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夜遊び令嬢は結婚したくないので、とりあえず逃亡してみることにした

作者: パル

お読み下さりありがとうございます。

※言葉足らずな箇所がありましたら、

さらりと読み流していたただけると

幸いです。

※酒飲みシーン、多いです。


 

……今日のつまみも最高!

  鶏皮のパリパリ揚げ

  カラフル野菜のグリル焼き

  

「マスター! もう一杯!」


 ウイスキーの水割りを片手に、カウンターで愚痴るのが私の至福の時間。


「ナーチ。もう5杯目だぞ。そろそろ止めたほうがいい」


 隣に座っている美丈夫がそう言って、マスターが差し出した私のグラスを受け取った。


 ナーチとは、私が街に出たときの仮の名前だ。

 

「まだまだいけるわ。今日はやけ酒したいのよ」


 彼の持つ私のグラスを両手で奪い取り、その美しい御尊顔をうっとりと見る。


「はぁー。婚姻相手がバァルツだったら良かったのに」

「俺のどこを見てそう思う?」

「鍛えられた筋肉。優しく気遣いができるところ。性格良いし。それと、なんと言っても顔よ顔!」

「ハハッ!じゃぁ、俺の嫁になるか!」

「なれるもんならなりたいよー」


 笑いながら私をおひゃらかす、彼の名前はバァルツ。此処、呑んだくれ屋という飲み屋で知り合った男だ。


 バァルツは、ひと月くらい前からこの店で見かけるようになった。

 今は、このベルガ王国のギルドで仕事を貰って生活をしているらしい。が、傭兵なんてしなくても、ジゴロで100%遊んで暮らせそうな容姿をしているのにもったいない。

 漆黒の光沢のある短い髪に長い睫毛の下の澄んだエメラルドのような瞳。日に焼けた小麦色の肌はツヤがあり、逆三角形の艶めかしい筋肉質な体型が妙に色っぽい。

 王国の元騎士団の元帥だったマスターが、許した客にしか座らせないカウンターに、彼は初めて飲みに来た日から座っている。

 マスターは、私の亡くなった祖父の友人で、引退してからは趣味で飲み屋を開いている変わり者だが、目利き能力は国宝級。

 その為か、カウンターに座る人とは警戒しないで直ぐに飲み友達になれる。

 

「そうだ、明日は早起きしなきゃならないんだった。そろそろ帰らなきゃ」

「裏から帰れ。早く寝るんだぞ」


 席を立つとマスターにそう言われ、カウンターの左奥にある扉から店をでる。だからといって、扉を開いた先はまだ建物の中である。店の休憩室となっている場所と言えばいいだろうか。


 部屋の隅に置かれている3つのクマのぬいぐるみ。その中の緑色のクマが私の物だ。付けた名前はマック。

 見ただけでは分からないが、可愛いマックは魔導具だ。両手の中に魔術紋が描かれている。かといって、私の魔力でしか発動しない。更には、転移を行使するときに私の容姿を変えることも出来る優れもの。今の私は、焦げ茶色の髪に紺色の瞳へと髪と瞳の色を変えている。


 マックの両手を掴むと視界がぐるりと回転し、部屋風景が私室へと変わる。


「はぁー。今夜も飲んだわぁー」


 飲み過ぎた後に転移すると、毎回お腹の中味がちょっと出そうになるのが欠点だけど。家を抜け出す際に、邸の誰にもバレないようにするにはこの方法が一番なのである。

 

 こんな私だが、実は公爵家の長女だ。ナタリーチェ・フラパーカスといったら、誰もが首を縦に振る淑女の鏡。淑女の模範のようなレディだと周りからは言われてる。

 ただ、ボロが出ないように笑顔を絶やさず喋らないだけなのに。誰だって、見た目と中身は違うって。貴族、これ常識だから。


 そして、私には生まれたときから決められた婚約者がガルニエルド大帝国にいる。大帝国ラハマドール公爵家の長男だ。物心がついた頃に一度しか会ったことがない。といっても、覚えていない。

 そいつが長い髪を好んでいるらしく、それ以降会ったこともない奴の為に髪を切らせてもらえない。令嬢仲間から羨ましいと言われる私のツヤッツヤなブロンドの髪は、お尻まで隠れるロングヘア。凄く邪魔だ。それと、アーモンド型の目は、ローズ色の瞳が強調されてキツい印象を与えてしまう。でも、家の侍女は勉強家。腕をメキメキ上げて、最近では柔らかな表情を完璧に作り上げる。熱心にメイクの練習をしている侍女らに感謝である。






「ナタリーチェ。ラハマドール公爵家から迎えが来る日は3日後だ。既に準備は済んでいるのだろう?」

「勿論ですわ。トランクにまとめました」

「はっ? ト、トランク?」

「えぇ。トランクですわ。一つで十分収まりましたけど?」

「トランクに収まった?」


 父様が、口を開く度に顔を青ざめる姿は滑稽だ。

 良く知りもしない他国の公爵家へと嫁ぐ私の心境を何とも思っていない様子に、心底この家に生まれたことが悔やまれる。


「ナタリーチェの物は、全てあちらで用意することになっているのですから、何もそんなに目くじらを立てなくてもいいでしょう」


 ニコニコと、お祖母様が私を擁護するかのように会話に割って入る。何が、「ねッ!ナタリーチェ」だ。この婚約が結ばれたのは、お祖母様のせいなのに。

 大帝国になんて嫁ぎたくない。毎日そう思う。いや、毎時毎分そう思う。

 父様とお祖母様の会話が続く中、私はさっさとその場から離れることにした。



――どうして、私が嫁がなきゃいけないの?

  あー。嫁ぎたくない。

  嫁ぎたくなーい!

  ……ん?

  そうだ!嫁がなきゃいいのよ!

  それならば――。



 気が重いまま部屋へと向かって廊下を進むと、ふと名案が思いつく。



――逃げるが勝ち……よね……。

  ふふっ。

  どうして気が付かなかったのかしら?



 後のことは、逃げながら考えればいい。とりあえず、今はどう逃げるかだけ。私ってば天才だわ。そう思っただけで、スカッとした気分に一瞬で早変わり。軽い足取りで部屋への扉を開いた。







「おっ! 今日は随分早いな」

「あっ、マスター! うん。夕飯を抜いてきたからね。今から先に街で遊んで来るわ」

「おいおい。暗い中、護衛も付けずに街に行くのは駄目だろう」

「大丈夫よ。何かあったら燃やすだけだし」

「ナーチの火魔法は強すぎるから、周囲まで燃やすなよ」

「はいはい師匠! お土産買ってくるわね」


 実は、マスターは私の魔法の師匠でもあるのだ。

 幼いころ兄と喧嘩をしたときに、癇癪を起こし邸の半分を燃やしてしまった事がある。その事が原因で、両親からは魔法行使を禁じられている。恥ずかしいことに、両親の教えでは私の魔力を制御出来なかったからだ。

 それを不憫に思ったお祖父様は、私を外に預けた。お祖父様が私を連れて向かった先は、師匠が元帥を務めている騎士団だった。約2週間、師匠と魔力の強い騎士様達が、自身で魔力制御が完璧に出来るようになるまで面倒を見てくれた。両親には、当時まだアルダン侯爵家の当主だった師匠の家に預けたことになっている。

 そのときに、お祖父様から渡されたのがマックだ。寂しくなったらお祖父様の部屋までおいで、と言ってプレゼントしてくれたクマのぬいぐるみ。王城にある魔術開発のエリート達が作ったものらしい。

 師匠と騎士団員たちに懐いた私は、その後も何度もマックを使って騎士団へと遊びに出かけた。私が騎士団へとマックで転移すると、王城の魔法防御壁が感知していたらしく魔術開発のエリート達が困り果てた。そうして、マックが改良され私の魔力でしか使えない魔術紋を組み込んでくれた。彼らは、防御壁を通過したのが私だと解るようにしたかっただけらしいが。

 変わり者の師匠は、引退してから街に溶け込むように酒場を営業し、私は必然的に息抜きをしに通うようになったわけだ。


――まずは、腹ごしらえね


 ぎゅるると鳴るお腹の音に、行き先を決める。うん。今日は屋台巡りをしよう!中央公園のロータリーではたくさんの屋台が並んでいるのだ。美味しそうな香りに誘われて歩みを進めると、お肉をジュージューと音を鳴らして焼いている屋台の前に着いた。


