表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/17

①カオス



「人生とは、思い通りにはいかないものだ。」



自分は、とある鉄道会社に勤める27歳の契約社員。名前を「宮島ケンタ」という。大学を卒業後、一度は婦人服メーカーへと就職。勤め先の店舗には、母親ほど年の離れたベテラン女性社員の方が多く勤められ、厳しくも温かい言葉で接客のノウハウを日々教えて頂きながら、少しずつこの仕事にやりがいを感じ始めていた。



ところが入社二年目の春、突如自分の勤める店舗が経営不振から閉店をする事に。更におみくじで大凶を引いてしまったかのように、唐突に店長から自身のクビを伝えられた。もし、人員削減の為、どうしても社員を一人切らなければならない場合、太客がいるベテランの女性従業員か、はたまた二年目の新人男性従業員か、どちらを切るべきかは容易に自分でも理解出来たはずなのだが、当時はショックのあまり数日間寝込んでしまった。



そんな時に、自分を救ってくれたのが「くるり」というバンドの「Baby I Love You」という曲だった。その曲は、仕事帰りによく立ち寄っていたCDショップで購入したアルバムの中に収められていた一曲。特にサビのメロディがとても温かくて印象的で、なんだか誰かに頭を撫でられながら「大丈夫だよ。」と言ってもらえているような気がして。一人、ベッドの上で布団に包まりながら、この曲をずっと部屋に流して聴いていた事を思い出す。



正直、少し時間はかかった。けれど、落ち込んでいる暇もなく再就職に向けた就職活動をスタート。そして幸いにも契約社員の中途採用の募集のあったこの鉄道会社へと、年内に再就職する事が出来た。駅員の採用募集に応募した決め手は主に二つ。一つ目は、駅員の仕事も接客業なので、前職で積み上げたスキルを多少は活かせると思ったから。二つ目は、高校生の頃、駅で落とし物をした際の駅員さんの対応がとても親切だったから。自分にとっては後者の理由が一番大きかったかもしれない。



採用決定後、一ヶ月程度の研修期間を経て、このA駅に着任した。この駅での自身の主な仕事内容は、改札窓口に立って切符やICカードの処理等をする改札業務。また切符の発券や定期券発行等の券売窓口での販売業務。更に駅構内の掃除やパンフレット補充、ポスター掲載等々多岐にわたる。業務はシフト制の為、時間帯によってはA駅管轄内の最寄り駅である「B駅」、「C駅」、「D駅」へと出向いて、その駅の改札業務や窓口業務を行う事もある。最初の頃は、先輩上司からの雷の嵐だったが、今では業務にも慣れ、最近では少しずつだが「D駅」への泊まり業務も任されるようになってきた。



そして現在、自分はA駅での改札業務中。主に改札窓口に立って、列車の発着時、遅延時の駅構内の放送業務や改札機に反応しなかった利用者のICカードや切符の処理等を行っている。



このA駅は県内で一番大きな駅。そのため利用者も多く、平日の通勤通学のラッシュ時間が最も多い印象だが、今日のような休日でも観光で来られるお客様の数が最近増えてきた。



今日は若いカップルの利用者が多く、近くで何かイベントが催される模様。その事を改札窓口とL字で連なる券売窓口で自分と共に業務を行う後輩の佐藤くんに話すと、今夜、駅近くの会館で人気アーティストのライブが行われるらしい。互いに最近ライブにも行けていない事をため息交じりに話していると、一組の若い男女のカップルが駅ホーム側から通路を歩き、こちらの方へと向かって来られる。



「あの、切符の処理をお願いします。」


二枚の切符を差し出す彼女の後ろで、彼氏らしき男性が腕組みをしながら、こちらの様子を窺っている。



「切符を拝見しますね。」


彼女から切符を受け取ると、



「差額のお支払いですね。お一人の差額が30円ですので、お二人で60円になります。」


金額を聞き、彼女が財布から小銭を取り出そうとした次の瞬間、急に彼氏が彼女の背後へと駆け寄り、両手を伸ばしたかと思うと、まるで後ろから抱き付くかのように彼女の両脇から腕を回し、そのまま彼女の胸を全力で揉み始めた。

