疾うに、夙に②
翌日はサンドイッチ作りから一日が始まった。昨日、8枚切りと4枚切りの食パンを購入した。10枚切りとか山型なんかも店にあるのだが、前者はちょっと薄すぎて、後者はどうせ耳は切ってしまうということで落選。具材はレタス、ハム、チーズにゆで卵。いちごジャムにオレンジマーマレード。調味料はケチャップとマヨネーズ。これが山川の武器の全てだった。
「それでは、サンドイッチを作りま~す。」
「は~い。」
クマさんのアップリケをしたエプロンをつけた詩音が、元気に右手を挙げる。机上に揃えられた材料を前に、うずうずして仕方のない様子で山川からの次の指示を待っていた。一方で山川の頭の中には、子供の頃から今も続いている短い料理番組の音楽が流れていた。迂闊に口ずさまぬよう気をつけねばなるまい。
「このタッパーに入っているのがレタス、詩音の目の前にあるのがハムで、袋に入っているのがチーズ。チーズ自分で袋から出して使って下さい。」
「うん、やってみる。」
娘の性格を一言で表すならば、前向き。逃げない、諦めない、へこたれない。ただちょっと繊細さに欠けるのが玉に瑕かな、と。顔に似合わず豪快な一面があった。
「詩音さん、ちょ~っとレタスを入れすぎでは?他の具材が挟めなくなちゃうぞ。」
「あれ~・・・?」
「レタスは2枚くらいでいいかと。」
「うん、分かった。」
素直に応じる娘を横目で見ながらタッパーに戻される枚数を勘定する山川。6枚のレタスがタッパーに帰っていった。
「できたーっ」
「よし。」
仕上げは山川が耳をカットして、弁当箱に入るよう半分に切ったら完成である。娘のリュックに弁当箱を2つ、傾かないように入れたら準備完了。重い水筒などは山川の荷物に加え、着替えを済ませて出発である。
マンションから1分、隣の隣の隣には『柊公園』があって、詩音にとっては庭の様な遊び場である。決して大きな公園ではないが、園児が走り回るには十分な広さだった。遊具も設置されていてブランコ、滑り台、鉄棒にジャングルジム、中でも詩音の最近のお気に入りは砂場だった。いとも簡単に砂山を作るとトンネルを掘って、川とダムを繋げて水を流す。公園に行って砂場に誰もいないことを確認すると、水を流して納得するまで帰って来なかった。反対に逆上がりのできない詩音は鉄棒に近付きもしない。山川が如何に説得しようとも見向きもしなかった。庭の様に慣れ親しんだこの公園でも悪くなかったが、如何せん近場すぎる。せっかくサンドイッチまで手作りなのだから、無理のない程度に遠出をすることにした。
近所の公園では芸がない―遠出を試みることにした山川―電車に乗ってみようかと。ただし小田急線ではない。娘の年齢を考えても、あくまで少しの遠出にしたい。自宅近くを走るもう一つの鉄道、世田谷線。開かずの踏切りを有する小田急線と比べると規模の小さい2両編成の列車で、発車の際に2回ベルを鳴らす、いわゆるチンチン電車だ。各駅の間隔も短く、全駅を30分程で完走する。そんな昔ながらの電車で最寄駅から1駅。その駅の目の前に目的地の『赤松公園』があるのだった。自宅近くの柊公園よりもずっと大きな公園で、中央にはフェンスに囲まれた球技専用広場まである。そこには平日、休日を問わず野球少年達の聖域だった。軟式球とグローブと金属バットを持ち寄っては夕暮れ時、ボールが見えなくなるまで歓声と金属音が止むことはない。ゴムボールとプラスチックのバットを卒業した少年達にとっては貴重な球戯場を囲むように散歩道が敷かれる赤松公園。樹木も多く遊具も豊富で、小川まで流れている。そんな公園の一角でお昼を食べようという計画だった。
家を出る直前にジリリリリンと鳴り出した黒電話には焦った。職場からという直感が頭を過りながら受話器を取ると運がいいのか悪いのか、間違い電話で事無きを得た。うちで蕎麦の出前はやっていない。
「だ~れ?」
すぐ横で詩音が不安げに山川を見上げていた。
「間違い電話だったよ。さ、行こうか。」
「うんっ。」
手を繋いで遊歩道を歩く。のんびりと駅へ向かう。普段、詩音はこの道をほとんど歩かない。家から幼稚園までのルートから外れているからだ。山川は車を持っていないのであまり偉そうなことは言えないが、それでも幼稚園児よりは行動範囲がずっと広い。子供の頃、自転車に乗れるようになって友達と行ける場所がうんと増えた。まだまだ歩き始めて数年の園児にとって、いつもと異なる道を征くだけで大冒険の始まりである。心地良い緊張と興奮で満たされていることだろう。帰り道は疲れ果てて担がされることが分かっていても、どこかへ飛んでいってしまうかのように足取り軽い娘の姿を見ているだけで、先の不安も仕事の疲れも吹き飛んでしまうのだった。
サンドイッチの前に、詩音にはもう一つ楽しみがあった。それは列車の先頭で景色を満喫すること。世田谷線は駅と駅の間隔が短いことは詩音も知っていた。駅を出てしまえば1分。その間、飛び込んでくる景色を逃すまいと運転席の真後ろに陣取った詩音。二両編成の世田谷線では運転席を仕切る扉がある訳ではなく、乗客とは鉄棒1本で区切られているだけ。いつもは近付きもしない鉄棒にピッタリすり寄る詩音。背後に立たれては気にするなと言う方が無理な話なのだが。