「そのお肉のバーガーを一つ頂戴!」

「あぁ、ちょっと待ってろよ。もうそろそろ焼き上がるからな」


 二つに割った丸いパンに切り刻んだレタスとオニオン、焼きたてのお肉をたっぷり載せて最後に旨辛垂れをたっぷりかけたバーガーは天下一品だ。


「はいよ! ナーチ、対面の揚げ串屋の奥さんが最近顔を見てないって心配してたぞ!」

「ありがとう。顔見せに行ってくる」


 バーガーを齧りながら揚げ串屋に来ると、


「あら、ナーチ。最近、全然顔を見せないから、嫁にでも行ったのかと思っていたんだよ。……まさか、出戻りかい?」

「ごめんごめん。でも、しばらくは来れなくなるわ。心配してくれてありがとう」

「顔が見れないなんて寂しくなるね。今から、呑んだくれ屋に行くのかい?」

「うん。マスターにお土産買って帰るんだ」

「公園の入り口付近にある、屋台の焼き魚は新鮮で美味しいよ。今からだと、ちょっと待つけどね」


 女将さんが指差す先を見れば、行列が出来ている。早く並ばないと無くなるよと女将さんに言われ、急いで行列の最後尾に加わった。


「あれ? ナーチさん?」


 私の後ろへ並んだ人に声を掛けられ振り返って見れば、呑んだくれ屋の常連さんだ。フードを被っていた私に良く気がついたなと関心する。いつもバァルツと一緒に数人で入店してくる内の一人だ。彼とは、仕事仲間なのだろう。


「こんばんわ」

「今日は、飲みにいかないのですか?」

「いいえ。マスターに、ここの焼き魚を持って行こうかと」

「そう言えば、先日ナーチさんとバァルツさんが話している内容がチラリと聞こえてしまったのですが……結婚されるのですか?」

「あー……。うん。でも、分からない」

「ん? 自分のことなのに、分からない?」

「えーっと。……したくないから、逃げちゃおうかと思案中なのよ」

「ど、どうして? したくないから逃げるって?」

「親が勝手に決めたのよ。他国へ嫁がされるの。相手の顔も分からないのよ。売られたってことじゃない?」

「えっ? で、でも、プレゼントとかは贈られてきてますよね?」

「プレゼント? 確かに、頂いているけど。箱を開けたこともないわ。顔も分からない人からのプレゼントなんて気持ち悪いでしょう?」

「……。でも、逃げるって、何処へですか? どうやって逃げるつもりなのでしょうか?」

「何処へとは決めていないのだけど。先ずはこの国を出て、気ままに旅をしながら考えるつもりよ。はい!私のことはもう終わり。それよりも、貴方はいつもバァルツと一緒に居るみたいだけど、仕事仲間か何かなの?」

「あ、あぁ。そんな感じかな」


 ちょっと目を泳がせているのは、もしかしたら上司と部下ってやつかしら? 悪い人には見えないし、言葉遣いも丁寧だ。


「ふぅーん。それにしても貴方の体も素晴らしいわね。どうやったら、そんなに綺麗な体を作れるのかしら」


 ぱっと見でも分かる逆三角の体に、シャツの袖から出された上腕二頭筋と腕撓骨筋の素晴らしさに惚れ惚れする。腕を堪能し過ぎたせいか、彼は私が見ている腕を反対側の手で擦り出す。チラリと見上げると、顔を真っ赤に染めた彼と目が合うも、視線をゆっくり逸らされた。


 焼き魚を手に入れ、揚げ串屋の女将さんにお願いした串揚げを取りに行った後で、ロータリーの屋台を見て回る。

 蜂蜜がたっぷりかかったカステラに、芋を練って作った焼き餅を買ったところで、呑んだくれ屋へと戻ることにした。


「マスター。お土産買って来たわ!」


 扉を開き、そう言って店内に入ると、カウンターに座っているバァルツが大きく目を見開いて私を見てきた。


「何? どうかしたの?」

「いや、突然扉が開いたから驚いただけだ」

「ふぅーん。そう。マスター、いつもの頂戴!」

「はいよ。んで? 土産は何だ?」

「焼き魚、鶏天と野菜天の串揚げよ!」


 今夜は水割り2杯で、とりあえず終了。

 帰ってから作戦を練る為に、余力を残してマックを迎えに奥の扉を開いた。






 昨夜、早目に帰って来たからか、今朝はかなり早い時間に目が覚めた。

 小鳥の鳴き声で、気持ち良く起きた久しぶりの朝。カーテンを開くと朝日が上り始めたばかりの風景に、清々しい一日が訪れる予感がする。


 そう思うも、朝食の席に就くと一転する。毎日のように、朝から愚図愚図煩い父様。更には、兄様まで参戦して私に突っかかってきたのだ。


「ナタリーチェ。昨夜は体調が悪く夕食も食べられなかったと聞いたが、もう大丈夫なのか? それと、我が家の荷物と一緒にナタリーチェの衣服等も荷積みし、朝早くに大帝国へと出発させたからな」

「あら、向こうに着いてから購入するって言いましたよね」

「そうはいってもだな――」

「父上はナタリーチェに甘過ぎるのです!」

「兄様は黙ってて下さらない?」

「なんだと!」


 今朝は、いつにも増して不機嫌な様子。だからといって、先に喧嘩を吹っかけてきたのは兄様の方。家族との朝の団欒は今日が最後になるのに。もう、兄様と言い争う事も無くなる。ならば、最後にバトルを受けてたってもいいかも。

 気が軽くなったところで、兄から向けられる鋭い眼光に視線を重ねると、ニヤリと笑みを溢す。


「あら、いいご身分ですわね。妹をラハマドール公爵家に嫁がせることで、我が家はガルニエルド大帝国の爵位を授かれるのでしょう?」

「ち、違う。お祖父様が大帝国のリーガル公爵家からお祖母様を娶ったことにより、大帝国と商いが出来るようになったんだ。爵位を授かるのは、この国への援助と引き換えだ。ベルガ国を守る為に、多大なる貢献をしてきた我が家の商団が大帝国に選ばれたんだよ」

「バカですの? お祖母様が大帝国の出身だから良い嫁ぎ先があると、生まれたばかりの私に押し付けたのですわ。その多大なる貢献が出来るようになったのは? 私の婚約があったからですわよね?」

「二人とも、もう過ぎだことをグダグダ言うな。これからを考えて見ればナタリーチェだって幸せだろう? 大帝国の公爵夫人となるんだからな。お祖母様のお陰で、何不自由なく暮らすことが出来るんだぞ」

「そうだぞ。それなのに、その言い草はなんだ? 大帝国でそんなことを言ってみろ!」


 必要以上に食って掛かる兄様に、何を話したところで聞く耳を持ちそうもない。それに、父様の言う『お祖母様のお陰で』私が幸せになれるとでも思っているところが、かなりムカつく。私を大帝国に売ったことで、自分たちはのうのうと生きるのだろうに。


「もう、話すことなんてないわ」

「ナタリーチェ!」


 いつも大人しい母様が、音を立てて席を立つ。怒鳴るように名を呼び、私が悪いと言わんばかりの強い視線を向けられる。

 この家では、誰も私の味方になってくれる人はいない。お祖父様が生きていれば違ったのだろうか。そんな事を思ったところでだけど。

 私は音を立てずに席を立つと、何も言わずにダイニングから離れた。






 早い時間からマックを抱いて馬車に乗り、王都の中心にある魔石ショップを訪れる。


「いらっしゃいませ」


 モノクルの眼鏡をかけた白髪混じりの男性が、柔らかく微笑み私を招き入れる。


「乳白色の魔石を見せていただきたいのですが」

「はい。奥からお持ちいたしますので、そちらの椅子にお座りになってお待ち下さい」


 乳白色の魔石は、大変珍しい魔石だ。魔物から取れる魔石とは違い、海に生息する巨大貝からたまに見つかるらしい。1000年生きると言われる巨大貝だが、魔力は全く持っていない。貝の餌となった魚の魔石が排出されずに、貝の中で長い時間をかけ育ったものが乳白色になると言われている。


「こちらになります」


 化粧箱の蓋を店員さんが開いて見せてくれた中には、3つの魔石が並んでいた。


「こちらの小さな魔石をいただきます。ブレスレットにしてくださいますか」

「かしこまりました。それではデザイン帳からお好きな物をお選び下さい」

「ありがとう。……では、魔石を取り外せるタイプの、こちらのデザインでお願いします」


 淹れてもらったお茶を飲みながらしばらく待つと、私は出来上がったブレスレットを受け取り、店を出て一度家に戻った。


 乳白色の魔石に、マックの手の中から取り出した魔術紋を複写し付与する。この魔石は属性を携えていない変わりに付与する事が出来るのだ。魔石の大きさを考えると、使えても二回が限度だろう。


 夕方、少し早い夕食を軽く食べるとベッドに横になり、体調が良くないから早く寝ると言って侍女を下がらせる。


 窓から見る空が茜色から暗闇へと色を変える頃、私室の扉に鍵をかける。その後で、動きやすいワンピースに着替え、トランクを持つとマックの片手を握り魔力を流す。

 視界が呑んだくれ屋の部屋に変わると、旅立つ前にマスターへ挨拶をするためにトランクとマックを置いて、一度店内に顔を出す。


「おう! 待ってたぞ。ナーチの好きそうなウイスキーを仕入れたんだ。早速味見してくれ」


 今夜は、飲みに来たわけではないのだが、マスターのニカッとした笑顔を見ると直ぐに別れを言い出しにくく、とりあえずカウンターに腰を下ろす。


「それと、これだ。ナーチが以前食べたがっていた牛のテールの煮込みだ」

「えっ? マスターが作ったの?」

「……んなわけあるか。ちょっと本邸に帰ってきたから料理長に頼んで作って貰ったんだ。でも、こっちで煮込み続けたのは俺だ」

「いただきます!」


 トロトロに煮込まれたテールは、口に入れるとホロホロと溶けるように柔らかい。マスターから煮込みに合う酒だとグラスを差し出されると、カウンター越しからそれを受け取る。


