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あなたへ~山川と詩音  作者: 遥風 悠
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疾うに、夙に①

                         

                    あなたへ




()うに、(つと)に】


 夏は心の臓に重くのしかかり、冬は耳の先まで凍てつかせる。できることは立ち尽くすことのみ。ただ見送ることしかできない。過ぎ去るのを待つしかない。遮断機の音が愛しいという大人は少ないだろう。かまびすしくなり響くあれだ。車両や歩行者に電車の通過を知らせる警報なのだから眠気を覚ますくらいで丁度いいのだが。問題は、朝の忙しい時間帯にいつまでたってもカンカンカンカン鳴りやまないことだ。一旦、竹竿を上げられるのではというくらい列車が通らないことだってある。そんな『開かずの踏切り』なんて呼ばれる遮断機がここにも存在する。小田急線―小田急小田原線という正式名称を知らない人がほとんど、なんて言ったら誇張が過ぎるが、それ程までに小田急線という呼称が浸透していた。その一区画、経堂駅と豪徳寺駅の間にあるこの踏切りも、前触れなく開かずの踏切りへ変貌するのだった。上りの通勤ラッシュ、新宿駅へ向かう通勤電車は乗車率が100パーセントを超える。自ずと各駅の停車時間が長くなり、ダイヤが乱れれば踏切りを通過するタイミングにもズレが生じる。それが悪いように重なると、開かずの踏切りの完成である。




 自宅のマンションから娘の幼稚園までは徒歩5分。目と鼻の先で、住んでいる4階からは幼稚園の時計台も見える。この時間的かつ距離的な安心感が精神的にも肉体的にも大きな救いとなっていた。一人親で、娘を預けてそのまま仕事へ向かう山川やまかわ はじめにとって、この環境がどれだけ有り難いか。普通自動車免許は持っているものの、自家用車を持っていない山川にとって、送り迎えの距離が短いことは、日常生活の生命線に違いなかった。

 朝は7時50分に家を出る。娘の通う城徳(じょうとく)幼稚園が8時から受け入れを開始してくれることにも感謝、感謝である。ハンカチやティッシュは忘れても構わない。弁当だけは間違いなく持たせて、園に着くのは7時台ということもある。他の園児たちは8時半とか9時とか、もっと遅い時間に登園するのだろうか。良くも悪くも、必ず単独の一番乗りである。移動距離が短いということは移動時間も短縮できる。そう、魔の踏切りさえなければ。




 山川はスーパーマーケットの店員として働いている。歴とした正社員なのだが、一身上の都合という奴を理由に数年前からほぼ一切の残業を免除してもらっていた。8時30分から16時30分という勤務時間に加えて、土、日休みの完全週休2日。小売業に携わる人間としては破格の待遇と言えよう。一般的にはありえない。来店客の多い稼ぎ時に休むということは、出勤している他の人間に多大な負担と迷惑をかけてしまう。同僚のみならず、パートさんやアルバイトさんにも負荷分担をお願いしている山川。手取りは社員として最低限の金額で、出世街道からもとっくに外れていた。それでも彼の社内評価及び店内の評判は低くない。平日限定の人数調整などの戯言は誰も口にしなかった。それ所か頼りにしている者も少なくない。理由は2つ。発注の才と売場作成の才。これが厄介で、もちろん基本やいろははあるのだけれども、ある程度のレベルに達してしまうと最終的にはセンス、読み、勘と運が力量となる。その妙は別の機会に触れるとして、そんな山川に勤務の融通を望むものは多い。けれど山川、既に30代半ば。娘の年齢や家庭事情を考えると、望み薄であることも承知しているのであった。


 さて、一口にスーパーマーケット勤務と言っても様々な部署がある。例えば魚や寿司を扱う鮮魚部や、弁当・総菜を作るデリカ部、野菜や果物担当の青果部など。そして山川が所属するのが一般商品部。随分と具体性に乏しい大雑把な部署名に訊こえるが、その理由は扱う商品がとても幅広いこと。割合でいくと、お客の買い物カゴに入っている商品の7割以上を一般商品部のアイテムが占めるようだ。牛乳、卵に味噌、◯油、パンにソフトドリンク、菓子、お酒。カップラーメンや冷凍食品もそうだし、種類は少ないが雑貨やペットフードも置いてある。要は、あれもこれもである。数え切れない程のアイテムを扱う一方で、他部署と比べて賞味期限の長い商品がほとんどの為、扱い易くはある。