「すいません・・・」
一言断り、進行方向の先頭に立つ2人。準備万端かと思いきや、すぐさま
「だっこ。」
そうだな、詩音の背丈では外の景色は見えなかろうて。満面の笑みで両手を伸ばしてくる詩音。次の駅までは1分弱。それ位ならば抱え続けられるだろう。うかうかしている内に着いてしまう。1分なんてあっという間だ。よっ、と軽く気合を入れて、景色が見えるよう、いつもとは逆向きに抱え上げた。随分と重くなったが、まだまだ軽い。正面の窓から吹き込んでくる景色に目を奪われる姿は、まだまだ幼い。
意外とハードな筋トレになった。電車を降りた後は、その緑の車体が見えなくなるまでバイバイして見送った。有り難いことに運転手が気を利かせて、チンチーンとベルを鳴らすサービスまでつけてくれた。深々と頭を下げる山川。倣う詩音。ひょんなところで接客とは何か再認識させてもらった。さ、赤松公園は目の前である。
「おっきな公園だね~。」
一歩踏み入れただけで繋いだ手から詩音の興奮が伝わってきた。いつも遊んでいる柊公園とは大きさも雰囲気も異なる環境に、珍しく尻込むかなと徒ら心で期待していた山川だったが、そうは問屋が卸さない。力強く山川の手を引く詩音であった。
「よしよし・・・ぐるっと一周しようか。」
「うんっ。」
前を向いたまま返事をする。物怖じせず、怖いもの知らずの娘に対して、知らない人についていってはいけないよと、何十回繰り返してきたことか。昔から人見知りをすることもなかった。幾らか愛嬌を犠牲にしても、もう少し警戒心を携えてくれまいかというのが山川の本音であった。
「うわ~・・・鳩がいっぱいだ~。」
ほぼ初めての場所でもずかずか猛進する娘に手を引っ張られる山川であった。
敷物を持ってくれば良かった。公園を1周している最中に後悔が頭を過った。我ながらシミュレーションが甘い。不慣れというか、経験の浅さが露呈してしまった。必然的に視界が、座る為のベンチばかりを探すようになる。失敗したと片目を瞑る山川とは対照的に、瞳を目一杯に見開いて蛇行するは詩音。取り巻くすべての者に近付き、触れてみたいのだろう。磁石にくっつくかのように吸い寄せられてしまう。山川の腕も右に左に引っ張られ、鳩の群れに半ば奇声を上げて突っ込む際には、とうとう手を離して駆け出してしまった。安心安全に慣れた鳩からすればいい迷惑だろう。もしくは、よくある一幕なのだろうか。余裕をもって逃げ惑うぽっぽを一頻り追い回した詩音が、満足気なほくほく顔で空腹を訴えた為、昼食を取ることにした。制止も訊かず、背中のリュックを気にすることなく跳ね回っていた詩音だから、中身のサンドイッチを想像すると怖かったが、今更どうしようもない。覚悟を決めて近くのベンチへ向かうのだった。
お手拭きは抜かりなく持ってきていた。山川にとってはやや小さいウェットティッシュだったが、詩音の手を拭いてやるには十分だった。球技専用グランドの見えるベンチに座り、いよいよ問題のサンドイッチである。ワクワクの詩音にドキドキの山川。リュックから弁当箱を取り出し、2人の間に置く。そして平常心を意識しながら山川がゴーサインを出した。
「じゃあ、詩音。お弁当箱を開けてくれるかな。」
大役を任された詩音はコクリと頷き、恐るおそる、そろ~りとフタを持ち上げた。すると中身は、作った時と同じ形状のサンドイッチが収まっていた、どうにかこうにか一安心である。背中を気にせず動き回る娘を止める話術が見つからず、背中からリュックを下ろす隙もなく嫌な予感もしたが、どうにか事無きを得た。娘の運動量を考えると奇跡に近い。あとは味がどうかという所だったが、朝から2人で作ったサンドイッチ、おいしいに決まっていた。しかもアニメと同じものを食べたのだから。少年達の野球を見ながら口一杯に頬張る詩音・・・・・・若干入り切っていないか。お手拭きを多めに持ってきておいて正解だった。口の回りがドラキュラだ。
作ることで満たされていたのか、食べて目標が達成されたのか。サンドイッチを平らげると、遊ぶの一点張りとなった。見慣れない遊具の虜。どうにかこうにか10分間はじっと休憩させたものの、やがて鳩を蹴散らしながら飛んでいってしまった。
狙いをつけていたのはシーソー。幼稚園にも柊公園にも置いていない遊具で、詩音も初めて触れるはずだ。だからシーソーという名前を教わった詩音が片側にちょこんと座っても、当然何も起こらない。む~と山川を見上げるだけだった。生気の遊び方はさすがに怖かったので、手すりをしっかりと握らせてから手動で上げ下げしてやる。喜んでくれてはいるが、タイミングを合わせて地面を蹴ってくれるはすもなく、明日以降の筋肉痛が約束された。
お次は親子山の大きな滑り台。コンクリートでできた山の頂上から下るもので、長さはそれ程ではないものの横幅が広く、両手で体を支えられない。詩音では着地と同時に頭を打ってしまいそうなので、山川が背もたれとなって滑り続けた・・・・・・・・・15回程。水筒は空となり、近くのコンビニでお茶を追加した。