「ほれ、飲んでみろ」

「……フルーティーな香りで飲みやすいわ」

「あぁ、度数が高いんだが香りがいいからグイグイ飲めちまう。本邸で貰って来た」

「アルダン侯爵様のお酒だったの?」

「息子はワインしか飲まんよ。毎回変わった酒を見つけると俺に飲ませるために息子が買ってくるんだ」

「そうなのね。アルダン侯爵家が羨ましいわ。私も、マスターの家の子に生まれたかったわ」

「ナーチ。フラパーカス公爵家の皆……家族は、ナーチを愛しているよ。自分から歩み寄らねば分からんこともある」

「……ありがとう」

「ほれ、もう一杯飲め」


 マスターの優しい声音は、大好きだったお祖父様の声に似ていて心に響く。最後にお祖父様に甘えることが出来たような気分に心が癒される。


 この一杯を飲んでからでもいいか。そう思って二杯目のグラスに口を付けると、バタンと店の扉が勢いよく開かれた。


「……はぁ……はぁ……」


 バァルツだ。何やら急いで店内に入ってきたかのような息遣いに首を傾げる。


「バァルツ? 何かあったの?」

「……あっ……い、いや……何も……」


 そう言って、私の隣の席へと腰を下ろす彼の様子が可怪しい。


「マスター。先に水を一杯もらえるか」

「はいよ。走ってきたのか。まぁ、そうなるわな」

「ありがとうございました」


 二人の会話からすると、バァルツはマスターに仕事でも頼まれたのだろうか。しかし、美丈夫は息切れする姿も美しいらしい。パツンパツンの黒シャツの上からでも分かる筋肉の形。更には、筋肉質の腕が薄っすらとかいた汗は、ライトの光で艶めくように輝いている。最後にいいものを見させてもらったわ。


「……ナーチ?……あの……いや、何でもない」

「何よ? 言いなさいよ」


 まずい。また見すぎちゃったかしら? バァルツは私を見てから、グラスへと視線を落とす。


「それ、何杯目だ?」

「まだ、二杯目よ。私を何だと思っているの? そんなにガバガバ飲まないわよ」

「そ、そうか。マスター、俺にもいつものを頼む。あっ、今日は薄めに作ってほしい」

「あら? 薄めにって、いつも濃い目を頼む人がどうしたの?」

「今夜は、この後で……ちょっとな……。そうだ、マスター。昨日のアレ、ナーチに出してやってくれ」

「あぁ。じゃぁ、三杯目に作ってやろう」

「えっ? 私、これ飲み終わったら帰るつもりだったのに」

「まぁ、そう言わずに三杯目を飲んでからでいいだろう? 変わった酒で、瓶のコルクを開けてから2時間で風味が損なわれてしまう。せっかく一緒に飲もうと思っていたんだから、一杯は付き合ってくれよ」

「分かったわ。……そういえば、今夜はまだ他のお客様が居ないわね」


 いつもなら、この時間になると後ろのテーブル席にポツリポツリと客が座っているのだが。


「ナーチ。テールの煮込みの次はこれだ」

「珍しいわ。アボガドなんて、何処で仕入れてきたの?……そうね。仕入れ先は……聞かなくても分かるわ」


 うっかりバァルツの前で、侯爵家と言いそうになった。危ない危ない。


「じゃぁ、コルクを開けるぞ」

「うん」

「何か願い事を言ってくれ。この酒は、コルクを開けるときに願い事をすると、願いが叶うというジンクスがあるらしい」

「私が願い事を言ってもいいの?」

「あぁ」

「んー。じゃぁ言うわね。……このあと、上手くいきますように!」


 ポンっと音を立ててコルクが抜かれると瓶の口からモワモワと白い煙が出てくる。煙は白から虹色へと変化すると、しばらくして空気に溶け込んだ。


「わぁ!綺麗ね」

「あぁ。綺麗だ」

 

 3つのグラスに注がれた液体は、澄んだ水色で、炭酸の小さな泡が生きているかのようにお酒の中でクルクルと泳いでいる。


 乾杯してグラスに口を付けると、酒には珍しいラズベリーのような上品な薄い香りが仄かにする。香りだけで酔えそうだ。


「シャンパンね。凄く美味しい。でも、かなり強いお酒だわ」

「あぁ、喉が焼けないようにちびちび飲んでくれ」


 バァルツはそう言って、柔らかな表情で微笑みながらシャンパンを飲む私を見続ける。


「……バァルツ……貴方も飲みなさいよ」

「あぁ。じゃぁ、少しだけ」

「少しだけ? どうしたの? 体調不良?」

「さっきも言ったが、今夜は酔うことが出来ないんだ」


 飲む代わりにと、彼は子供の頃の初恋の話を語る。遠い国の女の子に一目惚れをしたのだが、会いに行っても遠くから覗き見ることしか出来なかったらしい。何度も会いに行ったのだと、淋しそうな表情を浮かべる。

 こんなに美しく自信に満ちているバァルツでも、恋煩いをしていたのかと驚きだ。ちょっと、妬けるが……。いや、かなり妬けるかも。


 ふわふわと体がしだしたところで、このあとを考えると、これ以上飲んだらまずいなと思い席を立つことにした。が、そんなに飲んでいないのに、立ち上がった私の体が可怪しい。完璧に、力が抜けている。あー、もう酔が回っているわ。


「バァルツ、ご馳走さま。マスター……帰るわね」


 手を振りそう告げると、バァルツに腕を掴まれよろける。


「酔っ払い。そんな格好で何処に行くんだ?」

「はい?……バァルツが引っ張ったからよろけただけよ。まだ、酔って……いないわ」

「あぁ。酔っているのも分からないのか。俺が聞いたのは、ナーチの容姿を言っている。街に出るには、ちょっと小洒落過ぎだ」

「んー。なるほど。今から……行くところがあるの。ちょっと……洒落た格好じゃないと」

「へぇー。姿も変えないで?」

「……姿? はっ!そうだったわ……い、今更だけど、よく私だって……分かったわね。マスターに挨拶だけって思っていたから。すっかり……忘れていたわ」

「それで? 何処へ行くんだ?」

「…………だ……だん……よ」

「だだん?」

「ち、違うわよ。……男娼を買いに……行くのよ」

「男娼だと!何を考えたらそうなるんだ!」

「怒鳴らないでよ。……私は……知らない男に嫁ぐのが嫌なの。相手は大帝国の……公爵家なのよ。だから……純潔を捨てるの。夜中に逃げて……何処かで捕まったとしても、私が清い体でなければ……結婚しなくて済むはずよ……。そう考えたから、男を買うのよ。分かったなら、手を……離してくれるかしら」


 先ほどまでの表情から一変して、睨みつけるようなバァルツの冷たい視線が向けられる。その視線から目を逸らすと、思いきり腕を引き私を彼の胸に押し当て腕の中に抱え込んだ。

 

「だったら、俺が抱いてやる。何も心配しなくて大丈夫だ。ナーチを俺の嫁にする」

「はっ?……な、何言ってんの。本当の私は、公爵家の娘よ。私の相手が貴方だと分かったら……どんなことになるか――」

「行くぞ!」


 するりと、私の背中と膝裏に回した彼の腕が重さなど感じていないかのようにふわりと私を持ち上げる。マスターがニカッと笑い、手を振る姿に目が点になる。唖然としながらマスターの笑顔が遠ざかる。店の扉が閉まったところで私は我に返った。……ん?……お、お姫様抱っこーっ?


「んなっ! お、下ろしてよ! 恥ずかしいじゃない」

「可愛いな。嫌じゃなくて、恥ずかしいのか。ならば、フードで顔を隠せばいい。あぁ、下ろす気はないからな」

「ちょっと、ほ……本気なの?」

「あぁ。ナーチの初めては俺がもらう。と言っても、この先ずっと俺だけだ」


 フードをふわりと掛けられて、その後バァルツは無言で歩みを進め、王都の高級なホテルの扉をくぐった。


「お帰りなさいませ」


 フロントでは、いらっしゃいませじゃないの? と、思っている間に、バァルツの前を歩く人の後ろに付いて行く。階段を上りスタスタと歩み進むと目の前の男が鍵を差し込み扉を開いた。

 バァルツが部屋へと入室すると、扉が閉まりガチャリと鍵が閉められた音がする。心臓が激しく波打つ音が彼に聞かれやしないかと、胸の上に手を重ね瞼をギュッと閉じた。


 そっとベッドの上に載せられ、フードを取る。キョロキョロと見回したこの部屋は……スイートルーム?