あまりにも唐突でカオスなその光景に、一瞬、時が止まったかのような感覚を覚えながら、自分は目の前で行われているその行為から少し目線を逸らす事しか出来ずにいた。


《自分は一体、何を見させられているのだろう?》


そう思いつつ、目のやり場に困っていると、彼女は顔を少し赤くしながらも、得に嫌がる素振りも見せずに差額を支払い、彼氏はというと、顔色一つ変えることもなく、こちらへ見せつけるかのようにして終始、彼女の胸を揉み続けていた。



「ありがとう…ございました…。」


支払いを終え、何事もなかったかのように出口の方へと立ち去る二人の姿を見つめながら、その衝撃的でカオス過ぎる光景がまだ脳裏から離れない自分は、言葉を失い、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。すると、



「何なんですか、今の変態カップル?!ヤバくないですか?!」


同じく券売窓口から事のいきさつを見つめていた佐藤くんの声で、自分もふと我に返る。



「…なんだか、ちょっと今は、言葉が見つからないわ。カオス過ぎて…。」


お互いに目を見合わせ、辿々しく言葉を交し苦笑いを浮かべる。そして、駅構内を行き交う人の流れに溶け行くように出口の方へと消えて行くあのカップルの後ろ姿を眺めながら、



「デカかったっスね、彼女の胸。」


佐藤くんのその言葉に、



「こらこら。」


とそうツッコミつつも、自身、目の前でいの一番に同じ事を考えてしまっていたこの邪な心の方が余程恥ずかしい。

もしもこうした場面で、近くにいたのが女性社員だったのなら、想像を絶する程に気まずい空気になっていた事だろう。

特に富山さん。彼女なら何と言われていた事やら。先日も彼女から大きな雷を落とされたばかりだ…。




「…あんたねぇ、もう三年目にもなるのに、なんでこんな初歩的なミスを繰り返すわけ?!」



数日前、昼下がりの休憩室。先輩の富山さんから切符の発券業務でのミスを指摘され、返す言葉も見当たらず、自分はただ下を向くばかり。

富山さんは、年齢は自分と同い年だが、短大卒業後に契約社員として入社。一昨年、正社員試験を合格し、晴れて正社員となられた自分の目指すべき先輩の一人だ。



「もう後輩もいるんだよ?恥ずかしくないの?!」


今、怒られているこの姿を休憩室にいる後輩達に見られている事が一番恥ずかしい。



「私も言いたくないよ!けど、同級生のあんたがこんな簡単なミスを続けてるのを見てて、私は凄く腹が立つの!わかる?!」



静まりかえる休憩室に、テレビ番組の笑い声だけが聴こえている。



「もうそのへんにしといたれ。宮島泣いてまうぞ。」


結局、上司の北尾係長が間に入ってくれたおかげで渋々富山さんも説教を止めた。がしかし、



「迷惑だから!ちゃんと真剣に取り組むように!!」


休憩室を退室する富山さんから、最後にそう強く念を押されてしまった。


その日の業務を終え、ロッカールームで帰り支度をしていると佐藤くんがロッカールームに入ってくるなり、



「いやー、相変わらず富山さんきついっスよね。」


昼間の叱責を彼も聞いていたらしく、自分のロッカー前で駅の制服を脱ぎながらその話をこちらに振ってくる。



「仕方ないよ、自分が悪いんだから。」


自分がそう話すと、



「けど誰だってそういう事あるじゃないですか?ミスしたり、間違ったり。したくてしているわけじゃないんですし。俺から見ててですけど、富山さんの宮島さんに対する怒り方って、ちょっと俺らとは違うんですよね。何か俺らに怒ってる時より、また一段と厳しいっていうか…。」


その佐藤くんの言葉に、



「まぁ、同級生の後輩だから。叱咤激励してくれているんだよ、きっと。感謝しなきゃ。」



帰りの電車に揺られながら、富山さんの仁王立つ姿と怒号がエンドレスに頭の中を流れ、ため息交じりに窓を眺める。



《向いてないのかなぁ。この仕事。》



こういう日は、帰りに何か美味い物でも買って帰るのが一番だが、今日はその気にさえならない。早く帰って、寝て忘れよう…。




…そして、



結局のところ、あのカップルの改札でのカオスな残像と、あの日の富山さんの叱責する顔が、サイケデリックに頭の中でぐるぐると混ざり合い、出勤されていないはずの彼女に何故かまた怒られているような気がして、今日も気分のへこむ自分であった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