非日常や世界設定のファンタジー技法
■ファンタジーとは論
ファンタジーとは何か。
ボクの持論を最初に言っておこう。ボクの「ファンタジーとは論」は、ミヒャエル・エンデに大きな影響を受けている。
すなわち、ファンタジーとは人の想像力だ。
とてもフワッとした定義だと思われるだろう。
人の想像力だから、何でもアリ。モテたい、金が欲しい、ぶっ殺したい。全て等価にファンタジーとなる。
ただ高級食材が生ゴミにも、美食にもなるように。岩から石像が掘り出されることも、石ころになることもあるように。
想像力から、犯罪も、妄想も、芸術も生まれる。全てファンタジーだ。
では、世の中にある「ファンタジーとは論」にはどのようなものがあるだろうか。例えば、ファンタジーとは非日常を描くことだ。ファンタジーとは世界設定を練ることだ。
この辺りが有名だろう。うん、それらもファンタジーだね。
ただし非日常も世界設定も、ファンタジーの一部だとボクは考える。
というのも非日常や世界設定が、ファンタジーの全部だとすると無理が出てしまうからだ。
■ファンタジーとは非日常:1
ファンタジーとは非日常を描くものである、という。
けど、それって本当だろうか?
非日常とは何か。日常的ではないものだ。
日常的とは何か。普段よく見るもの。当たり前のもの。
つまり、滅多に見ることができないもの。当たり前ではないものこそ、非日常だということになる。
では、こんなストーリーを考えてみた。
《例》
竜と共に暮らす民がいた。竜は賢く偉大な生き物で、人と対等なパートナーだ。そんな彼らの代わり映えのしない毎日を描いただけの小説。
さて、このストーリーはファンタジーか否か。
竜が出るのだから、きっとファンタジーだろう? しかし非日常は描いていないよ?
さらに追求して考えてみよう。
《例》
冒険者のいる世界。魔法はテクノロジーであり、誰でも習得可能。珍しさはあれ普通に存在する。
魔法があるから、このストーリーはファンタジーだろうか? でも、この世界で魔法は非日常の存在ではないよね。
ファンタジーとは非日常であるとするなら、では何と比べて「違う」から上記の例はファンタジーなのだろうか?
■ファンタジーとは非日常:2
ファンタジーとは非日常である、という考えに対して。
さてボクなりの答えというか、持論を披露しよう。
異世界の日常を描いた物語は、どこが非日常なのか。
我々の住む世界を「現代日本」という言い方をするとして。この「現代日本」と比べて非日常的だから、ファンタジーになるのではないだろうか。
非日常とは日常と「違う」ことだ。
ならば「現代日本」という日常との比較により、違いが生じるから「現代日本」人としては、ファンタジーだと思ってしまう。
上記の例にあった竜の民の日常も、竜のいない「現代日本」の日常と比べるから、非日常的だと感じてしまうのだろう。
■非日常のあり方
良かった、非日常は確かに存在した。さあファンタジーの成立だ、と信じるのは危険だ。
非日常があれば、良いファンタジーになるとは限らない。
《例》
ハナのモゲラはナモゲによってハナモゲラする。
非日常があればファンタジーになるというから、非日常を並べてみました。これはこれで、何一つ共感できない。
非日常にファンタジー感を覚えるには、とっかかりが必要なのだ。非日常とは、日常の対義語。非日常は日常との比較・対比によって生じる。
この日常と非日常をどう対比させるかで、ファンタジーという枠は驚くほど広がってしまう。
《例》
現代日本が舞台。夕飯を食べようとしたら、フォークに足が生えて逃げ出した。
これは「日常の中の非日常」ということになるだろう。
竜の民の一日を描いた。これは非日常という日常を描いている。
しかしここへ、竜を狩る帝国の魔の手がやってきたとする。非日常という日常へ、入り込む非日常だ。
ハナモゲラは非日常へさらに非日常をかぶせている。非日常のみで、日常との対比がない。
ということは、本当にこうした作品があったとして。ハナモゲラは日常と非日常の対比に頼らない。恐らくは他の方法論で作られた作品となるだろう。
■異化効果
しかし、非日常は日常との対比の中でしか存在しないとは言ったが。ではなぜ、非日常と日常を対比させなければならないのだろうか?
ボク個人の考えとして、非日常と日常の対比は、文学における「異化効果」を生み出していると思うのだ。
「異化」とは、既存の物事を改めて表現し直すことによって、新しい意味を見いだすという文学用語だ。純文学や詩では、基本中の基本といえる。
《例》
人間にとっては当たり前の生活も、猫の視点からすると奇妙に見えたりする。
これが竜の民ならば、どのような異化効果が生じるのか。
人間と対等な、竜という存在がいる。すると竜の目線から見た、人間の生態がどんななのか。
また対等なパートナーとしての「人間以外」がいる社会というのは、「現代日本」という日常に比べて、どう違ってくるのか。
そうした違いを描くことで、「人間とは何か」みたいなものが浮かび上がってくる。
ファンタジーにおける、非日常と日常の対比は、異化効果を生じさせる。その異化効果によって生じる、新しい意味とは何か?
そこまで考えて、非日常と日常を対比させなければならない。
そこまで考えての「ファンタジーとは非日常である」なのだ。
■ファンタジーとは世界設定の練り込みである:1
では次に「ファンタジーとは世界設定を練り込むことだ」という定義について。
さっと反証を行ってみよう。
『シンデレラ』の魔法の馬車には、世界設定など存在しないよ?
