ち上がり、部屋の端近にまで寄る。
「……お方様、あの。外が騒がしいように思います」
「そうなの?」
「ええ、ちょっと様子を見に行って来ますね」
「分かったわ」
宇都売が頷くと、紀伊が立ち上がった。そのまま、部屋を出て行く。皆で待った。
少し経ち、紀伊が戻ってくる。けど、様子がおかしい。妙に頬が上気して、慌てていた。肩が上下もしており、息が荒い。
「お、お方様。大変です!」
「どうしたの、紀伊?」
「あの、お方様。外に一輌の牛車が停まっていまして」
「牛車が?!」
「ええ、先程にこちらの軒先へと停まって、従者の男が使いで来ています。それで、こちらを預かってきました」
紀伊はおもむろに宇都売へ、白の蝙蝠を手渡す。途端に、ふわりと芳香が鼻腔へと入る。蝙蝠を受け取り、開いた。何かを書きつけてある。
<文月の夕顔咲きし軒下に
置きし露をば触れにけるかな>
意味は(文月の夕顔の花が咲く軒下にて、零れそうな露がある。ふと、その手に載せ、触れたくなった)となるか。裏の意味としては(かの夕顔の花、女君のようなあなたを見つけた。良ければ、色よい返事があったら……)と言う感じだ。宇都売は困惑する。
「ふうむ、これは。あからさまな恋歌じゃない」
「そうなのですか?」
「うん、間違いないわ。何なら、読んでみなさいな」
「分かりました、拝借致します」
宇都売は紀伊に手渡した。すぐに、ざっと目を通し始める。
「……確かに、なかなかに開け透けな歌ですね。お方様をかの夕顔になぞらえるとは」
「仕方ない、使いを待たせているのでしょう。すぐにお返事を書くわ」
「いけません、お方様。あの公達が信用出来るかも分からないのに」
「私は構わないわ、丁度ね。若王を養うならば、財力がある殿方を探そうと考えていたところなのよ。ちょっと、待っていてちょうだい」
「……お方様」
紀伊は悲しげに主を見た。宇都売は香乃が気を利かせて持ってきた白の蝙蝠を受け取る。筆を手に持ち、さらさらと歌を書きつけた。
<夕暮れに見えし貌君なるか
露となりけむ昼顔に置き>
意味は(夕暮れ時、薄明かりにて見えた麗しい貌はあなたでしょうか。露となった私ではありますけど、昼顔の上に何とかその身を置くばかりです)となるが。裏の意味は(夕顔に例えられているけど。何のおつもりですか?)と受け取れる。宇都売は香乃に言って昼顔の花を取りに行かせた。
少し経ち、枯れかけた昼顔を持ってくる。それを蝙蝠の上に載せ、紀伊に託した。
「よろしいのですか?」
「紀伊、本当に構わないのよ。さ、使いの者に渡してきて」
「……分かりました」
紀伊は渋々、頷いた。そのまま、部屋を出る。宇都売はちょっとだけ、申し訳無さが込み上げたのだった。
あれから、さらに五日が過ぎた。宇都売の小さな住居に顔を覆面で隠した男が通うようになる。芳しい香りや隙の無いすっきりとした立ち居振る舞い、わざとやつしているとはいえ、隠し切れない気品から上流貴族なのは間違いがない。最初は怪しいし、怖くはあったが。男の低いながらに柔和な声や穏やかな物腰に宇都売は徐々に惹かれていた。
「……あなたは不思議だな、夕顔の君のように謎めいているようでいて。なかなかにからりとした明るさがある」
「そう思うておられるのですね、若君は」
男は宇都売の実名を知らない。だから、昼顔の君と呼んでいた。宇都売の方は単に分かりやすいからと、「若君」と呼んでいるが。けど、そう呼ぶたびに不満そうにしていた。
「昼顔、今日は男童はいないんだね」
「ああ、あの子なら。外へ行かせました」
「ふうん、元気が良いよね。私も会ってみたかったけど」
男もとい、若君は若王を男童と呼ぶ。宇都売の実子だとは察しているらしい。若君は膝でいざり寄り、彼女の体を引き寄せた。そうして、抱きしめながら。長い黒髪を撫ぜ始めた。
「昼顔、あなたをいつかは我が邸に迎えたい。そのつもりでいてくれないか」
「まあ、いけません。私のような卑しき者を迎えるなぞ。もっと、ふさわしい女人がいるはずです」
「つれないな、初日からそうだった。あなたは私に深入りさせてはくれない」
「……怖いのです、本気になるのが」
