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戦ってはいけない

『……ニんゲん、カ』

「「っ!?」」


 耳にした瞬間に絶望に突き落とされるような声に、カイラとエマはゆっくりと視線を向ける。


 そこには。


 ――大鷲(おおわし)の翼を持つ、人間の顔をした牡牛の魔獣がいた。


 禁忌の森でジェフリーとエマが討伐した多くの赤眼の魔獣と比べ、この牡牛の魔獣は身体が小さく、異様な外見ではあるもののとても脅威には見えない。


 だというのに。


「あ……あああ……っ」


 カイラは悟る。

 目の前の魔獣に比べれば、あの青鱗の魔獣や禁忌の森で目撃した赤眼の魔獣など、取るに足らない雑魚に過ぎないのだと。


 そして、ジェフリーの言葉を思い出す。


『……カイラ殿に言っておく。もし人の言葉を話す赤眼の魔獣に遭遇した時は、何も考えずにただひたすら逃げろ。間違っても戦おうとはするな』


 確かに目の前の魔獣とは、戦ってはいけない。

 それ以前に、戦おうなどと馬鹿なことを及びつくはずもなかった。


 この魔獣を前にして、それでもなお戦おうなどと考える者は、愚者……いや、人として何かが欠如しているに違いない。


 だからこそ。


「カイラさん……ここは私が食い止めるから、今すぐ逃げて」


 震える手で巨大なメイスを握りしめてそう告げるエマが、カイラには信じられなかった。


 既に相手にならないことは、彼女も分かっているはず。

 だというのに、どうして戦おうとするのか。どうして、抗おうとするのか。


 もう何をしたところで、二人ともここで命を落とす運命だというのに。


 すると。


『ム……おマえ、混ジっテ(・・・・)いルな(・・・)

「え……?」


 牡牛の魔獣は、カイラを見て告げた。

 言葉の意味が分からず、カイラは首を傾げそうになる。


「いい? 私が合図して魔獣に飛びかかったら、もう一度抜け穴の洞窟の中へ引き返すの。そして、ジェフさんと一緒に逃げて」

「で、ですが……」

「いいから!」

『……オまエ、我と戦ウつモリカ?』


 思わず叫んだエマに、牡牛の魔獣は問いかける。

 心底信じられないといった表情で。


『ム゛ぅ゛ゥ゛ぅ゛ウ゛ぅ゛ウ゛ぅ゛ウ゛う゛ゥ゛! なンと愚カな! 我等眷属(・・)(にエ)の分際デ!』


 まさしく牛の鳴き声で、牡牛の魔獣は(わら)い転げる。

 この魔獣が言い放ったとおり、人間という存在は彼等にとってただの餌に過ぎないのだろう。


 だというのに、エマは身体中から(あふ)れ出す恐怖を必死に抑え込み、勇気を振り絞って戦いを挑もうとしている。

 それが、牡牛の魔獣には滑稽(こっけい)で仕方がないのだ。


 その様子を、ただ茫然と眺めていることしかできないカイラは、エマのように強くない。その心は恐怖に支配されていた。


 生き延びたい。死にたくない。助けて。ここから連れ出して。夢なら醒めて。

 叫ぼうにも声にならず、どれだけ願っても、応えてくれる者はいない。


 隣に立ち虚勢を張るエマにも、そんなことは不可能。

 所詮は自分と同じ、魔獣の(・・)に過ぎないのだから。


「む゛ゥ゛ぅ゛ウ゛ぅ゛……外ニ出てミるモのダな。コれホど美味ソうナにンゲンにアりツけルとハ」

「ひっ!?」


 長い舌で舐めずる牡牛の魔獣の期待と愉悦に満ちた表情に、カイラは悲鳴を上げる。

 もはや彼女の頭の中からは、リチャードソンから与えられた任務も、クローディアへの羨望と嫉妬も、自分を棄てたリンドグレーン家や死んだ母への憎しみも、全て忘却の彼方へと消え去っていた。


