3. 『走馬灯』 その③
全力で体を動かそうとするも、ほんの少ししか動かない。もしこれ以上遅くなると一ミリメートルたりとも動かなくなるのだろう。そうなる前にどうにかしなければいけない。
全身の感覚が研ぎ澄まされている。まるで蜂蜜が満たされた空間を動こうとしている様だ。しかし、ここで止まれば終わりなき拷問が待っている、かもしれない。痛みや苦しみは依然として変わらないけど今の僕を支配しているのは恐怖一色だった。
刺されたのは心臓や肺ではなくお腹。太い血管や内臓が傷付けば致命傷なんだろうけど、今更そんなもの意識して避けられるわけもなし。
しかしこの現象。もし死が近づく程時間の流れが遅くなるというのであれば、死を遠ざけられれば解決はするのでは?
そんなことも考えたけれどどうにかできる手段なんて全く思いつかなかった。
そもそも僕はこの時間をゆっくりと認識しているけれど、だからと言って速く動けるわけじゃない。僕が身体を動かす速度よりも、勢いのついたナイフの方が進みは速いのは必然だ。
じゃあどうしたらいい?このまま何もできずに終わり?
そんなの嫌だ。
例えこのまま死にたどり着けたとしても、この男に一矢報いる事もできずに終わりたくない。この走馬灯が万人共通の現象だとしたら尚のこと。こんな地獄を何の罪もない人たちに味合わせるわけにはいかない。
――どうにかしなきゃ。
その一心で僕は全力でナイフの男へ腕を伸ばそうとする。間に合わないのはわかってる。でも、平凡な僕ができる抵抗なんてこれぐらいだ。あわよくばこのまま羽交締めにして時間を稼げれば、僕は無理でも他の人は逃げる時間ができるはず。とは言え僕の腕は一センチメートル程度しか動きを見せない。
少し冷静になれ。時間はたっぷりあるんだ。今の状況を冷静に見て今僕のできる最善を取ろう。
今僕ができることはなんだろう。腕はこの通り当てになりそうもない。
だとして他に動かせそうな部位はと言えば、頭とか?いや、確かに軽くなら動かせそうではあるけど男との距離も遠いし頭突きすら当たりそうもない。
もし僕が目の前の男の鼓膜を破壊できるほどの声を発せられたり、ヒルの頭蓋骨を銃弾のように放てるような能力者であれば話は別だけど。そもそも某能力者は能力以前に剣すら通さなかったっけ。いやだからそんなことを考えてる暇なんてないんだって。
頭は思考以外で使い道になんてならないかな。
じゃあ後はどこか動かせる部位はと言えば、足?
金的かましてナイフの速度を落とせたり?
いやそれこそ無理だ。腕がこの通りなのに足なんて全く動かせる気配すらない。
それに今あんまり体制もよろしくない。何しろ無我夢中で駆け寄ったものだから、今も慣性が微妙に残ってて足を蹴り上げられる体制じゃ…………
そして天啓。閃いた。
僕は自分の足元に視線を向ける。
そうだ。勢いよく駆け寄ったとは言え体感、慣性が働きすぎる様な気はしていた。その原因はと言えばとても単純な話だった。
先日から朝にかけて雨が降っていたおかげでバスの中は少し濡れていた。ましてや今僕が履いているのは使い古した底が減っている安物のローファー。
足を滑らせると言う条件下はこれ以上ないほど整っていた。
ここに来てやっとの希望。意図的に足に力を込める。
そして僕の意図する通り。ちゃんと足を滑らせて後ろへ体が傾いた。その勢いは迫るナイフの勢いにも負けていない。
そしてこれも予想通り。できれば予想通りでいないで欲しかったことではあるけど、時間の流れが少し速くなった。実際に速くなったわけじゃなく、もちろん認識の話。
これで準備は整った。僕はこの場における自分が最善だと思う行動を取る。
地面と背中が距離を詰める一方、他にも迫るものがあるのだ。
僕の右腕と男の襟元だ。
滑った勢いのおかげでナイフの進行が遅れたのと僕の体制が傾いたおかげで、本来届くはずのなかった腕が首元に届いた。最初は羽交締めにしてやろうかと思ったけれどこうなれば僕にもチャンスがある。
僕は男の襟元を掴み倒れる勢いを利用し右に押しやる。筋力は強いわけではないけれど、自然に働く力は舐めたものじゃない。身長百五十センチメートル台、体重四十五キログラム程度の僕でも全体重をかければなんとかなるはず。
そして好奇。
ナイフの男は僕の体重に引っ張られ体制を崩した。
