86. 愛猫のいる朝
ディビナス帝国には、大聖樹〈ユグコットル〉と呼ばれるとても大きな樹木がある。天を貫く程高く、人間でさえ子猫と変わらないと思わさせる程に、その幹は太くて逞しい。常識から外れた大きさから『神様の気まぐれ』とも云われるその聖樹には、化猫が住み着いている。
彼らは聖樹を軸として足場を組み立てて、地上から遠く離れた場所に安寧の棲家――村を作り上げていた。何の脅威に怯える事もない高所で、日向ぼっこをしたり、お昼寝をしたり。子猫は無邪気に戯れあい、それを遠目で大人達が見守って。それはそれは、とても穏やかに暮らしていた。
そしてそんな幸せの詰まった化猫の村には、たった一人だけ人間も暮らしていた。人間社会に居場所を失った、「ティナ・エイミス」という齢十三の人間。
それが私。
私が化猫の「レイ」と出会って、この村で暮らすようになってどれぐらいの月日が経ったんだろう。あまりにも穏やか過ぎる日々に、時間の感覚が曖昧になってるみたい。でも、それも全然悪い気はしない。村の猫達は人間の私を受け入れてくれて、とても優しく接してくれる。人の社会で暮らしていた時よりも、心に余裕を持てるようになった。
レイが設計図から描いて、仲間達と一緒に建ててくれた『人間の家』。これも私の快適な猫の村生活の支えになっていた。
レイは野生育ちで、人間の町には降りた事はない。もちろん、人間の家だって見たことはないはずだ。
それなのにレイは、人間の家を完璧以上に仕立て上げてくれた――いや家だけじゃない。テーブルや椅子。ベット。布団。食器類。その他色々の家の中にある小物類を、人が作る以上のクオリティで作り仕上げてくれた。
レイは自分の持つ能力「上感覚」のお陰って言ってたけど、そう言った時のレイの目は泳いでいた。
レイがよく頼りにしてる豹柄のお兄さんも、レイについては思う事もあるようだったけど、『本人が言いたがらないなら無理に聞くのも野暮だ』って、半ば諦めたように言っていた。確かにそう言われて私も、その通りだと思った。
だから私は、レイが抱えてる秘密を明かしてくれるまで待とうと思う。何もないならこんな違和感なんてすぐに忘れると思う。レイの鋭い感覚なら、私が違和感を覚えてることにも気がついてくれると思うから。今はレイのことを信じてみよう、って思った。
それに、この幸せな日々に、私も水は差したくなかったから。
***
「いただきまーす!」
両手を合わせて、元気よく食事の挨拶をする獣人姿のレイ。レイは食事を目の前にして、そのお月様みたいな黄色の瞳をキラキラと輝かせていた。
化猫には『変化』という技能がある。普段は子猫の姿をしているレイも、食事の時は獣人の姿になって私とテーブルを囲んで食事をしてくれる。
レイは私の作る料理を美味しそうに食べてくれる。それを近くで見るのが、最近の私の密かな幸せだったりする。
「うん! やっぱり人の食べるものはいいね。こんな美味しい料理ができるなんて、やっぱりティナはすごいよ!」
レイは頬に手を当てて幸せそうに微笑む。レイの持つ能力「上感覚」は、味を感じることにも敏感だ。と言っても、レイがこれまで食べてきたものというと、味付けのしてない生野菜と生肉。それと比べたら、味付けがしてあって火の通った暖かい料理は、それは美味しく感じるよね、って言うのは心から思う。
それでもやっぱり、この瞬間までちょっとの不安は拭えなかったりするけど。私はレイの反応を見て、密かにそっと胸を撫で下ろす。
因みに、レイとの朝ごはんは毎日の習慣になってる。
私がこの家で暮らして間もない頃の事。レイは私の事を気遣って二日に一回、私のベットで添い寝してくれる様になった。もちろん子猫の姿でね。それで添い寝の日は朝ごはんも一緒に食べるようになったんだけど、気がつけば添い寝の日じゃなくても、朝食前には家に来てくれるようになった。
レイは五ツ子の内の長男で、たまに弟妹達を連れてきて来たり、本当に立ち回りの上手な子だと思う。
私は幸せいっぱいのレイを横目に、自分で作ったスープを口に含む。
薄味で野菜の切り目も荒い。レイはこれで喜んでくれてるけど、それは調理してない食べ物と比べて良いっていうだけ。正直今日も、私の満足できる出来だとは思えなかった。
「レイが色々用意してくれたからだよ。食材も作るものも場所も。でも……」
でもそれは、私の知ってる味じゃない。
私の好きだった味じゃない。
お母さんから料理を教えてもらったことなんて、数えられるぐらいしかなかった。お母さんの作ってくれるスープは心からあったまったし、美味しいって思えた。でも、もうあの味はどこにもない。
お母さんはもう、この世にいないから。
私はそっと、木製のスプーンを机に置いた。
それを見てすかさずレイは、私の隣まで椅子をずらす。少し俯き気味の私をレイは、心配そうに覗き込んだ。
「……気休めにもならないかもしれないけどさ。僕ができるのは、この料理が本当に美味しいって、近くで伝えることぐらい。ティナはもっと自信持っていいんだよ。ティナにはティナの良さがあるんだからさ。できない事を数えるんじゃなくて、できることを褒めて伸ばしていこ。ね?」