 だというのに。


「あ……」


 不意に、彼女の左手にレイピアの(つか)が触れる。

 幼い頃からずっと焦がれた、まだ見ぬ父への想い。


(……私はまだ、こんなところで死ねない。死ぬわけにはいかない……っ)


 面影すらない父が、恐怖に支配されていたカイラの心に向け、手を伸ばす。

 もはや彼女に、迷いはなかった。


 絶対に生き延びる。

 何としてでも。何を犠牲にしてでも。


「今よ! 行けええええええええええッッッ!」

「っ!」


 エマが叫び、鈍く輝く金属製の巨大なメイスを振りかぶって牡牛の魔獣へ飛びかかる。

 それと同時に、カイラは(きびす)を返して再び抜け穴の洞窟目がけて走り……出すことができなかった。


「あ……あれ……?」


 走り出したくても、足が一歩も前に進もうとしない。

 それどころか力が抜けてゆき、腰砕けになって立ち上がることすらも。


「どうして……どうして……?」


 自分の足を叩き、カイラは立ち上がろうと試みる。

 それでも、力が入らないのだ。


 無理もない。牡牛の魔獣から放たれている気配は、それだけでカイラの心をへし折った。

 どれだけ頭の中では逃げようと思っても、彼女には逃げるだけの気力すら残されていなかったのだから。


「お願い動いて! 動いてったら!」


 真紅の瞳からぽろぽろと涙が(こぼ)れ、自らの足に必死に訴える。

 それでも、身体が応えてくれることはなかった。


「っ!? ぎゃうっ!?」


 聞こえてきたのは、エマの悲鳴。

 おそるおそる振り返ると、地面に転がるエマの姿が。


『ニんゲんノ分際で、生意気ナ』


 先程まで笑い転げていた表情とは打って変わり、牡牛の魔獣は険しい表情となって凄まじい殺気をエマに向けて放つ。


(こんなの……こんなの……っ)


 どうしようもないほど全身が震え、かち、かち、と歯を鳴らすカイラ。

 もう、自分達には牡牛の魔獣によって死ぬ運命しか残されていない。


 ついさっき、まだ見ぬ父に出逢うためと奮い立たせた心は、とっくに霧散してしまっている。

 あるのは、恐怖と絶望だけ。


 それなのに。


「ああああああああああああああああああああッッッ!」


 夜空に向かって叫び声を上げ、エマは立ち上がる。

 見れば牡牛の魔獣の一撃によって頭から血を流し、左腕が変な方向に曲がっていた。


 だがそれでも、エマの藍色の瞳からは恐怖も絶望も(うかが)えない。

 あるのは、恐怖を乗り越え強く輝く意思の光のみ。


 ……いや、それだけではない。

 彼女を支えている何か(・・)が、こうして立ち向かわせているのだ。


「そ……そう? オマエも今の顔のほうが似合ってますけどね。思いどおりにならなくて、悔しいって顔」

『…………………………』


 不敵に笑うエマの強がりに、牡牛の魔獣は歯噛みする。

 カイラは自分のことで精一杯だったため、直前の彼女と魔獣の攻防で何があったのかは分からない。


 ただ、エマが牡牛の魔獣に対してそう思わせるだけのことをやってのけた。それだけは間違いない。


『黙れ、(ニえ)ガ』

「っ!? それはこっちの台詞(セリフ)ですから!」


 (ひづめ)で豪快に地面を蹴り上げ、牡牛の魔獣はエマに向かって突進する。

 猛牛のような勢いに加え、あまりの跳躍力と速さはさながら天馬のようにも見えた。


 一方で、エマは巨大なメイスを構えて迎え撃つ。

 第二軍団長のコンラッドですら足元にも及ばない膂力(りょりょく)を持つエマなら、ひょっとしたら。


 気づけばカイラは、じっとりと汗を滲ませた手を握りしめていた。

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