⑬噂
「先輩、来月頭の飲み会って行きます?」
A駅での勤務中。券売窓口業務に入る佐藤くんに聞かれ、
「うん。日勤だからって事で入れられた。」
改札業務に入る自分がそう答える。すると、
「マジですか?!そっかー、行かれるのかぁ…」
何か自分が行くとマズいような言い方で佐藤くんが話すので、
「何?行くとなんかマズい事でもあんの?」
そう佐藤くんに尋ねると、
「いや、その来月からC駅に赴任してくる係長、富山さんと昔何かあったみたいなんですよ。」
佐藤くんのその発言で一瞬思考が止まり、頭の中が真っ白に。
「え…、いや、なんでそんな事知ってるの?」
出来る限り動揺を隠しつつ、佐藤くんにその事について問いかける。
「以前、C駅にいた辻さんからの情報です。」
当直机と横に並んだ机の椅子に腰掛けた辻さんの方を見ながら、
「…ホントに?」
「聞いた話だと、その係長、以前も少しC駅にいた時期があるらしくて。それが辻さんが入社する一年前の話みたいなんで、富山さんが新人の頃だと思うんですけど。辻さん自身も噂程度でしか知らないようで、詳しい事は全然知らないみたいなんです。」
それを聞いて、
「ほら、噂でしょ?そんなの信憑性全くないじゃん。」
「まぁそうですけど、気になりません?」
当然、めちゃくちゃ気にはなる。だが、
「…気にしてもしょうがないじゃん。考えたところでわからないんだからさ。ほら、仕事、仕事。」
そう言って、はぐらかしたものの、胸のざわめきが止まらなかった。
この日は昼の食事休憩後、少し長めの窓口業務に入り、その後、30分程の少し長めの休憩時間がある。その時間、休憩室に入ると、今日は日勤業務で入っている女性社員の平山さんが、一人、室内の窓拭き掃除をしている。彼女は、今年入社したばかりの高卒入社組の一人。普段は物静かで大人しい性格だが、新人の中でも人一倍勉強熱心な頑張り屋だ。
「掃除?」
声をかけると彼女も気付いた様子でこちらへ振り向き、
「あっ、宮島さん、お疲れ様です。はい、当直に頼まれました。」
「一人でやるのも結構大変なんだよねぇ。ガンバレー。」
「はい、ありがとうございます。」
そのまま自販機で缶コーヒーを買い、テーブルの椅子に座って休憩をしていると、休憩室に一人、辻さんが入って来られた。
こちらが挨拶しようとすると、自身の人差し指を口元に当て、静かにしているようにと自分に促しながらゆっくりとした足取りでこちらに近付いて来る。少し不思議に思いながらも、辻さんの方を見ていると平山さんが掃除をする窓側の方へ。
真面目に窓拭きをしている平山さんは辻さんには全く気付いていない様子。辻さんはその平山さんの後ろにそっと近付くと、口元に当てた人差し指を離し、窓拭きをしていてがら空きとなっている彼女の左右両サイドの腰のくびれ部分を自身の両手の人差し指でいきなり同時に突っついた。
「キャーッ!!」
その瞬間、彼女は休憩室中に響く程の大きな声を出したかと思うと、その場にしゃがみ込み、そのまま膝を抱えうずくまってしまった。
その姿を見て、流石に自分も堪忍袋の緒が切れ、
「ちょっと!辻さん!!」
声を荒げ、椅子から立ち上がり、うずくまる彼女の元にすぐに駆け寄る。
一方、辻さんは、
「キャッキャッキャッキャッ!驚いた?!驚いた?!キャッキャッキャッキャッ!!」
その場にうずくまる彼女を指さしながら、その場で大笑いをしている。自分は、もうこいつはダメだと思い、
「流石に今のは、見過ごせません!何してるんですか!彼女、うずくまってるじゃないですか!!」
自分の身を守るようにしてその場にうずくまる彼女を見るとその背中が少し震えている。
「ちょっと驚かせただけじゃない。」
彼は、悪びれた様子もなく、なぜか表情が緩んでいる。
「驚かしただけ?!恐くて震えてるじゃないですか!!」
彼女はまだ立ち上がれずに怯えている様子。
ここで話すのは彼女にとっても良くないと判断し、
「とりあえず、ここを出て話しましょう!」
自分と共に彼を室内から連れ出し、休憩室から少し離れた廊下の隅で、先ほどの事柄について彼と話をする事に。