 バァルツの視線に気がつくと、私は彼を見上げる。長い睫毛の下から澄んだエメラルドの瞳が、私を射抜くように見ている。彼の手が私の頭を支えるように後頭部に置かれると、彼の顔が近づく。ゆっくり細められた瞳の瞼が閉じると同時に唇が重ねられ、私の体がベッドに倒された。






 目が覚めると隣で寝息を立てているバァルツの寝顔で我に返る。漆黒の髪に触れると、布団がズレて彼の日に焼けた小麦色の肌が姿を現す。その艶めかしい筋肉質の体に、昨夜のことを思い出し恥ずかしさで体が火照る。あんなに何度も、愛おしそうに名前を呼ばれるとは思いもしなかった。


――このまま、ここには居られないわ


 もし、私の相手がバァルツだと家にバレたら大変だ。あの家族だもの、バァルツがどうなるのかと考えると身震いがする。

 気を取り直し、ベッドから下りるも体のあちこちが痛い。だからといって動かないという選択肢はない。カーテンの隙間から見える空の色は、そろそろ日が昇りだす頃だと私を急かす。どうにか服を着たところでバァルツに気づかれると、彼はベッドから下りて私の下にきた。


「まだ、着替えなくてもいいだろう。体は大丈夫なのか?」

「大丈夫とは言えないわ。私は初めてだったのに、経験豊富な貴方がやり過ぎたのよ」

「す、すまなかった。しかし、経験豊富とは? 俺も初めてだったから、加減がわからなくて……すまん」

「……? な、なんてこと! 私がバァルツの初めてを奪っただなんて? だ、騙されないわよ」

「騙してないんだが」


 俯き頭をポリポリと掻きながら、彼は申し訳なさそうな表情を浮かべる。

 ……マジか。だからといって、腰に手を当てモデルのように立たれても。まぁ、ヨダレが出そうになるくらい素晴らしい体型だから、ずっと見ていたいとも思うが。とりあえず、前だけでも隠してほしいわ。


 彼は柔らかに微笑み、左の耳に着けられている棒状のエメラルド色をしたピアスを外すと、私の左耳に着けた。


「あとで、一緒に指輪を買いに行こう。それまでは、俺のものだという証としてこれを肌身離さず着けていてくれ」


 ふわりと私を両腕で大事そうに抱え込むと、彼は耳元で愛を囁いた。


「ずっと、好きだった。一生大事にする」


 チクリと胸が痛い。まさか、バァルツが私を好きだったなんて。思いもしなかった。凄く嬉しい。私もバァルツのことが好きだ……。でも、私は好きな人を作ってはいけないと、色恋沙汰には蓋をして生きてきた。バァルツとの未来を考えると私は幸せになるだろう。でも、それを公爵家が許すはずがない。だから、私からは愛を口にすることは出来ない。私の暗い未来に、大好きなバァルツを巻き込みたくはない。気持ちに蓋をするのは……慣れている。


「バァルツ。ありがとう。どうか、貴方がいつまでも幸せでありますように。バァルツのこと、一生の思い出にするわね」

「お、思い出?」


 見上げれば、バァルツの顔は不可解そうな表情を浮かべ私を見下ろしている。

 そんな彼に精いっぱいの笑顔を作ると、私は腕輪に魔力を流した。








 視界が呑んだくれ屋の部屋に変わると、トランクを持って近くの辻馬車乗り場までマックの手を握り転移する。


 カタコトと揺れる馬車内でマントに身を包み、フードをすっぽりと被る。平坦な道を進んでいるようで、左右に揺れる体が昨夜の疲れで眠りを要求してくる。トランクを抱えながらウトウトしだすと隣に座っている女の子から話しかけられた。


「お姉ちゃん。眠いの?」

「そうなの。馬車が揺れて眠気を誘うのよ」

「じゃぁ、寝てていいわよ。ねっ、お母さん。お姉ちゃんが起きるまで、見張っててあげるわ」

「でも……」

「大丈夫ですよ。次の街まで3時間は掛かります。私達も荷物を取られないように起きていますから」

「そうよ。荷物がなくなったら、お隣の国へ行けなくなっちゃうもん」

「隣国へ行かれるのですか?」

「えぇ。この国では……もう生活が出来なくなりそうですので。一家で隣国へ亡命することにしたのです」

「……そうですか」

「はい。寂しいのですが……。なので、道中は助け合いが必要ですよ。何かあれば起こしますので、少しでも仮眠を取られたらいかがですか?」

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」


 重い瞼は直ぐに下がり、馬車の車輪の音もいつの間にか聞こえなくなっていた。


 次に目が覚めたのは、先ほど声をかけてくれた女の子の怒鳴り声だった。


「だから、知らないって言ってるでしょう! 私達の荷物に触らないで!」

「荷物の検査をしなくては、ここから先へは行けないんだよ。さぁ、どいてくれるかい?」


 ……検問かしら? 女の子と話しをしている男性の声に首を傾げる。でも、荷物くらい見られても私は大丈夫なんだけど。そう思い私はトランクを見せようと手をかける。が、男性の次の言葉に手を引っ込めた。


「女性を探しているんだよ。家族が心配しているんだ。だから、あの大きな荷物も調べさせてくれないか?」


 ……もしかして、私を家族が探してる? どうしよう。ここが何処だか分からないから、この近くに転移したくてもその場所を思い描くことが出来ない。転移は無理だわ……あっ、今は髪色も焦げ茶色だし、瞳も紺色だから大丈夫なのでは? そう思うと、私はフードを外してトランクに手をかけた。チラリと横目で確認すれば、3人の騎士服を着た男が立っている。


「この荷物でしょうか?」


 トランクを開き中を見せるが、3人の男の瞳は私の顔しか映していない。


「あの、荷物はもういいですか?」

「あ、あぁ。確認しましたので閉まって下さって結構です」

「では、御者に言って馬車を出発させて下さい。到着時間が遅れてしまいますから」


 騎士様たちが馬車から降りると、ゆっくり車輪が動き出す。

 無事に出発したところで、女の子に声をかける。


「さっきは、ありがとう」

「ごめんね。お姉ちゃんぐっすり寝ていたから起こしたくなかったんだけど」

「いいえ。大丈夫よ。優しい子なのね」


 突然、カツカツと馬車の車輪の音が変わる。どうやら石畳の道の上を通過し始めたらしい。しばらくすると馬車がゆっくり停車した。

 王都に比べるとかなり小さな街なのだろう。それでも、昼時ともあって街は活気に溢れている。

 太陽の日差しを浴びて、馬車の中で縮こまっていた体をグイッと伸ばす……イタタタ……そうだった、すっかり忘れてた。

 全身の痛みを感じると、今日の移動はこの辺にしておかないと後々辛くなりそうだ。


 お礼を兼ねて、先ほどの母親と女の子を昼食に誘う。女の一人旅だと思われないように協力してほしいと告げれば、二つ返事で了承してくれた。


 昼食を食べ終えると街で一番大きいと言われている宿屋へと向かう。宿屋の前で二人と別れると姿が見えなくなるまで見送った。


 受付けを済ませると、4階の一番奥の部屋へと案内される。室内に入ると、大きな窓から見える外の風景に感動した。受付けで、街の景色が一望できる部屋になっていると言われた通り、街だけではなくその先の畑や森の風景まで見渡せる。


 馬車の中でも短い時間仮眠することが出来たが、昼食を食べてお腹が膨れたことで、まだまだ寝れそうだ。

 昨夜のことを思い出すと、致した後で入浴もしていない。

 早速湯船にお湯を張り、体の芯まで温まることにする。

 体を洗い気がついたのだが、ポツポツとあちらこちらが赤くなっている。虫に刺されたのかしら……。触っても痛みはない……はっ……これが噂の……。バカみたいに顔が真っ赤になるのが分かる。ずっと、バァルツの付けてくれた跡が残っていてくれたらいいのにな。一人ぼっちになったんだと今更ながら思うと涙が止まらなくなった。

 入浴も終えたことで、ベッドに横になり目を閉じると何も考えられずに意識が遠のいた。


 夕食の準備ができたと扉を叩く音で起きる。夕食を部屋まで運んで貰えるように受付けで話したことをスッカリ忘れていた。


「今、鍵を開けますね」

「夕食になります」


 扉を開くとワゴンを押してきたホテルマンが、笑顔で立っている。随分ガッチリした体型のホテルマンだ。ムキムキとした体でシャツがはち切れそうだと思うとちょっと笑ってしまう。ワゴンを室内へと押し始めた彼に、自分でやりますと声をかけると、彼は笑顔のまま退室していった。


 窓から見える夜の景色を楽しみながら夕食をいただく。温かいキャベツとベーコンのスープが体に染み渡る。焼き立てのお肉はジューシーで柔らかく、ふわふわのパンを食べるとやっと落ち着いて食事が出来たことに幸せを感じる。


「あー。お酒が飲みたい」


 何気なく自分の発した言葉に笑いが止まらなくなる。公爵家の令嬢が、普通なら発する言葉ではないわよね。貴族籍を抜いてこなかったから、まだ貴族の令嬢ってことよね? いつまで? 父様が抜くまで? 死ぬまで? どうなっても、もう私には関係ないか。家族を捨て、国を捨て、公爵家の令嬢を捨てて逃げて来たんだもん。

