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創作論エッセイ

非日常や世界設定のファンタジー技法

作者: はまさん
掲載日:2026/02/13

■ファンタジーとは論

 ファンタジーとは何か。

 ボクの持論を最初に言っておこう。ボクの「ファンタジーとは論」は、ミヒャエル・エンデに大きな影響を受けている。

 すなわち、ファンタジーとは人の想像力だ。


 とてもフワッとした定義だと思われるだろう。

 人の想像力だから、何でもアリ。モテたい、金が欲しい、ぶっ殺したい。全て等価にファンタジーとなる。

 ただ高級食材が生ゴミにも、美食にもなるように。岩から石像が掘り出されることも、石ころになることもあるように。

 想像力から、犯罪も、妄想も、芸術も生まれる。全てファンタジーだ。


 では、世の中にある「ファンタジーとは論」にはどのようなものがあるだろうか。例えば、ファンタジーとは非日常を描くことだ。ファンタジーとは世界設定を練ることだ。

 この辺りが有名だろう。うん、それらもファンタジーだね。


 ただし非日常も世界設定も、ファンタジーの一部だとボクは考える。

 というのも非日常や世界設定が、ファンタジーの全部だとすると無理が出てしまうからだ。


■ファンタジーとは非日常:1

 ファンタジーとは非日常を描くものである、という。

 けど、それって本当だろうか?


 非日常とは何か。日常的ではないものだ。

 日常的とは何か。普段よく見るもの。当たり前のもの。

 つまり、滅多に見ることができないもの。当たり前ではないものこそ、非日常だということになる。


 では、こんなストーリーを考えてみた。

 

《例》

竜と共に暮らす民がいた。竜は賢く偉大な生き物で、人と対等なパートナーだ。そんな彼らの代わり映えのしない毎日を描いただけの小説。


 さて、このストーリーはファンタジーか否か。

 竜が出るのだから、きっとファンタジーだろう? しかし非日常は描いていないよ?

 さらに追求して考えてみよう。


《例》

冒険者のいる世界。魔法はテクノロジーであり、誰でも習得可能。珍しさはあれ普通に存在する。


 魔法があるから、このストーリーはファンタジーだろうか? でも、この世界で魔法は非日常の存在ではないよね。

 ファンタジーとは非日常であるとするなら、では何と比べて「違う」から上記の例はファンタジーなのだろうか?


■ファンタジーとは非日常:2

 ファンタジーとは非日常である、という考えに対して。

 さてボクなりの答えというか、持論を披露しよう。


 異世界の日常を描いた物語は、どこが非日常なのか。

 我々の住む世界を「現代日本」という言い方をするとして。この「現代日本」と比べて非日常的だから、ファンタジーになるのではないだろうか。

 

 非日常とは日常と「違う」ことだ。

 ならば「現代日本」という日常との比較により、違いが生じるから「現代日本」人としては、ファンタジーだと思ってしまう。

 上記の例にあった竜の民の日常も、竜のいない「現代日本」の日常と比べるから、非日常的だと感じてしまうのだろう。


■非日常のあり方

 良かった、非日常は確かに存在した。さあファンタジーの成立だ、と信じるのは危険だ。

 非日常があれば、良いファンタジーになるとは限らない。


《例》

ハナのモゲラはナモゲによってハナモゲラする。


 非日常があればファンタジーになるというから、非日常を並べてみました。これはこれで、何一つ共感できない。

 非日常にファンタジー感を覚えるには、とっかかりが必要なのだ。非日常とは、日常の対義語。非日常は日常との比較・対比によって生じる。


 この日常と非日常をどう対比させるかで、ファンタジーという枠は驚くほど広がってしまう。


《例》

現代日本が舞台。夕飯を食べようとしたら、フォークに足が生えて逃げ出した。


 これは「日常の中の非日常」ということになるだろう。


 竜の民の一日を描いた。これは非日常という日常を描いている。

 しかしここへ、竜を狩る帝国の魔の手がやってきたとする。非日常という日常へ、入り込む非日常だ。


 ハナモゲラは非日常へさらに非日常をかぶせている。非日常のみで、日常との対比がない。

 ということは、本当にこうした作品があったとして。ハナモゲラは日常と非日常の対比に頼らない。恐らくは他の方法論で作られた作品となるだろう。


■異化効果

 しかし、非日常は日常との対比の中でしか存在しないとは言ったが。ではなぜ、非日常と日常を対比させなければならないのだろうか?

 ボク個人の考えとして、非日常と日常の対比は、文学における「異化効果」を生み出していると思うのだ。


 「異化」とは、既存の物事を改めて表現し直すことによって、新しい意味を見いだすという文学用語だ。純文学や詩では、基本中の基本といえる。


《例》

人間にとっては当たり前の生活も、猫の視点からすると奇妙に見えたりする。


 これが竜の民ならば、どのような異化効果が生じるのか。

 人間と対等な、竜という存在がいる。すると竜の目線から見た、人間の生態がどんななのか。

 また対等なパートナーとしての「人間以外」がいる社会というのは、「現代日本」という日常に比べて、どう違ってくるのか。

 そうした違いを描くことで、「人間とは何か」みたいなものが浮かび上がってくる。


 ファンタジーにおける、非日常と日常の対比は、異化効果を生じさせる。その異化効果によって生じる、新しい意味とは何か?

 そこまで考えて、非日常と日常を対比させなければならない。

 そこまで考えての「ファンタジーとは非日常である」なのだ。


■ファンタジーとは世界設定の練り込みである:1

 では次に「ファンタジーとは世界設定を練り込むことだ」という定義について。

 さっと反証を行ってみよう。


 『シンデレラ』の魔法の馬車には、世界設定など存在しないよ?

