ナゼ、ナゼ、どうして?②
洗い物をしながら考えに耽る山川。来週の売場変更について―春・夏売場から秋・冬売場への棚替え。ここ数年、種類の増えてきたカップラーメンと袋ラーメンで特設コーナーを作ってみるか・・・カレーとシチューの売場を拡大して、チョコレートはメーカーさんが来るはずだ―
「・・・・・・ねぇ、お父さんっ。お父さんってば~!」
「へっ?」
店舗の売り場を思い描いていたのと水流によって、詩音の呼び掛けが全く耳に入ってこなかった。
「もう、全然訊いていない。」
「ご、ゴメン、ゴメン。えっと・・・何だっけ?」
「う・ん・ど・う・か・い。お父さんも見にくるんでしょう。」
両手を膝に置いて山川の顔を覗き込む詩音。運動会は再来週の日曜日。まずは水が跳ねないように蛇口を締めて、
「もちろん、ちゃんと観に行くよ。」
仕事は休みだし、前日の土曜日から弁当も準備して、少しでも恥ずかしくない昼食にするつもりだ。ところが、さして重要でない体裁を気にするのは大人ばかり。
「お父さん達のリレーがあるんだって。私、お父さんの走っているトコ、見たいなぁ。」
「えっ・・・・・・」
ここで年齢を考えるのもまた、大人ばかり。子が親の年齢を気にするのはまだ先のこと。少なくとも今ではない。
園児を子供にもつ親御さんは30代前半が多いか。20代のお父さんも珍しくない。40が視野に入ってきた山川にとって、それだけでリレー競技不参加の独り合点できる理由となるのだった。ただ負け惜しみを言う訳ではないが個の山川 一、足は速いぞ。小学1年生から紆余曲折を経て大学4年までクラブチームや部活、サークルでサッカーを続けてきた。確かにサークルなんかは週に1回の活動だったが、ずっと体を動かしてきた。ずっとボールを蹴ってきた。ポジションは主にフォワードでドリブルが得意だった。細かいボールタッチやフェイントで相手の態勢を崩したり、快足を飛ばしてディフェンダーを置き去りにして得点を重ねてきた。活躍してきたのだ。調子、厳密には体調の良い時には東京都の選抜メンバーにも同行した。高校時代、陸上部のスパイクを借りて(サッカーのそれとは違って綿毛のように軽かった)100メートル走のタイムが12秒を切った際には、部長が本気で引き抜きに来てくれたのは懐かしい思い出だ。
「参加するお父さん、沢山いるんだろう。参加人数も決まっているだろうし、お父さんは遠慮しておこうかな。」
やんわりと断った山川。ボールを蹴ることは愚か、ジョギングもほとんどやらなくなってしまった。気が向いた時に筋トレをする程度。ただし気まぐれな筋トレほど意味をなさないものはない。わざわざ人前で恥をさらすこともあるまいて―断っておくが、昔は快速はじめちゃんなんて呼ばれるくらいに足が速かったんだぞっ―何の気なしに棄権した山川。それは詩音にとって予想だにしない返答だったのだろうか。ショックが大きかったのだろうか。声もなく音もなく一筋の涙が、赤みを帯びたおまんじゅうの様なほっぺを伝った。動揺しまくる山川。頭は混乱、挙動不審、目の焦点が合わない、あたふたあたふた・・・・・・・ティッシュを4、5枚箱から引っこ抜いて涙を拭い、頭を撫でて、抱きしめた。どうして泣き出してしまったのだろう。傷付けるような言葉は使っていないし、素っ気ない態度も取っていない。普段、滅多に涙を見せない詩音が不意に感情を表に出した。もしかしたら幼稚園で何かあったのかもしれない。しかし連絡帳には何も書かれていなかった。一体どうしたのだろうか。ならば一言、訊けばいいのだが―
「どう・・・してリレー走ら・・・ないの・・・?」
一度零れ始めた涙は、一言発して流れを強めた。
「ごめん、ごめんな。」
とても詩音の顔を見ていられない山川。謝りながら抱きしめることしかできなかった。
2週間あれば少しは体を取り戻せるかもしれない。ということで、詩音の運動会に向けた山川のトレーニングが始まった、というのは大袈裟。ただ何もせずにぶっつけ本番で挑む程大胆ではない。それなりの準備、できる限りの地固めは行うつもりであった。別に20分間は知れる体力を取り戻すとか、くっきり割れた腹筋を復活させるとか、そんなことまでは必要ない。ざっと100メートル走れればいいのだ。とにかく短距離を恥ずかしくない姿勢で走れれば良い、転ばなければよい、できれば抜かれなければよい。
まずは6時起床を5時半に変更。3、40分あれば準備体操、ストレッチ、ウォーミングアップと短距離ダッシュを5~10本こなすことができる。とにかく鈍った身体を脱皮する如く◯いでいかなくてはならない。最低限度は走れる足を取り返さなくては話にならない。まだ手遅れではないと思う。
誰もいない柊公園で準備体操を始める。7時近くまでは太極拳のおばあちゃん方も来ないはずだ。さて、これは山川が子供の時から感じていたことなのだが、上半身はラジオ体操でおよそ十分。補足として首でも回しておけばいい。ただこれだけだと膝や足首などの下半身の解しが足りない。だからラジオ体操にプラスして屈伸、震脚とアキレスけんを伸ばして、足首をグルグル回して補完する。その後ストレッチをしたのだが、随分と体が硬くなってしまったことを実感する。軽くやる気が削がれるくらいにイメージと実情が異なっていた。いきなりストレスを溜めながらストレッチを完了し、やれやれと溜息をつきながら軽く走ったり跳ねたりして体を温めた。そしていよいよダッシュしてみるか、と。久々の運動ということで、いきなり本気の走り込みは怖い。怪我して動けなくなってしまっては元も子もない。全速力が怖いというのが大人の情けない特徴で、5割、6割の力で、フォームに注意を払いながら汗を流すのだった。
