足元の悪魔
殺したいほど憎い相手が、目の前に無防備に横たわっている。そいつはすやすやと穏やかな顔をして、仰向けで静かに眠っていた。
私の右手には、不思議な力によって生み出された魔法のナイフが握られていた。
持ち手には細かい流線形の彫刻が施され、骨董品として売られていそうな、美しいナイフだ。鋭利な銀の切っ先は、ぞっとするほど冷ややかで、見ているだけで恐ろしくなってくる。
私は願った、目の前に横たわるこいつの存在が消えるのを。
どうしてこんな奴がいるのかと世界全体をも呪った。こいつに何度も嫌がらせしたり、消す妄想を繰り広げた。だが、実際に自分の手で消そうなんて、考えたことはなかった。
そんな時に、目には見えない”何か”が突然現れ、私の耳元で囁いた。
「憎いか?」
当たり前だろう。殺してやりたいほど憎いと言うのに。
「その相手を殺す魔法を、お前に与えよう」
それが悪魔か死神だったかどうか、分からない。ただ男とも女とも見分けがつかない不思議な声色をしていた。
私は答えなかった。だが、心の中で「欲しい」と強く願った。
次の瞬間、紫色の煙のようなモヤが、私の身体全体を包み込んだ。
その”何か”に力を授けられた私は、気づけば知らない場所にいた。
辺り一面真っ白で、ここがどんな部屋なのかまるで検討もつかなかった。もしかすると部屋ではなく、空間なのかもしれない。
気づけば鋭利なナイフが手に握られており、私の目の前にその人物は転がっていた。
私はこれは夢だと判断した。
相手に憎悪を向けるばかりの毎日だったから、とうとう夢にまで現れたのだ。
自分の手で殺せる――。
そんな夢は、大変いい気晴らしになることだろう。目覚めの後の爽快感は、果たした想像を絶するに違いない。突如として晴れやかな気持ちになり、私はその人物に歩みを進めて行った。
『好きに殺せ。好きに嬲れ』
またあの不思議な声がした。脳内に直接響いてくるようだった。
私は、改めて眠る者の顔を、じっくりと見る。
そいつは気持ちよさそうに眠っていた。
すると、先程まで冷静だったのに頭に血が昇るほど、腹が立ってきた。何も知らずに、ここで呑気に寝てるなんて。
――許せない。
『大丈夫だ。誰もいない』
声の主はそう言った。ならば、やることは一つだった。
ナイフを高く掲げる。刃の先が、そいつの心臓に突き刺さるように向けて。
――ドクン。
その瞬間に心臓がいつもより力強く鳴った。
『本当にそれでいいの?』
声が聞こえた。あの声とは違う、知らない声だ。
『誰が望んだの?』
誰?誰ってーー。
望んだのは私。拒まなかったのも私。
「これは、私が望んでやっているんだ」
自然と口角が釣り上がった。
『殺した先に、何かあるの?』
目を見開いて、辺りを見回す。しかし誰もいない。
怒りで唇が震えていた。
何があるって聞かれても、何もない。
何もないけどそれをすると、痛快なんだ。とても気持ちがいい。それ以外になんの理由がいる?
『酷いことしないで』
その声は、ついに耳元で囁いた。
私は手で髪をくしゃくしゃにしながら、かぶりを振った。
うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい。
こんなことを私にさせる、こいつが悪いんだ。こんなことをさせる、世の中が。人間が。お前らが。
許せない、許せない、許せない、許せない、許せない。だから、し、ね。
「ーーーーーーー!!!!」
気づけば叫んでいた。ナイフを持つ手に、思い切り力が入る。
冷や汗に近いものが、全身から流れ出る。何も考えず振り下ろせば終わることなのに、何故か私の思考は加速した。
何を怖気付いているんだろう、私は怖いの?
これまでも、散々願ってきたことだ。今更何を怖がるんだろう、何を恐れている?
今からやろうとしている行為を知っているのは世界で一人、ただ私だけ。
「ーーーーっはぁっ」
喉から細いかすり声が出た。
私は報われる。私の気持ちは報われる。嫌な思いも、不快な気持ちも、一気に爽快へと変わる。身体を蝕む腫瘍が無くなるように。このナイフを、ただ相手に突き刺すだけでいいのだ。
『――君が殺そうとしている人は、君と直接話したことはあったかな?』
どきりとした。
自分の首元が恐ろしく冷やりとした。
なんだって?
『その人は、君のこと、なんにも知らないよ』
そうだよ、知らない。
知るわけがないだろう。
『君だって、その人のこと、なんにも知らないよ?』
何を、言っている……?
私は知っている。こいつのこと。
だって憎くて、殺したいくらいだもん。
不愉快なんだもん。
嫌い、嫌いーーーぇえと、なんでだっけ?
『やめて』
声は続いた。
私は――こいつが嫌いだった。憎かった。許せなかった。
その感情に終止符を打ちたかったから、だからやるの。
『やめて』
その声は、どこかで聞いたことのある声に変化していた。馴染みのある声だ。私はこの声を、よく知っている。
「――何を――……?」
我に返り、未だに力強く握っているナイフを見た。
私は何をしようとしていた?
先程まで私に取り憑いていた憎悪が、嘘のように氷解していく。
途端に自分が怖くなり、ナイフを遠くへ投げ捨てた。かしゃん、と乾いた音を立てて、ナイフは地面を滑って止まった。
本当はこんなことしたくなかった。
けれど、私は負けたのだーー悪魔の誘惑に。
気に入らない相手を消せると聞いて、喜んでしまった。喜ぶまでは良かった。
実際に手を下そうとした。
自分の手の平を見る。
良かった。何色にも染まっていない。
あの悪魔の声も、そしてもう片方の声も、もう聞こえなくなっていた。
帰ろう。
帰ろう、日常に。
憎んだ相手は、何事もないかのようにまだ眠っていた。
それでいい。
立ち上がり、私は踵を返した。
……
気づけば、私は自分の部屋で棒立ちしていた。
窓から夕暮れの光が差していた。もうこんな時間だったのか。
夢だったということにしておきたかった。
しかし、握っていたナイフの持ち手の感触といい、響いた声といい、何もかも鮮明に覚えていた。残念ながら、夢ではないようだ。
ふと足元を見ると、夕陽によって出来た自分の影が出来ていた。
一瞬、その影が形を変えて、醜悪な表情になって、私に微笑んだように見えた。
ぁあ、知っている。
あれは悪魔でも、別の不思議な存在でも何でもなくて。
そして、もう一人。
聞き覚えのある、あの声も。
私はこいつと、一生生きていくんだろう。