 では『シンデレラ』はファンタジーではない?


 納得できないなら、冒険者がいて、魔法はテクノロジーであるという世界を考えてみよう。

 こうした世界の設定を練り込んだとする。しかし、この世界において魔法はあって当然。つまりは日常の存在だ。

 どうやって、どこと、非日常との対比を行う?


 練り込まれ過ぎた設定は、非日常ではない。下手をすると、もうひとつの日常、別世界を記録した歴史資料となってしまう。


 ならば、その設定は本当に必要なのか?

 何のために設定があるのか?

 から考えないと「ファンタジーとは設定である」とは言えないのではないだろうか。


■ファンタジーとは世界設定の練り込みである:2

 どうにか、日常と非日常との対比関係のある設定ができたとしよう。

 となると、作者としてはそこを強調したい。では、どうやるのか。


 竜の民の話ならば、大事なのは人と竜との対比だということになる。

 ところで、よくあるライトノベルのファンタジー批判に、貨幣経済や度量衡のことを考えていない、というものがある。

 しかし、この話で作者が言いたいのは、人と竜との関係だ。


 人も竜も関係ない、貨幣価値の上下とか、両替の話を延々と聞かせる必要はあるだろうか。

 この世界の歴史を語るとして。竜の存在によって、どう国が興ったり滅んだりしたかを、読者は知りたいはずだ。

 作中の登場人物という、赤の他人が権力争いする様子とか、基本どうでもいいだろう。


 このように、本編と関係ない情報を延々と読まされても冗長なだけ。読者としては読むだけ無駄。つまり、つまらない。

 不用な情報が増えると、どうしてもそちらへ余所見してしまう。大事な箇所へ注目できなくなる。


 だから不要箇所は切り捨てる。さもなくば、どうでもいい箇所は薄く、さっと描く。

 対し、強調したい箇所は濃密に描く。

 つまり、設定には濃淡があるべきなのだ。


 練り込むのが良いだろうからと、全ての細部を設定しても、読者は覚えきれない。

 設定の練り込み過ぎは、むしろ邪魔になる。


 『シンデレラ』ならば、誰も設定に注目しない。だから設定は凝らなくていい。

 作品によって、時には設定しないという判断も必要とされる。あえて技を使わないというのも、高度な技なのだ。


■ファンタジーとは世界設定の練り込みである:3

 設定とは細部に凝れば良いというものではない。

 設定に凝るとしても、効果的なコツというものがある。


 例えば竜の民の話ならば。

 人間の方は「現代日本」と大して変わりないだろうから、読者が興味を持ってくれるのは難しい。ならば竜の方に凝るべきだ。

 ならば、ディテールにストーリーとしての伏線を入れてやる。ドンデン返しとしてのギミックを入れるのも良い。


 すると、竜の正体が実は……みたいなのはどうか。

 元は人類だった。古代の生物兵器だった。人を見守る神だった。人類進化を見守る、宇宙のオーバーロードだ。

 あくまでストーリーのための設定。物語と関係のある細部を仕込もう。


 そうすると、テーマみたいなものが浮かび上がってくる。

 竜は元々人類だった。だが理由があって、姿を変えた。なぜか。

 竜は古代の生物兵器だった。ならば、今はどうして平和に暮らせているのか。


 なぜ「テーマみたいなもの」が浮かび上がってくるのか。これが異化効果による、新しい意味というものだ。

 物語のテーマとは言葉で説明するものではない。こうして物語の中でぼんやりと浮かび上がらせる。感じさせてこその設定だ。


■ファンタジーとは……

 さて質問だ。

 ライトノベルのファンタジーは、非日常を扱っていない。設定を凝っているわけでもない。そのような作品が多くある、ような気がする。

 ではライトノベルのファンタジーは、いわゆる「本当のファンタジー」ではないのか?


 答え、ファンタジーに決まってるじゃないですか。

 非日常も設定も、ファンタジーを味付けする技法のひとつに過ぎない。ファンタジーだからと、必ず使わなくてはいけないわけじゃない。


 だから『シンデレラ』に非日常と世界設定もあるとは限らないが、やっぱり『シンデレラ』はファンタジーなのだ。


 もちろん非日常や設定は、ファンタジーにおける大きな武器ではある。けど、いちツールに過ぎない。

 トンカチを持つと、どうしても何かを叩きたくなるもの。しかし木を切るのなら、ノコギリに持ち替えた方がいい。


 有効な技法だからと言っても、使わないのは人の自由。他人にとやかく言われる筋合いはない。

 ライトノベルのファンタジーには、独自の技法というのがある。

 トンカチとノコギリ、どちらが優れた道具だと比べても意味がない。けど上等なトンカチと、使いにくいトンカチという差ならある。


 非日常も世界設定も確かに、ファンタジーにとって有効な「大きい技法」だ。

 しかし「大きい技法」だからと、それがジャンルの全てだと勘違いするのは、よくある話だ。


 我々がすべきは「とは論」により、他人のやり方を批判するのではなく。自分に合ったツールを探し、磨くことではなかろうか。

 だからファンタジーを「とは論」で狭く捉えていないで。広く考えてみよう。

 ファンタジーとは、懐の大きなものなのだから。


人間は限りなく新しい形を作り出せますし、新しい概念を考えることが出来ます。これが私がファンタジーを大切にする理由です。なぜならファンタジーとは新しい概念を考え出すこと、新しい価値に置き換えることに他ならないからです。つまりこれが想像力なのです。《引用元:ミヒャエル・エンデ》

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