魔王と魔法使いとナイショのお話
「ああ、うるさいな」
彼が苛立たし気に声にする。
私はじっと様子を窺う。
「少し出かけてくる」
彼は微笑む。
私はコクリと頷く。
「いい子だね」
彼はそっと私を抱きしめる。
私もそっと彼を抱きしめる。
彼が教えてくれたひとつ。
「すぐ帰ってくるよ」
彼はそう言うと少し離れて、手の平を地面に向ける。瞬間、彼の足元から魔法陣が広がり、そして閉じてゆく。そこにはもう彼の姿はない。
消耗が激しい。兵士も、魔法使いも。
誰かが叫んでいる。一旦退却して態勢を立て直すようだ。
お前も下がれと仲間の声が背中を突き刺す。
わかっている。自分の魔力がもうすぐ尽きることも。
わかっている。眼前の兵士を見殺しにすることになることも。
何か…視界の端で光を捕らえる。灰色の空に巨大な魔法陣が出現する。中央から何者かが落ちてくる。
あっと思った時にはもう、眩しさに視界が遮られた。
キーンと耳鳴りがする。遠くで雷が光っている。焼ける、酷く嫌な匂い。たくさんの塊が転がっている。
大地を覆い尽くしていた魔物の群れは、どこにいってしまったのだろうか。
ざわついている。邂逅の歓喜と畏敬の念。されど男の言葉ですぐに静寂が訪れる。
「何年になる?」
「…200年になります」
「前回は500年だったよなあ?早くないか?」
男は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「…すみません」
長は素直に謝罪の言葉を口にした。長であれ、いまやこの世界の守護者である男をぞんざいに扱う者は、もういない。
ふん、と男はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「もうずいぶん長い間、魔力の強い者が現れません」
男はまた笑みを浮かべる。
「争いが増えれば現れるだろう」
その言葉の意味を、我々はすでに知っている気がする。
男は笑みをそのままに目を細める。
「なあ、お前も考えたことはあるだろう?封印が解かれたわけでもないのに魔物が増える理由を」
空気が張りつめた。誰もが長の言葉を待った。長いような、短いような、沈黙が辺りを覆う。しかし男は返事を待たずに消えてしまった。
何か食べなければ、と思っていた。
草の隙間からあばら家に飛び込み、床を這い、忙しなく目も指も動かす。部屋の隅に干からびた何かを見つけ、すぐにかぶりついた。昔、似たようなものを食べた気がするが、味はもう思い出せない。
不意に足音と声がした。あいつらだ。あいつらは誰にでも攻撃してくる。同じ人間なのに。
振り返ると炎の塊が迫ってきていた。
はじめは“なぜ”だったと思う。
それから悲しみ、怒り、そして憎しみ。
忘れていた感情が溢れだし自分を包み込んだその刹那、白い光に包み込まれた。
耳の中で音が反響している。赤黒い地面に燻る肉塊。そして焼ける“いつもの匂い”───
「バケモノ」と言われた気がする。ああ、そうだった。あいつらは誰にでも。同じ人間なのに。
いつの間にか誰かが側に立っていた。
「おいで。一緒に行こう」
声をかけられ空腹だったことに気がついた。
何か食べなければ。
ある日、魔法使いがひとりの少年を連れて来た。魔法使いは少年に魔法を教えた。少年は次々に魔法を覚えた。
やがて少年は青年になり、この世界に敵う者がいなくなったとき、ある命令が下された。
“魔王を封印せよ”
まるで幼子のようだと思った。
魔王と呼ばれているその者は、何も知らなかった。
自分のことも。世界のことも。
「ナイショだよ」
───ナ、イ、ショ、
「そう。誰にも言ってはいけないよ」
ざわついていた。この世界の守護者になった彼の帰還に。それなのに、、、
封印を守るため”あの世界”に戻ると彼は言った。
「それでは貴方が───」
思わず声にして、そして言葉を飲み込む。それが一番良い方法だと、誰もが思っている。
「やはり貴方にとってこの世界は、良いものではありませんでしたか…」
彼は悪戯っぽく微笑む。
「そうでもないよ」
もうずいぶん長い間、見ることができなかった愛しい笑みだ。
これから私は命令を下さなければならない。
私の弟子であり、家族であり、友人である彼に。
「お願いします。この世界を守ってください」
魔法陣が広がり彼が現れる。
「ただいま」
───オカエリ
彼が教えてくれたひとつ。
「いい子だね」
彼はそっと私を撫でる。
私もそっと彼を撫でる。
「ここには誰も来られないから、誰にも知られることはないよ」
よくわからないけど、コクリと頷く。
「ヒミツだよ」
───ヒ、ミ、ツ、
「そう、」
彼はコクリと頷く。
「ナイショのお話」