「何であんな事をするんですか?!」
まず自分が彼に問い詰める。
「いや、驚かせただけじゃない?ほら、ほっぺたを突っつくみたいなもんだよ。」
へらへらと笑いながら話すその姿を見て、この人は全く理解していない、何も理解出来ていない事を悟る。そして、
「子供の悪戯じゃないんですよ!彼女は、社会人で大人の女性なんです!女性が背後から急にあんな事をされたら嫌に決まってるでしょ?!怖いに決まってるでしょ?!なんでそれが分からないんですか?!」
語気を強めて彼に話す。すると、
「けど、あの子は何も言ってきてないじゃん。」
また悪びれた様子も無く、こちらがカチンとくる発言を平然とされて、
「いや、言えないんですよ!怖くって!背後から急にあんなセンシティブなところを触られて!おそらく彼女は襲われたような感覚だったと思いますよ!」
彼はこちらの話を黙って聞いている。
「辻さんにとっても彼女は後輩かもしれませんけど、自分にとっても後輩なんですよ!後輩の子が、目の前であんな事をされて、怖がってて、黙ってられる訳ないでしょ?!」
そう話し、彼に少し詰め寄ると、
「あれは自分はセクハラだと思います!」
真剣な表情から発した自分のその言葉に、
「ちょっと、セクハラだなんて、そんな大げさな。」
こちらが冗談で言ったように聞こえたのだろうか。まだ半笑いで言葉を返してくる。そして、こちらが冗談ではないという姿勢を彼にはっきりと理解させる。
「大げさ?あれがセクハラでないんなら、何がセクハラになるんですか?!言ってみて下さいよ!辻さん!」
彼に詰め寄り、
「言ってみて下さい!!」
自分に問い詰められ、本人もしばらくその場で黙って考え込む。そして、
「…胸を触るとか?」
その答えに自分は頭を抱える。
「胸を触るって…もはやセクハラを通り越して、犯罪じゃないですか?!その認識はヤバ過ぎますよ!本当に!!」
彼は下を向き考え込む。そして、
「怒ってる?」
「はい!!」
間髪入れずに放った自分の一言に、流石にこちらが怒っている事は理解出来たようで、彼の表情が変わり、
「…わかった。今日は宮島くんのその真剣な言葉を聞く事にするよ。」
何かこちらが聞いていても違和感の残る、微妙にズレたその返答に、
「いや、“今日は”じゃなくて!今後、ああいう事をするのは絶対にやめてあげて下さい!!」
そう自分は言い放ち、彼女に対する先ほどのようなセクハラ行為を改めるよう、彼に強く念を押し、その意思を伝える。
「…わかった。」
彼は自分の肩を二度程ポンポンと叩き、休憩室とは逆の方向に立ち去って行く。自分は彼が休憩室へと戻らないようその場にじっと立ち、その姿が見えなくなるまで彼の後ろ姿を見つめていた。そして、頭を傾げながら、
《ホントに分かってんのかよ?あの人は?》
彼の後ろ姿も見えなくなり、休憩室の方へと戻る。
「大丈夫?!」
休憩室に戻ると、また窓拭き掃除を続ける平山さんに一声かける。彼女は作業を止め、こちらへ振り向くと申し訳なさそうな表情で、
「すいません、宮島さん。ありがとうございました。」
そう自分にお礼を言うので、自分は首を横に振り、
「謝らなくっていい。」
そう彼女に伝えた。
そう、彼女は何も悪くない。彼女はただ掃除をしていて、真面目に仕事をしていただけじゃないか。悪いのは全部あの辻さんだ。どうしてああいう事をする人達は、こちらが何度注意をしても理解してくれないのだろう。憤りを覚えながら、テーブルに置いたままのコーヒーの空き缶をゴミ箱に捨て、休憩室を後にする。その足でロッカールームの方へと歩きながら、自分は少し考え事をしていた。それは、彼の発言の中でとても引っかかる言葉があったからだ。
《“今日は”って事は、日頃からああいう事を他の女性社員にもしてるんじゃないか?》
一抹の不安が頭をよぎる。
それにしても、本当にイライラして気分が悪くなる。
こういう日は、帰りにコンビニにでも寄って、甘いスイーツでも買って帰ろう。
今の気分だと、杏仁豆腐とチョコレートケーキかな。うん。