「本気になってくれていいのに」
また、不満そうに若君はする。宇都売は苦笑いした。強い力で再度、抱きすくめられる。若君が軽く、彼女の頬に接吻をした。
「……昼顔」
「若君?」
「私は絶対に諦めない、あなたを妻にする」
おもむろに情熱的な求婚をされた。宇都売は苦く思う。
(これが年若い頃なら、どんなに嬉しかったか。けど、私も三十近い。しかも、子持ちで。この方を本当の意味では幸せには出来ない)
そんな感情を彼女は笑みで隠す。若君は唇にも啄むような接吻を贈った。昨夜よりも熱く、激しい一晩を過ごしたのだった。
若君が通うようになり、早くも一月が経っていた。八月に入り、少しずつは秋めいてきたように思う。
「昼顔、やっとあなたを迎える手はずが整ったよ。さ、こんな手狭な館からは出よう!」
「……若君、本気ですか?!」
「本気だよ、だから迎えに来たんだ」
若君は笑いながら、宇都売の手を握った。そのまま、横抱きにする。
「あ、いけません!私は」
「昼顔、年齢を気にしていたのは分かっていた。まあ、覆面をしていたからな。仕方ないとは思ってる」
「……はあ」
若君は彼女を抱えたまま、すたすたと館を出た。女房達も慌てて、追いかける。外には三輌程の牛車が停まっていた。その内、一番先頭にある牛車に若君は乗り込む。宇都売も共にだ。
「二輌目には男童や乳母、女房達も乗っている。三輌目にはあなた達の荷物を運んでおいたから」
「そうですか」
頷くと、若君は胡座をかいた膝の上に宇都売を載せる。
「ここからは揺れやすいから、私の膝の上に。少しはましだろうから」
「……分かりました」
宇都売は不安ながらに頷く。若君は今までつけていた覆面を静かに外した。
「今まで悪かったね、素顔も見せずにいた」
「いえ、実名を教えなかった私もお相子です」
申し訳なさげに言った。宇都売は顕になった若君の貌を改めて、見つめる。かなりの端正な美男が穏やかに笑んでいた。
「……実名を教えてはくれないか?」
「はあ、宇都売と申します」
「宇都売か、私は世間では宰相中将と呼ばれている。実名は藤原望兼だ」
「望兼様とおっしゃいますか。私は赤染宇都売です」
「へえ、それがあなたの実名か。覚えておくよ」
穏やかに望兼は笑う。宇都売は見惚れそうになる。さっと目を逸らしたのだった。
新たな望兼の邸に宇都売は若王や女房達共々、移った。片隅でひっそりと暮らしていたあの頃より、賑やかな日々を過ごすようになる。
「母上、義父上に漢詩を習いに行ってきますね」
「分かったわ、失礼がないようにね」
若王はにこやかにしながら、義父こと望兼の居室へ行く。彼は初めこそ、冷たかったが。徐々に態度を軟化させ、今はすっかり実の父と息子と言える間柄だ。微笑ましげに宇都売は見送る。
今、宇都売は二人目の子を身籠っていた。薬師に診てもらうと、四月になっているらしい。悪阻が酷かったが。ちなみに季節は十二月、冬になっていた。産み月は約半年後、来年の五月頃になる予定だ。次は何となく、娘のような気がする。宇都売はまだ、そんなに出ていない腹を撫でた。
あれから、ゆっくりと月日が流れて。翌年、初夏の五月に宇都売は元気な女児を生んだ。名は望兼の一文字をもらい、奏手と付けられる。兄になった若王や望兼は喜んだ。
望兼は後で聞いたら、年齢が二十八歳らしい。宇都売より、二つは下だった。これには若王も驚いていた。
「今日で奏手も生まれてから、五十日が経ちますね」
「本当にね」
「母上、義父上を呼んで来ます。五十日のお祝いに出て頂かないと」
「ふふ、頼むわね」
「任せてください!」
元気よく言って、若王は行ってしまう。宇都売は奏手を抱えながら、庭を眺めた。
(もう、かの公達と別れて一年以上が過ぎたわ。望兼様の気持ちを思いきって受け入れて正しかったわね)
そう思いながら、奏手の体を軽く揺すってやる。すやすやと赤子は眠っていた。
簀子縁から若王や望兼の互いに笑い合う声が聞こえる。宇都売は嬉しげに見やった。
そこには不幸な影を背負った女ではなくて。一人の芯がしっかりした母が佇む。奏手を抱えたまま、宇都売は背の君と息子を笑顔で迎え入れたのだった。
――完――