 全てが嫌いだった訳じゃない。多分、私は弱かったのだ。公爵家の令嬢なんて、私には無理だったのよ。政略結婚? そんなの嫌。どうして、一生一緒にいる唯一の人が好きな人じゃだめなの? 家族から愛されず、誰からも愛されず、ただ公爵家の商品として大事に育てられただけ。どこにいても私は公爵家の令嬢で、誰も私自身を見てくれない。


「やっと、逃げられた。それなのに……」


 家族に愛されたかった。誰かに認めて欲しかった。私は家族が大好きだったのだ。






 ワゴンを廊下に出すと、違うワゴンに載せられた酒瓶の入った籠がある。中を覗くとサービスですと書かれたカードに目を丸くする。

 ありがたく頂戴し、部屋へと戻ると瓶のコルクをシュポンと抜く。一度やってみたかった誰にも見られたくない飲み方で、一気に体を潤した。

 瓶の口からそのまま喉を通る酒の感覚に酔いしれる。


「ぷはっ! 最高!」


 瓶を掲げると、ラベルに書いてある文字に首を傾げる。……地酒?……1級品。


「これって……いいかも……」


 そうよ。酒よ! 地酒かぁ。

 私の中の何処かにあるスイッチが入ったところで、パタリと瞼が閉じた。



 チュンチュンとな? 目を開くとスッカリ明るくなった空が見える。どうも、そのまま眠ってしまったみたいだ。

 ベランダの柵の上では、二羽のカラフルな鳥がチュンチュンと鳴きながら戯れている。


「仲良しさんね」


 ポツリと口から出た言葉の後で、ソファーから立ち上がると、大分痛みの引いた体を動かす。

 軽く入浴を済ませ外出着に着替えると、トランクの中にマックを入れて受付けへと向かう。


 階段を下りて受付でチェックアウトをしようとすると、朝食を勧められラウンジへと案内される。

 席に座るとプレートに載ったサンドイッチとサラダに、カップスープを給仕がテーブルへ置く。あまりお腹が空いていなかったのだが、ペロリと完食してしまった。

 お世話になったお礼を告げて宿屋をでると辻馬車乗り場で馬車の出発を待つ。

 次の街までは4時間掛かるのね。

 そろそろ出発するという頃に、馬に跨った騎士服を着た二人の男が、御者に何やら話し掛けてこの場から去って行った。


 ゆっくり馬車が動き出す。今日は、昨日のようにウトウトしないように気を引き締める。トランクを背に置きもたれ掛かるようにするといいと、昨日の女の子から教えてもらった格好で馬車に揺られる。


 小一時間走ったところで、急に馬車が止まる。前方に視線を向けると、また馬に跨って騎士服を着た男が2人。その後ろにも馬に跨っている人が見受けられる。

 俯いて溜め息を吐くと、その人達が馬車に乗ってきた。今日もなの? いい加減にして欲しいと思いながらまた息を吐き出すと、腕を掴まれ引っ張られる。


「キャッ」


 驚いて腕を見ると、大きな手がガッチリと私の腕を掴んでいる。恐る恐る、その手を辿って私を掴んでいる人の顔を見れば、今にも泣き出しそうな表情の彼の顔があった。


「バァルツ!」

「帰るぞ」


 ちょっと、待って! 地酒巡りを思いついたばかりなのに? いや、そうじゃなくて。どうして、バァルツがここにいるの? それも、騎士と一緒に?


「荷物は、このトランクだけだな」

「そう……だけど……」


 私の顔が逆さになると、ひょいと荷物を担ぐように肩に乗せられ、バァルツの顔付近にある私のおしりをポンと叩かれる。


 これって、何かの罰ゲーム? いや、そうじゃなくて。致してから、次に会ったばかりで顔を合わすのが恥ずかしい。いや、違う! 何で肩に乗せられてんの? そう、これだ!


「ちょっと、降ろしてよ!」

「暴れんな」


 こうなったら魔力を流して……あれ……? さっきの宿屋に転移が出来ない。


 手首を見ると腕輪が着いていない。


「この腕輪は、俺がもらっとく。俺がナーチのものだという証として」

「そ、それは――」

「綺麗な魔石だな。これですぐには転移が出来なくなる。ナーチ、残念だな」

「は、はぁ? 知ってたの?」

「俺の魔石を耳に飾っているんだから、これは要らないだろう?」

「耳? ピアスの石って、魔石だったの?」

「あぁ、ナーチにぴったりな魔術紋が刻まれている」


 急に大きく体が揺れると目下にあった地面が馬の背に変わる。バァルツが馬の背に跨ったようだ。


「魔術紋まで? どんな魔術が発動されるのよ」

「発動するんじゃなくて、発動し続けてるんだ」

「し続けてる?……まさか、嘘でしょう?」

「嘘じゃない。嫁が俺から逃げられないようにしただけだ。まぁ、普通の嫁なら逃げないだろうが」

「じゃぁ、ずっと私の居る場所が分かっていたってことでしょう」


 探知され位置情報がバレバレだったとは。

 体を持ち上げられるとバァルツの前に座らせられる。


「よかったな。旦那が迎えにきたんだ、喜んでくれてもいいだろう?」 

「待って。馬に跨いで乗るのはちょっと……」

「まだ、痛むのか。では横に座れ」


 そう言って、マントを畳んで私のお尻の下に敷くと左腕で私を抱え唇を重ねてきた。

 蕩けるような長いキスに、私は我に返るとバァルツの胸を押して離れようとする。が、全く動じる気配がしない。


 どうして許してしまったのだろう。全く以て私のミスだわ。周囲からの視線が痛すぎる。頼むよー、お願いー、離れてよ。いや、いっその事このまま気絶させて欲しいわ。


 胸を何度か叩いてようやく唇が離されると、ニヤリと笑う彼の憎らしい顔。


「皆見てるのにぃー」

「何だ? もっと見せつけたかったのか?」


 フードを深く被らせられると、バァルツの胸に押し付けられるように抱えられ、「急ぐからしっかり掴まってろ」と彼が言うと同時に馬は動き出した。


 ヤバい。あり得ない速度で馬を走らせている。これって、もし落ちたら死ぬよね? というか、か弱い女性を乗せてるのに? この男は配慮することも出来ないらしい。……なのに、彼の筋肉にしがみつける日が来るだなんて。こんな嬉しい日が訪れるとは。


「おい。くすぐったい」

「落ちないようにしがみついてるだけよ」

「しがみついてる? 背中を握ったり擦ったりしているのが?」

「か、確認しただけよ」

「何を確認する?」

「どこにしがみつけば安定するのかをよ」

「ふぅーん」


 日が暮れる頃、私達は国境を越えた隣国のサザンリング王国の小さな街に着いた。

 しかし、ずっとペースを落とさず馬を走らせてくるとは。ここまで、超長距離だったはずなのに? 腰が砕けるように痛い。馬もほとんど休憩なしで走らされ、人間を二人も乗せて重かっただろう。

 バァルツは「座ったまま、待っていろ」と言い、一人で降りて馬に飲ませる水を貰いに行ったが。

 背が高く大きいこの馬は、多分軍馬だろう。 背に手を置くとズリ落ちるかのように馬から降りた。


「疲れたでしょう。あら、顔を触らせてくれるの? 大人しい子ね」


 大きな顔を手で撫でると「グルル」と気持ち良さそうな声で鳴く。「グルル、グルル」と鳴きながら顔を擦り寄せてくるなんて、可愛らしい馬だこと。かなり大きな馬だけど、黒ぐろとした体は汗で毛が固まっているようだ。長い鬣は目を隠し、頸部も隠れるほどの長さがある。


「ナ、ナーチ! 顔に近づくな! 喰われるぞ」


 バァルツの怒鳴り声に視線を向けると、水桶を置いて走ってくる姿に首を傾げる。

 あまりに凄まじい表情に「ひっ」と息を吸い込むと、馬の反対側へ隠れる。


「グゥグゥルル」


 低音で唸るように鳴き声を変えた馬は、走ってきたバァルツの腹部を頭で払い除ける。


「おいおい。主人を相手に威嚇する奴がどこにいる? 今夜の俺の晩飯になりたいのか!」 

「ちょっと! ここまで運んでくれた馬が可哀想でしょう? バァルツが走ってきたから驚いたんでしょうに。よしよし、いい子ね。ご主人様を怒ってあげたから、もう怖くないわよ」