では『シンデレラ』はファンタジーではない?
納得できないなら、冒険者がいて、魔法はテクノロジーであるという世界を考えてみよう。
こうした世界の設定を練り込んだとする。しかし、この世界において魔法はあって当然。つまりは日常の存在だ。
どうやって、どこと、非日常との対比を行う?
練り込まれ過ぎた設定は、非日常ではない。下手をすると、もうひとつの日常、別世界を記録した歴史資料となってしまう。
ならば、その設定は本当に必要なのか?
何のために設定があるのか?
から考えないと「ファンタジーとは設定である」とは言えないのではないだろうか。
■ファンタジーとは世界設定の練り込みである:2
どうにか、日常と非日常との対比関係のある設定ができたとしよう。
となると、作者としてはそこを強調したい。では、どうやるのか。
竜の民の話ならば、大事なのは人と竜との対比だということになる。
ところで、よくあるライトノベルのファンタジー批判に、貨幣経済や度量衡のことを考えていない、というものがある。
しかし、この話で作者が言いたいのは、人と竜との関係だ。
人も竜も関係ない、貨幣価値の上下とか、両替の話を延々と聞かせる必要はあるだろうか。
この世界の歴史を語るとして。竜の存在によって、どう国が興ったり滅んだりしたかを、読者は知りたいはずだ。
作中の登場人物という、赤の他人が権力争いする様子とか、基本どうでもいいだろう。
このように、本編と関係ない情報を延々と読まされても冗長なだけ。読者としては読むだけ無駄。つまり、つまらない。
不用な情報が増えると、どうしてもそちらへ余所見してしまう。大事な箇所へ注目できなくなる。
だから不要箇所は切り捨てる。さもなくば、どうでもいい箇所は薄く、さっと描く。
対し、強調したい箇所は濃密に描く。
つまり、設定には濃淡があるべきなのだ。
練り込むのが良いだろうからと、全ての細部を設定しても、読者は覚えきれない。
設定の練り込み過ぎは、むしろ邪魔になる。
『シンデレラ』ならば、誰も設定に注目しない。だから設定は凝らなくていい。
作品によって、時には設定しないという判断も必要とされる。あえて技を使わないというのも、高度な技なのだ。
■ファンタジーとは世界設定の練り込みである:3
設定とは細部に凝れば良いというものではない。
設定に凝るとしても、効果的なコツというものがある。
例えば竜の民の話ならば。
人間の方は「現代日本」と大して変わりないだろうから、読者が興味を持ってくれるのは難しい。ならば竜の方に凝るべきだ。
ならば、ディテールにストーリーとしての伏線を入れてやる。ドンデン返しとしてのギミックを入れるのも良い。
すると、竜の正体が実は……みたいなのはどうか。
元は人類だった。古代の生物兵器だった。人を見守る神だった。人類進化を見守る、宇宙のオーバーロードだ。
あくまでストーリーのための設定。物語と関係のある細部を仕込もう。
そうすると、テーマみたいなものが浮かび上がってくる。
竜は元々人類だった。だが理由があって、姿を変えた。なぜか。
竜は古代の生物兵器だった。ならば、今はどうして平和に暮らせているのか。
なぜ「テーマみたいなもの」が浮かび上がってくるのか。これが異化効果による、新しい意味というものだ。
物語のテーマとは言葉で説明するものではない。こうして物語の中でぼんやりと浮かび上がらせる。感じさせてこその設定だ。
■ファンタジーとは……
さて質問だ。
ライトノベルのファンタジーは、非日常を扱っていない。設定を凝っているわけでもない。そのような作品が多くある、ような気がする。
ではライトノベルのファンタジーは、いわゆる「本当のファンタジー」ではないのか?
答え、ファンタジーに決まってるじゃないですか。
非日常も設定も、ファンタジーを味付けする技法のひとつに過ぎない。ファンタジーだからと、必ず使わなくてはいけないわけじゃない。
だから『シンデレラ』に非日常と世界設定もあるとは限らないが、やっぱり『シンデレラ』はファンタジーなのだ。
もちろん非日常や設定は、ファンタジーにおける大きな武器ではある。けど、いちツールに過ぎない。
トンカチを持つと、どうしても何かを叩きたくなるもの。しかし木を切るのなら、ノコギリに持ち替えた方がいい。
有効な技法だからと言っても、使わないのは人の自由。他人にとやかく言われる筋合いはない。
ライトノベルのファンタジーには、独自の技法というのがある。
トンカチとノコギリ、どちらが優れた道具だと比べても意味がない。けど上等なトンカチと、使いにくいトンカチという差ならある。
非日常も世界設定も確かに、ファンタジーにとって有効な「大きい技法」だ。
しかし「大きい技法」だからと、それがジャンルの全てだと勘違いするのは、よくある話だ。
我々がすべきは「とは論」により、他人のやり方を批判するのではなく。自分に合ったツールを探し、磨くことではなかろうか。
だからファンタジーを「とは論」で狭く捉えていないで。広く考えてみよう。
ファンタジーとは、懐の大きなものなのだから。
人間は限りなく新しい形を作り出せますし、新しい概念を考えることが出来ます。これが私がファンタジーを大切にする理由です。なぜならファンタジーとは新しい概念を考え出すこと、新しい価値に置き換えることに他ならないからです。つまりこれが想像力なのです。《引用元:ミヒャエル・エンデ》