結果、悪くなかった。ストレッチの感触からすると意外だったが体は軽く、我ながらスムーズに足を運べていたと思う。俺もまだまだ捨てたものではない。ただあまり調子に乗ると足元をすくわれそうだ。ここはあくまで一般的な公園。グランドみたいな土ではなく、ましてやゴムでも芝生でもない。コンクリートや砂利道よりはましだが、それなりに滑る。グランド整備がされている訳でもない。その点にも気をつけながら初日ということでダッシュ5本で切り上げた。仕事もあるし、詩音も起こさなくてはならない。公園を後にする山川であったが、いささか物足りなさを感じていた。運動量ということではなく、これまで山川はただ走って終わりという体の動かし方をしてこなかった。必ずボールを蹴ってきた。別にシュート練習をしようという訳であない。リフティングで十分。押し入れに眠っているサッカーボールを引っ張り出して、呼吸を整える間だけでもボールを蹴ってみようか。どこか手持ち無沙汰というか、足下が淋しいな。そんなことを考えていたら公園の時計が6時を回っていた。遅刻をするわけにはいかない。
その日の夕食後、サッカーボールに空気を入れる山川。電動の空気入れなんて便利な道具を持っているはずもなく、ぺちゃんこな革の塊を手動でシュコシュコ膨らませていった。父親の不審な行動と不気味な音に気が付いた娘。
「何のボール?」
お絵描きを一時停止し、玄関の父親の隣にちょこんと座ってきた。そうだよな、サッカーボールなんか女の子は見る機会がないだろう。そして自分がサッカー経験者であることを詩音に話したことはない。
「サッカーボールだよ。そうか、詩音は初めて見るんだっけ。」
「うん、サッカーやったことない。」
「こうやってボールを蹴るんだ。」
まだベコベコのボールから針を抜いた山川は、よっ、と立ち上がるとつま先でちょんちょんと10回くらいリフティングを見せた。ちょっとくらいカッコイイ姿を見せたって罰は当たるまい。
「え~、お行儀悪い~・・・」
何ともまあ、現実的な感想が返ってきた。
「そうだな~、そうかもしれないな~。」
「何でボールに空気を入れているの?」
「昔、お父さん、サッカーをやっていたんだ。またボールを蹴ろうと思ってさ。」
「へぇ~、お父さんサッカーできるんだ。」
「ちょっとだけな―あ~、そうそう・・・詩音。お父さん、リレーに出るぞ。」
詩音が山川の膝に抱きついた。作りかけのボールが転がっていってしまったが、慌てて取りに行くこともあるまいて。
日曜日。運動会まで1週間。。仕事は休み。幼稚園も休み。どこか活気の失せたような早朝の公園に響く、土を◯む靴の音とボールの弾む音。30過ぎたオッサンが黙々と汗を流していた。今日は時間を気にせず運動できるということで、いつもより集中力も上がっていた。ちょいと感覚を取り戻してしまえば、呼吸を整えている間のリフティング100回など文字通り朝飯前。得意だったドリブルなんかもちょこちょこ挟みながら、フェイントなんかも混ぜながら、やっぱりボールを蹴るのは楽しいな、と。近くにサッカーボールがあるとどこか落ち着く。着々と身体を元に戻す山川。学生時代、現役時代の肉体が戻ってくるなど期待はしていない。かつての強度の運動、負荷に耐えられるはずもない。エキシビジョンなのだから順位なんか関係ない。ただ願わくば、娘にいい所を見せたいな、と。悪いことでも疚しいことでもないはずだ。詩音ちゃんのお父さんカッコイイねと、詩音が恥ずかしくない父親でありたいなと。自分に課した本数の走り込みは済んでいたが、気分の乗ってきた山川。もう2、3本いってみるか―その時だった。寝惚けていないはずの目をパチパチ、思わず目を細め、目を疑った。詩音の登場である。パジャマのまま、寝ぐせのまま(これは山川も同じだが)、さんだる履いて、笑顔で手を振りながら。
「えへへ・・・おはよ、お父さん。」
「はい、おはよう・・・じゃなくて―」
しゃがんで詩音と目線を合わせる山川。
「どうしてここが分かったんだ?」
「え~と・・・何となく公園で遊んでるかな~って思ったの。ボールに空気入れてたし。」
これが女性の勘という奴なのだろうか。百点満点の推理である。今後隠し事はできまい。
「そ、そうか・・・よし、まだ早いから帰ってもうひと眠りしようか。」
視線を落とし、うん、とは従わない詩音。そのつもりであれば、おしっこに起きてわざわざ家を出たりはしない。独りで不安だから父親を捜しにきたのではない。
「お父さんの来ている服、初めて見た。」
詩音の視線の先には、山川が大学生の時に購入したプーマのウインドブレーカー。普段着とは見た目や素材が異なり物珍しいようだ。高校時代から体型の変わらない山川なので、10年以上も前に買った上下のウインドブレーカーも十分に着られるのだった。
「よし、帰ろ―」
「お父さんのサッカー見てみたいなぁ。」
後になって考えれば、この日がきっかけだったのかもしれないな。原点というよりは、元凶という方が正しいのかな。