 馬の首を撫でながらそう言って宥めれば、バァルツが呆気に取られた顔で口をパクパクさせる。


「ナーチは、どんだけ魔力を保持しているんだ?」

「魔力? 知らないわ。測定したこともないし。なぜ?」

「そいつ、馬じゃないから」

「……? 馬でしょう? まさか?」

「あぁ、そうだ」

「す、凄いわ! どうやって、人間が馬に変身するの?」

「はぁ? バカ丸出しの回答だな。 そいつは人間じゃなくて、魔獣だ。魔獣。全身が柔らかい鱗だろう? ほら、目を見てみろ」


 バァルツが鬣をずらし露わになった目は、金色の瞳で瞳孔が縦長になっている。体もよく見れば、汗をかいて体毛が固まっていたのだと思っていたが鱗だったとは驚きだ。

 その後で、口を見せられると、ギザギザの牙が肉食獣だと言わんばかりだ。舌はヘビのように細長く、水桶を置けばそれをストローのようにして水を飲み始めた。


「魔獣は、魔力を察知するのが得意だから、ナーチの魔力で自分が敵わぬ相手だと分かったからよかったものの、普通なら喰われてたぞ」

「だったら、先に言ってくれれば良かったのに。普段、人間が近づいたときはどうしてたの?」

「あー。たまたまナーチは上に乗っていたからな、他の人間はこいつの魔力で近づくことすら出来ない。だから、餌も水を貰う相手もこいつが了承した奴だけになる。それに、姿を消す事も出来る。消すといっても背景に溶け込むと言えば分かりやすいな。同化だな」


 魔獣といっても懐いてくれた可愛い子だし、馬も魔獣も変わらない。魔獣の頬にチュッとすると、「グルル」と可愛らしい声で鳴き、縦長の瞳孔を大きく開かせた。

 水を飲み終えると魔獣は何処かへと駆けていく。呼ばれるまでは、近くの森で遊んでいるのだとか。



 街の人に宿屋の場所を聞く。小さなこの街では一軒しかないと教えてもらった宿屋では、一部屋しか空きがなかった。

 一人用のベッドに二人で寝るのは恥ずかしいが、仕方がない。

 順番制の入浴を急いで済ませ部屋に戻ると、バァルツが買い物から戻って来た。

 宿屋では、既に夕食の時間を迎えていた為に、彼が街へ食料を買いに出ていたのだ。


「あったぞ。俺が入浴から戻ってくるまで我慢しろよ」

「うん。待ってる」

「反則技だな。可愛すぎるだろう」


 彼は片手で顔を覆うと、そのまま入浴へと向かって扉から出ていく。

 ふぅーん。バァルツは私のニンマリとした顔が好きなのね。

 両手に瓶を持ち、ラベルを確認する。右手に持つ瓶は果実酒、甘さ控えめ。左手の方は、麦とトウモロコシの酒と書かれている。……地酒は無かったらしい。


 小さなテーブルの上に彼が買ってきた物を並べる。蒸した緑豆と芋、肉串、揚げ鳥肉……

酒のつまみだわ。

 バァルツが戻ってくると、「ジョッキを借りてきたぞ」と言う言葉に、手が塞がっているようだ。私が内側から扉を開くと、


「お帰りなさい」

「ただいま。……新婚って感じだな」


 顔を真っ赤にする彼に釣られて、私まで赤面してしまう。照れるなら、いちいち言うなって。でも、そんな彼を見ることで慕われているのが実感できて内心は嬉しい。


「コホン……では、食事にしましょう」

「あぁ。食べた後で、話すことが山ほどある」


 軽く食べた後、ジョッキに注いだ果実酒で乾杯する。


「それで? 話って?」

「真剣な話しだから酔わないように、飲むペースを抑えてくれ」

「分かったわ。食べながら、ちびちび飲むから大丈夫よ」

「あぁ。やった次の日の朝――」

「やぁぁぁー。やったとか言わないでよ」

「はぁー。分かったよ。……朝、ナーチが転移する前に俺がナーチのことを「ずっと好きだった」と言ったのを覚えてるか?」


 「ずっと」とは、呑んだくれ屋で出会う以前の話しだという。バァルツは、子供の頃に私と出会ったことがあるのだと言って柔らかく微笑む。

 その日、彼は両親とベルガ王国を訪れていて、王都のレストランへ昼食を食べに入店した。そこで、隣のテーブルに座って居た私が、『ナタリーチェです。お兄さんのお名前は?』バァルツの名前を聞いたのが初めて私と会話をしたときだったらしい。


「ナーチは、三つ編みにしたブロンドの髪を弄りながら、ローズ色の瞳をキラキラさせていたな」

「ごめんなさい。覚えていなくて」

「いや。その後、会話をしたことはなかったからな。……俺は、ナーチのことが好きだ。幸せにすると約束する。家の事情を抜きにして、俺のことをどう思う? ナーチの俺への気持ちが知りたい」


 澄んだエメラルドの瞳が、私を射抜くようだ。真剣な表情の彼に、嘘を告げることなど出来ない。本当の私を見透かして、尚且つ気持ちを確認しているのが分かるのだ。


「……バァルツのこと。好きよ。……でも――」

「後の言葉は要らない」


 私の言葉を最後まで聞かずに、バァルツは私を抱き寄せた。 


「手放すはずがないだろう。ずっと一緒になれる日を待っていた。なのに、ナーチは俺との結婚を拒んで、俺の腕の中から消えた」

「ごめんなさい。きちんと話をするべきだったのに」

「いや、そうじゃない。……今までは、話をすることが出来なかった。話をしてはいけなかったからな。ベルガ王国を出たから、やっとナーチと話すことが出来る」

「……国を出たからって、どういうこと?」


 私が首をひねると、彼は私の前に跪き私の手を握り瞼を閉じた。そのまま息を吐き出すと、目を開き私を見上げる。


「私の本当の名は、アーバァルツ。ナタリーチェ嬢の婚約者であるアーバァルツ・ラハマドールです」

「……えっ?……えっ?」

「ずっと言えなくてごめん。ベルガ王国を出るまでは、身分を話すことが出来なかった。早くナタリーチェに会いたくて、会話をしたくて、同じ時間を共有する為に偽りの人物になるしかなかった。騙そうとしたわけではない。ベルガ王国に、俺が来ていることを知られる訳にはいかなかった」


 バァルツが私の婚約者だったとは――。

 なぜ、何度もベルガ王国名が彼の口から出てくるのだろうか? ガルニエルド大帝国との国交は良好なはずなのに。それに、身分を話せなかった理由は? 全く以て、分からないことだらけだ。


「度々、ナタリーチェを見にベルガ王国を訪れていた。気がつかなくてもいい、姿を一目見たいと……姿を見ることが出来ない日もあったが」

「だったら、邸に来てくれればよかったのに」

「それが出来たなら、こんな事にはならなかったさ。……今日は、ここまでにしておこう」


 そう言って、彼はジョッキの果実酒を飲み干すと麦とトウモロコシの酒と書かれているお酒をジョッキに注ぎ出す。


「ちょっと待って! 半分づつよ」

「はいはい」


 急いでジョッキを空にすると、私の手に持つジョッキへと彼はお酒を注いでくれた。


「美味しい」「美味い」


 発した言葉で、お互い顔を合わせれば自然と笑みが溢れ、その後で楽しく会話をしていたはずが、飲みながら寝てしまったようだ。






 次の日の朝。

 雲一つない快晴の青い空の下、手を繋いで街の外へと歩いていく。

 しばらく歩いたところで、バァルツは手から発動した風魔法で魔力を空へと拡散する。


「彼は、気づくかしら?」

「あぁ。気づくさ」 

「バァルツは風で魔力を飛ばしたけど、属性が火や水の騎士様たちだったら? 魔獣をどう呼び寄せるの?」

「火なら熱で魔力を飛ばして呼ぶし、水は水蒸気。土は砂埃って感じだ。あっ、来たぞ」


 右手にある森の中から軽やかな足取りで魔獣が走ってくると、私達の周りを一周し「グルル」と甘えた鳴き声を発する。

 次の目的地へと向かうため、魔獣に跨るとバァルツが足で腹を蹴り直ぐに出発した。


 今朝、朝食を済ませたあとで聞かされたのは、彼の腕の中で転移し消えてから私を迎えにくるまでの過程だ。

 私が転移した後、バァルツは当初の予定通りに婚約者の私をフラパーカス公爵家に迎えに行ったのだという。私が彼と一緒に公爵家を出発した後で、私の家族もガルニエルド大帝国へ出発することになっていたからだ。

 彼が着いたときには、私が邸に居ないことで我が家は大騒ぎだったらしい。私のことは、ラハマドール公爵家から連れてきた騎士達に探させるということにし、当初通り家族を出発させたという。


「ナーチが俺から逃げる算段をしていることは知っていたしな」

「なッ!」

「家の騎士に自分から話しただろう?」

「あっ! 焼き魚の行列にいた素敵な人ね」

「はぁ? 俺の前で他の奴を褒めるなんて、信じらんねー。アイツ、クビにするぞ?」


 いやいや、悪いのは彼じゃなくて私だよね? バァルツは、私の肩に頭を落とし「浮気者」耳元で呟いた。


「そ、それで? 家の家族が出発してからは?」


 気を逸らすように尋ねると、彼は肩に頭を置いたまま話の続きを話す。


「やって直ぐだったからな、初めてだったし。ナーチの体が心配だから騎士たちに馬車の中をたまに確認するように言った。ずっと護衛は付けてたぞ。宿でも、体調確認させたしな。明け方前には俺も宿に着いたんだが……一緒に朝食をとろうとしたが……すまん。さすがに体力共に魔力も果てて、仮眠したら起きられなかった」