男からしたら驚くものだろう。この一瞬足を滑らせたと思いきやその勢いで首根っこを掴んできたのだから。しかも本来座っていた妊婦を刺そうとしたのだから男からしてみれば僕は武術の達人とでも写るのではないだろうか。とか呑気なことを考えてしまう。
さらに時の流れは加速する。
ナイフが本来の到達点を過ぎる。何もしなければ僕はなす術もなくそこで終わっていたのか、それとも終わり続けることになったのかは今となってはわからない。
男は僕と共に前傾に倒れる。
人というのは前に倒れる時、咄嗟に前に手をつこうとする。それは意識してする行為ではなく、反射的に取ってしまう反応だ。
それが何を表すかはとても単純なこと。
男は地面が迫る中、ナイフから手を離し地面に手をついた。ここまでくると走馬灯は解けて普通の認識スピードとなっている。僕の体には浅からずナイフが刺さっている。重力に任せて倒れたおかげかその反動で少し深く刺さっていた。死ぬほど気持ち悪いけど、死に至るほどではなかったためか走馬灯効果は働いてないようだ。
すぐさま立ち上がり男から数歩距離を取る。
男が倒れたのはバス中央の左側の出口付近。ナイフは僕のお腹にあるから他の人が刺される心配はない。
今も僕はナイフは抜いていない。確かこう言った時ナイフを抜いてしまうと出血が酷くなると言った話をどこかで聞いたことがある。死ぬほど痛いけど僕はちゃんと生きれる。
ふざけるな半分ありがとう走馬灯。これで僕は前を向いて生きれる。
そうだ帰ったらUSBにパスワード設定でも……
そう安心したのが良くなかった。
男は半狂乱になりながら僕に突っ込んできた。
咄嗟に後方にある非常口へと足に力を入れる。
けど、足が滑った。
そうだ。足元が濡れてるのは今も変わりない。
それに力を入れたことでお腹の痛みはさらに増す。男との距離も遠くないどころか近づいていく。
時間の流れは早いままだった。一瞬足を滑らせ出遅れたけど、僕は必死に後ろの出口を目指した。さっきまでの時間の猶予もないため僕は焦りに焦ってお腹のナイフを引き抜き、刃をしまい車道側に投げ捨てた。せっかく助かった命だけど、これ以上被害者を出すわけにもいかない。
体がうまく動かない。まるで何かから追われる夢の中にいるときのような感覚に近かった。
男は僕との距離を詰め掴みかかってきた。運動神経も良くない力もないし当然のことだった。
男は言葉にならないような声をあげて涙を流していた。その表情はとても恐ろしかった。それは紛れもない『後悔』の感情に思えた。まるで幼い子供が喚き散らすような「俺は悪くない」などと訴えかけてきているように思えた。
けど僕にも余裕なんてない。
ナイフは捨てたとはいえお腹は焼けるように痛い。出血もやはり酷くなる一方で激しく動きたくもない。
なりふり構っていられず男を蹴り飛ばして後方『左側の非常口』から勢いよく飛び出し走った。
目の前は十字の交差点が近い車道。対面の信号が赤いのがなんとなく目に止まる。バスが止まっているのは一番左にある左折レーン。中央は直進レーンだけどこの騒ぎに気がつき車はバスの数メートルあたりで止まり渋滞していた。そして一番右レーンは対向車線、特に車は走っていない。車道を越えれば歩道がある。すでに逃げた人もいるのが見てとれた。僕は男が追ってこないかバスを見ながら死に物狂いでひたすらに走った。
後ろを見ながら、ひたすらに。
だから気が付かなかった。
交差点の信号が青に変わっていたことも。
そもそも走馬灯でゆっくりに感じていただけで事件からそこまで時間がたっていないことも。
そして、対向車線のバスの異常に目を奪われ、目の前が不注意となっているトラックが迫っていたことも。
***
速報です。
――通り――行きのバスにて――――
死傷―は2名。
――同会社――――
近隣の高校に在学――――
――身元の確認――――
また――――意識不明の重体と――――
――は「気がついたら暴れていた。もう限界だった」と容疑を認めており警察は――――
またバス――――「後方の車道側の非常口――閉まって――――至った経緯について――――」
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