泣きそうになる私の肩に手をポンと置いて、レイは優しく微笑む。いつもそうだ。私はレイの優しさにいつも縋ってしまう。レイの方が私よりも八つ年下で、しかも猫で、私が人としてお姉さんにならなきゃいけないのに。
「うん。ありがとう…………ごめんね。せっかくご飯なのに」
レイはすかさず首を横に振る。どこまでも真剣なレイの瞳に、私は吸い込まれそうになる。
「我慢することなんてないよ。せめて僕といる時は素直になっていいんだよ。ティナはまだ子供なんだからさ。そんなまどろっこしいことなんて考えなくていーの…………あっ、まぁーその、ね? 年下の僕が言えたことでもないんだけどね」
レイは少し気まずそうに眉を下げて、私に微笑みかけた。その笑顔に私は、不意にドキッとしてしまう。さっきまでの後ろ向きの気持ちなんて、それで消し飛んでしまった。
初めて会った時は、そんなに気にならなかった。でも、猫の姿の時は当たり前として、獣人姿のレイもすごい可愛いと思う。幼くても男の子だから、直接言わないは言わないけどね。
私の事を救ってくれたあの夜の事で多分、私の中でレイをそういう目で見てるんだと思う。レイはそう言う感情に対しては疎くて、全然察してくれないけど。きっと私の事を他の弟妹達と同じで、護るべき対象として見てくれてるからなんだろうと思う。
でも、それでも「上感覚」を持つレイなら――
「……気づいてくれたって、良いのに」
「………っえ?」
思わず声に漏れてしまった。椅子から垂れるレイの尻尾がへの字に曲がる。それは紛れもない不安の証。その顔も、どこか血の気が引いてるようだった。
どうやら深刻に捉えてしまってるみたい。レイは私の事を慰めようとしてくれてるのに、こんなんじゃダメだ。
「ご、ごめんね。そんな深い意味はないの。それを言うならレイも。私の前では素直、だよ?」
私の言葉にレイは心からホッとしたように、息を吐いて胸を撫で下ろした。私は申し訳ない気持ちに、胸がチクリと痛んだ。素直になれてないのは、紛れもない私の方なのに。
「うん! そ、そうだね。勿論だよ! ティナに嘘はつかない! 言いたいことも言うつもりだよ? まぁ僕の場合、言うってより漏れるって言うのに近いケド…………」
「うん、そういうところだね。レイのこと、ちょっと分かってきたかも」
私はレイの頭を優しく撫でる。
その一瞬、レイの猫耳がピコンと音を立てる様に反応する。でも、撫でられるレイの顔は少しムッとしていた。
猫の姿の時は撫でてあげると、気持ちよさそうに喉を鳴らしてくれるし、隙があると膝の上にも乗ってきてくれる。でも獣人姿の時は感覚が人と近いみたいで、撫でると少し不満な顔をすることが多いのだ。
「今の僕は人だからなしだよー。それは猫の時だけー」
上目遣いでささやかな抵抗を見せるレイ。そう言いながらも尻尾はピンと張ってるし、手を払い除けようともしないのがとても可愛い。
でもやり過ぎは禁物。猫がいくら可愛くても、嫌がる事をやり続けるのは猫好きとしてのポリシーに反する。だからせめて、獣人姿のレイを撫でるのは二人きりの時だけ。いや二人きりの時でも控えてあげないといけないんだけど。でも猫からこんな望まれた目で見つめられたら、猫好きとしてはどうしても抑え効かなくなってしまう。
今も目の前で手を退かさない私を、レイは少し潤んだ瞳で見つめている。
「……可愛い」
また思わず声に漏れてしまった。今日は特に自制が効いてない気がする。
レイは仄かに顔を赤くして、私から目を逸らしてしまう。
「ご、ご飯まだ残ってるから……それはまた後で、ね」
もじもじしながら横目でチラッと私を見て、またすぐ目を逸らす。私を慰めるために近づいてくれたのに、最近レイ相手だと理性が抑えられなくなってしまってる。この化猫の村唯一の人間だって言うのに、これじゃあダメだ。ちゃんとした人間として、猫への接し方は弁えないといけない。
私は気を取り直してレイから手を離す。するとレイは少し名残惜しそうに、私の手を目で追っていた。
でも、今は我慢だ。
「ごめんねレイ。でも、元気出たよ。ありがとう」
「うんん。それにやっぱりその…………家族の前じゃなければ人の時でも、ちょっとぐらいなら、いいよ……?」
レイは私から目を逸らしながら力無く呟く。
うん。これでお許しはもらった。後でたっぷり撫でてあげる事にしよう。その時はきっと猫の姿になってるんだろうけど、それでもレイである事には変わりないからね。
レイはたまに大人びたことを言ったり、不思議な知識を持ってたりするけど、こう言うふとした時に見られる甘えたがりな猫な一面が心に刺さる。
私はその後早々にご飯を食べ終えて、猫の姿になったレイを膝の上で飽きるまで撫で続けた。
そして、族長様への訪問って言う大事な用事を思い出したのは、日が高く登って少しした頃の事だった。
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