「ずっと護衛を付けてくれてたの? じゃぁ、あの検問だと思った騎士様たち……それと、あのムキムキしたホテルマンも?」

「ムキムキ?」

「えぇ、騎士様たちもホテルマンも私の顔しか見ていなかったわ……えっ?」

「どうした?」

「ちょっと待ってよ。貴方は、今なんて言ったかしら?」

「どうした? って聞いたんだ」

「違うわよ!……まさかよね? やって直ぐだったとか、初めてだったとか……騎士様たちに言ったの?」

「あぁ、言った。ホウレンソウは大事だからな」

「ギャァァァー! 信じられないわー! 酷いわよ」

「俺の腕の中で転移したナーチには言われたくないな。先に酷いことをした自覚はあるのか? まぁ、騎士たちも公認のアツアツ夫婦ってことだ」


 ずっと転移したことを根に持ってピーピー言われそうだ。次に騎士達たちと会ったときに、どんな顔をしたらいいのやら。


 疲れ知らずの魔獣は、走る速度を全く落とさずに今日の目的地へと到着した。隣国最南端にある大公領の城下街だ。馬車なら5日はかかる距離だというのに、日が暮れる前に着くとは。


 ホテルのフロントで予約確認が終わると、部屋へ案内される。


「あー、お尻が痛い! 腰が砕けそう」

「仕方がないだろう。ナーチが、ガルニエルド大帝国と真逆の方向へ逃亡したのが悪い」

「だって、こんなことになると思いもしなかったし」

「そうだったな。……それも含めて、昨夜の話の続きがある。まだ、夕食までに時間もあるから先に会いに行こう」

「会いに?」

「あぁ。やっと、真実を知るときが来たんだ」


 そう言って、私の手を取る彼は、入室したばかりの部屋の扉をまた開くと、エメラルドの瞳を細め柔らかな表情を浮かべる。その後で、私の手を引くと、数歩先の対面にある扉を叩いた。





「アーバァルツ・ラハマドールです。ナタリーチェ嬢をお連れしました」


 彼の発した言葉の後で、扉の奥の室内からバタバタと足音が聞こえる。カチャリと鍵を開ける音に扉は中から開かれる。


「ナタリーチェ!」


 名を呼ばれ、返事をする間もなく抱きついて来たのは母様だった。

 こんな取り乱した母様は見たことがない。私をギュッっと抱き締めて、何度も私の名を呼びながら泣きじゃくっているのだ。


 私は、この信じられない光景に、ただ立ち尽くすしかできなかった。

 母親に抱きしめられ、目の前では泣いている父様と兄様。その後ろでは、縮こまってハンカチで目元を押さえているお祖母様。夢でも見ているかのようだ。

 なにこれ?……こんな家族…私は知らない。

 暴言を吐かれるでもなく、居なくなったことを咎めもせず。皆、私を心配していたかのような、思いもよらぬことに思考が停止する。


「義母上、廊下では何ですから室内でお話いたしましょう」

「そ、そうですわね。アーバァルツ様。ナタリーチェを見つけて下さって、ありがとうございます」

「当然です。私の大事な人ですから」

 「……はぁ? ん――✕○△✕□……(見つけたって? ずっと私がどこにいるのか、この人は知っていましたけどね!)」


 口を手で覆われ、睨むように彼に視線を向ける。彼は、仮面を貼り付けた紳士らしい笑顔を家族に向けていた。


 ソファーに座るとバァルツが隣に腰を下ろす。対面に父様と母様、その後ろで兄様が立ち、一人用のソファーにお祖母様が腰を下ろした。


 最初に重い口を開いたのは母様だった。


「ナタリーチェ。貴女に今まで何も教えられなかったことがあるの。貴女の認識していることは、そもそもが逆なのです」


 母様の話は、私が生まれる前の時間まで遡る。


「ベルガ王国は酷い有様でした。ことの始まりは、現国王が元平民だった男爵家の令嬢を『真実の愛』だと言って、最終的に王妃へと担ぎ上げてしまったことが一番の原因だったのでしょう」


 そして、王妃様の散財に、王家は数年で国庫を使い切ってしまったことから話が始まった。

 諸国からの援助を求めたところで、援助金は王家の散財の補填にされるだけ。国民の暮らしは苦しくなるばかり。貴族たちは、国民の暮らしの為に私財を使い始めたのだという。でも、私財は使えば減る。貴族たちがいくら国の為にと頑張ったところで、陛下の心には届かなかったらしい。

 そんな中で、母様は私を身籠った。それを知った王家は、王宮医師を派遣してきた。

 診察で女の子だと分かると、王家は大帝国で公爵家の令嬢だったお祖母様の孫を次期王妃として迎える算段をしたのだとか。大帝国の後ろ盾を得、笠に着るつもりだったのだろう。しかし、家族は既に未来が潰えたこの国に、私を嫁がせることはしたくなかったらしい。だから、私が生まれて直ぐにお祖母様は私を守る為にラハマドール公爵家との縁を結んで助けてくれたのだという。


「もっと早く言ってくれれば良かったのに。どうして今更なの?」

「ごめんなさい。貴女以外は皆知っていることだったのに。ずっと言いたかったのよ。でも、言えなかったの。我が家の全ての使用人が王家で雇われている者達だったから」

「えっ? 家の使用人……全て?」

「そうよ。王家から監視されていたのです。あのときは、ナタリーチェを守る為にラハマドール公爵家の令息と婚約させることしか出来なかった。私財を稼ぐ為に、お父様は小さかった商会に力を注いだわ。貴族達の私財が尽きる前に、公爵家である我が家が先立ってどうにかしなければと。お父様の頑張りに大帝国が陰で援助して下さったのよ。商会が成長すると、そこでも王家は人を導入し監視下に置き、王家のものだと主張するかのよう。そして、大帝国はこの先、支援をする変わりにナタリーチェがラハマドール公爵家へ嫁ぐときに、商会を大帝国へ移動するという条件を付けたわ。つまり、我が公爵家にこの国に見切りをつけろということだった。ここからは、言わなくても分かるかしら?」

「はい。……私が嫁ぐと、国がなくなるのですね」

「国が……と思うと、とても辛かった。私達も国民たちも、革命を起こす力がなかったのです。その為、今まで領地を守ってきた貴族たちにも早い内からナタリーチェが大帝国へ嫁ぐときを報せることで、一時的な危機に備えてもらいました。……言葉にすれば侵略されるということになりますが、支援して下さることで今までよりも国民たちの生活が豊かになるのです」


 貴族たちも含めたこの計画は、絶対に知られてはいけなかったのだろう。バァルツが我が国で素性を隠していたのも、その為だったのだと今なら解る。


 更に、我が公爵家は爵位の返上を申し出て、すでに受理されているらしく。大帝国で伯爵位を叙爵したという。


「ナタリーチェ・ログウィーン。アーバァルツ様と婚姻するまでの数日間ですが、貴女がこれから名乗る名です」


 母様はそう言って、話を締めくくった。


 まさか、私の婚姻にこんな事情があるとは思いもしなかった。私の足りない頭では、今聞いた情報と今までの気持ちがごちゃ混ぜになって、どう思うとか、どうしたいとか、何も考えられなくて――。何も言えずに、私は部屋を出た。







 「そんな顔で俺を見るな。答えは既に出ているんだろう?」

「答えも何も……キャパオーバーよ」

「じゃぁ、気持ちを切り替えて、今夜はたらふく飲んでたっぷり寝るぞ」

「そうね。疲れているから余計に思考が回らないのかも」

「一気に、全てが変わったからな」

「グダグダ考えるのは止めるわ」


 部屋では夕食も喉が通らなく、バァルツは早々に酒瓶とつまみをテーブルの上に置く。


「うわっ! 大きい瓶ね」


 初めて見る大きさの瓶に驚嘆する。

 酒屋の店主に、普通の4倍くらいの量が入っているお勧めの酒だと言われたらしい。

 バァルツはニヤリ顔でグラスにお酒を注ぐ。

 水のように透明なお酒だ。グラスを渡されると、乾杯してから口をつける。 


「何これ。めちゃくちゃ美味しい!」


 今までにない味だ。

 ちょっとアルコールが強いようだが、まろやかで飲みやすい。

 一杯目のグラスは、くいっと直ぐに飲み干してしまった。

 

 つまみの干し肉と塩豆の食べながら飲む酒は、グイグイ喉を通り胃袋に収まっていく。

 二杯目も直ぐにグラスが空になる。


「美味いが、強いな。飲み過ぎないようにセーブした方がよさそうだ。明日からは馬車で移動するからな」


 バァルツも気に入ったようで、既に三杯目に口を付けている。


「これは何のお酒かしら?」


 大きな瓶を掴みラベルを確認する。


 「清酒? 米?」


 原料には、米と書かれているが。


「米とは、この国で収穫している作物だ。手間をかけて作られるらしいぞ」


 瓶の後ろに貼ってあるラベルには、作物の説明書きが瓶に書いてある。


 ……美味しい米を育て上げるまでには

  発芽から収穫まで88回の手間がかかります。


「凄いわね、そんなに手間をかけて……育てるなんて」

「そうだな。子育ては大変だからな。ナーチと俺の子供を育て上げるなら、それ以上に手間をかけてやろうな……って、おい。 もう、酔が回っているみたいだぞ。顔がトロンとしてる」

「ほへ?……じゃぁ、これで最後にするわね」


 確かに、体がふわふわするし目尻が下がってきたようだ。

 連日の疲れもあるのだろうが。

 ……先ほど、家族を見たときに心がほわっと温かくなったのよね。体が軽くなったというか、張り詰めた気持ちが緩んだというか。何と言葉にしたらいいのだろう……安心した。そうだ、私は安心したんだわ。誰も私の味方になってくれる人はいないって、避けたかった家族だったのに。味方だった。大事にされていたんだ。

 今更気づくなんて……可怪しいよね。


「ナーチ」


 目の前に手を差し出すバァルツに、理由がわからず首をひねる。

 彼は腕を伸ばすと、私の目をその腕で覆った。


「なっ! 突然なにするの?」

「ハンカチがないから俺の腕で我慢しろ。腕が嫌なら胸もあるが、どちらがいい?」

「じゃぁ。胸がいい。ギュッてしてくれる?」

「分かった。サービスするよ」


 大きな体で私を包み込むようにギュッと抱きしめられると、胸の間に顔を埋める。彼の心臓の鼓動がとても気持ち良い。


「ずっと、こうしていたい」

「おっ、泣きやんだのか? サービスで、朝まで抱えて寝るとしよう」


 頭を優しく撫で始めた彼を見上げ微笑むと、「コン!コン!コン!」扉を強く叩くノック音が鳴る。


「ん? 邪魔する奴は誰だ? 護衛の報告か?」


 ブツブツ呟きバァルツが部屋の扉をガチャリと開く。


「……アーバァルツ君。娘を返していただきたい」


 扉を開くと、間を置かずに父様の低い声が聞こえる。 声に視線を向ければ、後ろに兄様が立っていた。


「アーバァルツ様。まだナタリーチェと籍を入れていないのに、部屋が一室とは……」


 兄様が父様を押しのけるようにしてバァルツの前に出る。


「このホテルでは、私とナタリーチェの部屋しか予約しておりません。それに、他に空いている部屋もなく、先ほどの事で混乱している彼女の様子では、こちらの部屋に居てもらった方が落ち着くのではないかと思います」

「お気遣いありがとうございます。当初の予定通り娘をお連れするとして予約されていた部屋でしたら空いているはずでは?」

「その部屋が、ここになります」

「そして、私が宿泊する筈だった部屋は、対面にある部屋です」


 バァルツが指し示したのは、先ほど家族と話し合いをした部屋だ。


「「……はっ」」

「ログウィーン伯爵家で予約された部屋は、ここではなく街の北側にあるホテルだったかと――」

「待ち合わせがここだったので、うっかり……申し訳ない」

「いえ。しかし、この時間からですと暗い中で移動するのは大変でしょう。ですので、私の部屋をお使い下さって結構です。ここのスイートルームには、丁度ベッドが4台あったかと……。事が事ですので、気にせずお使い下さい」

「ありがとうございます。では、遠慮なく……」

「では、私は仕事が終わりそうもないので、これで失礼させていただきます」

「仕事をお持ちになっていたのですか」

「えぇ。恥ずかしながら、朝まで終わりそうにないのです。おやすみなさい」

「遅い時間に、失礼してしまいました。では、おやすみなさい」


 パタンと閉めたドアに直ぐ様鍵をかけると、彼は何事もなかったかのように私を抱えてベッドへと下ろした。


「凄いわね。仕事中に邪魔するなって遠回しに言って、無理矢理納得させるだなんて」

「嘘はついてないだろう。俺には、今から夜の営みという勤めが朝まであるからな」


 その言葉に、呆れてた口が塞がらない私へと、バァルツはゆっくり顔を近づけてきた。





 次の日の朝。家族と一緒にホテルのレストランで朝食をとる。

 顔を合わせたときは気不味さで、少し俯いてしまった。しかし、ごめんなさいと一言謝ると家族からも謝罪の言葉が返ってくる。その後は、それ以上の言葉は要らなかった。昨夜の家族から告げられた話と、バァルツから小出しに告げらる内容で十分理解し、受け入れる事が出来たのだ。何も知らなかった私だけど、知らせることが出来なかった家族の思いも今なら分かる。酷い態度ばかりだった私を、いつも受け入れ続けていた家族もまた、私に伝える事が出来ずに悩んでいたのだろう。そんな家族を前に、今更だけど大事に育ててもらえていたのだと、嬉しい気持ちで胸が熱くなった。







 今から、いよいよガルニエルド大帝国へ入国する。

 家族は大帝国の新居へと、私とバァルツは公爵家へと向かう為、別の馬車に乗りホテルを後にした。


「今日は、魔獣を呼ばないの?」

「あぁ。ナーチの家族との約束の時間に間に合わせるため、アイツで移動していただけだからな。馬車の中なら、ゆっくり会話を楽しめる」


 ニヤリ顔でそう言いながら、手を腰へと伸ばし私を引き寄せる。


「ナーチが酒場に通っていることは確認済みだったからな。早ばやと会いに行くことにしたんだ」


 私がこの結婚に消極的だということを知った彼は、迎えに来る約束の日のひと月前にベルガ王国に入国した。

 今まで同じ時間を過ごすことがなかった為に、心の距離を縮めようと呑んだくれ屋に通ったのだという。しかし、彼は自分が婚約者であることを告げる事ができなかった。どこにベルガ王国の耳が隠れているのか分からなかったからだ。

 予定では、邸に迎えに来たときに偽名を使って会っていたことを謝ろうと思っていたのだと、申し訳なさそうに告げる。

 

「毎回、ナーチが街に遊びに行くときは、マスターが護衛を付けていたんだが。俺がベルガ王国に来てからは、家の護衛を付けていた」


 屋台の行列で声を掛けてきた呑んだくれ屋の常連さん。公爵家の騎士様だった彼から、私が逃亡しようとしていると報告を受け、マスターに相談したらしい。

 そして、次の日マスターが私を捕まえておくことで、急いでバァルツは店へとやってきたのだ。本当なら、私を酔い潰しカウンターで寝落ちさせる計画だった。その後で、私にホテルで朝を迎えさせて、早朝にバァルツが迎えに行くという計画に続くはずだったのだとか。


「俺がホテルにナーチを迎えに行くときに義両親に報せを送るつもりだったが……予定が狂った。……愛する婚約者の口から、初めてを無くすために男娼を買いに行くと言われるなんて――」

 

 気が狂いそうだったと、彼は悲しい表情を浮かべる。


「まぁ、何はともあれ、こうして当初の予定通り二人で国に帰れるんだ。誰かさんと違って、俺としては夫婦になれる日を楽しみにしていたからな」

「……うっ。痛いところ突っつかないでよ」

「それで、俺の名はアーバァルツ・ラハマドールだが、結婚相手は俺でいいかな?」

「……バァルツなら尚良しなんだけど」

「アーバァルツとも仲良くしてくれると嬉しいのだが」


 そう言って、バァルツは眉を下げて微笑む。


 見覚えがある彼の今の表情は、呑んだくれ屋で初めて会ったときを思い出す。私から席を一つ開けた隣へと彼が座った日のこと。


『マスター。言われた通りに狩ってきたぞ。後は頼む』


 テーブルの上にドンッと置かれた肉の塊。マスターは『あぁ』と言って、それを受け取った。


『そうだ。マスター、隣に座っているレディにもご馳走してもらいたい』

『勿論だ』

『お嬢さん。これから飲み仲間として仲良くしてくれると嬉しいのだが』

『えぇ、喜んで。飲み仲間として仲良くさせていただきますわ』


 あのときも、彼は仲良くして欲しいと言って挨拶をしてきたっけ。初めて会った私に、不安な目をしながら微笑みを浮かべていたわ。

 私が彼を知らなくても、彼は婚約者の私が嫁ぎたくないと知っていたから、あんな表情をしていたのか。


 ……あぁ。彼の表情一つで、私が如何に大事に思われていたのか……嬉しいほど伝わってくる。




「えぇ、喜んで。今まで放っとかれていた年月分も愛して下さるのなら、アーバァルツ様と一生仲良くいたしますわ」


 私の膝に置かれた彼の手の上に、手を重ねた後でそう告げる。


「……あぁ、俺の重い愛に逃亡したくなったら、飲み仲間のバァルツに相談してくれ。彼が相手なら許すしかないからな」


 揶揄うような口振りに、私が彼を見上げると、バァルツは憂色が晴れた清々しい表情で微笑んだ。

 




最後までお読み下さりありがとうございました。

ラブコメを書きたかったのですが、完成したら酒飲みシーンばかりになっていました。


今年も、多くの方に読んでいただきありがとうございました。


誤字脱字がありましたら

申し訳ございません。m(_ _;)m

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