 そういえば近頃はコンビニエンスストアなる業態が増えてきて、山川の勤めるスーパー周辺にも数店舗のコンビニができた。現状では競合店という意識はそこまで強くないものの、あの狭い坪数によくもまぁ効率善く商品を並べるなと感心する山川であった。しかも24時間営業する店舗もあるという。果たして利益が出るものなのか。企業としてやっていけるものなのか。値段だって定価販売で決して安くはない。スーパーと比較した際の決定的な強みは見出だせなかった。

 話が逸れてしまった。こんな紹介だと一般商品部だけ飛び抜けて多忙に訊こえるかもしれないが、唯一発注した商品に手を加えない部署でもある。切ることも捌くことも、焼くことも揚げることもしない。その代わりに商品の陳列や売場作成、そして日々の発注が主軸の業務となる。店の顔を作ると比喩される仕事である。

 さて。おはようございますと既に出勤している社員やパートに軽く挨拶をして回った山川は、売場の品出し作業に取り掛かる。朝9時半の開店に向けて一般商品部は―やや長ったらしいので普段はデイリー部と呼ばれる―開店までの小一時間が勝負であり、地獄である。寝惚け眼をこすっている暇はない。徐々に体を起こして、慣らしてという訳にもいかない。朝一から全速全開のスタートである。駐車場に止まったトラックから開店前に納品されるカテゴリーはパン、牛乳、乳製品に冷凍食品。ドライバーさんが店内に運んでくれた商品を手分けして陳列するスピード勝負なのだが、仕事に関しては他にいくらでも話す機会があるだろう。もちろんデイリー部以外の部署も同様に、とにかく朝はドタバタなのである。

 山川の勤務終了は16時半。そこから自転車を飛ばして娘を迎えにいく。スーパーから幼稚園まであおよそ30分。夕刻の道をママチャリが唸りを上げるのだった。狭い歩道はさすがに安全運転へ切り替えるが、山川なりにルートは吟味してある。帰り道のほとんどは見通しの良い車道。こけない程度、恥ずかしくない程度、太ももがはちきれない程度、グルグルグルグル足を回した。

 幼稚園の閉園時間は17時30分。いつもギリギリまで娘を預かってもらっている。時には先生方と一緒に園を出ることも。お友達はとっくにお迎えが来ていて、いつも最後。自分以外は次々と迎えが来る。見送ってばかり。バイバイと笑って手を振る様子は容易に想像できるが、その胸の内は目を逸らしたくなる。寂しい思いをさせてしまっている。1分1秒でも早くと迎えにいくが、17時前に到着することは難しい。それと、まだ独りで留守番を任せられないので山川の休日は幼稚園の休みに合わせた日曜と祝日。だから、今日は早目に迎えにいくぞ、なんて驚かせることもできない。朝起こして幼稚園に連れて行って、夕方一緒に帰宅して、風呂に入れて夕食を食べて、寝かしつける。娘との平日はたった一行で終わってしまうのだった。

 だから仕事のない日は娘との時間に全力を注ぐ。朝から晩まで、娘の起きている間は己の全てを捧げるのだ。親バカの烙印は望む所、山川にとっては褒め言葉に違いなかった。詩音が週末ほんの少しでも楽しみにしていてくれればそれで良かった。そんなゴールデンタイムは土曜日のお迎えから始まる。明日の日曜日は娘からのリクエストに応えて、ちょっとだけ遠出をする。降水確率はゼロパーセントで、唯一の不安応訴も解消されていた。

 仕事を終えた山川はマンションの駐輪場に自転車を置くと、家に上がることなくそのまま幼稚園へ向かう。店舗で買い物をしたり、沢山の荷物がある時は別だが、今日はなし。着替えの入ったリュックを背負ったまま、足速に歩き始めるのだった。ただ、ここでもネックは踏切りとなる。夕方の帰宅ラッシュ中に小田急線のダイヤが乱れたりすると、遮断機は上がらない。朝の通勤ラッシュ程ではないにしろ、夕方でも引っ掛かることはある。今日は事無きを得たが、どうしようもない時は潜り抜けてしまうことは、絶対に娘には秘密だ。


 「あっ、お父さん!」

この一言でちょっとした肉体慰労なんかはどこかへ吹き飛んでしまう―他の園児はみんな帰ってしまっていて、誰もいなくなった広い部屋にずっと独り。それでも必ず笑顔で迎えてくれた。ぐずって泣いていたのは入園当初くらい―何が嬉しいって、お絵描きをしていても絵本を読んでいても、先生と遊んでいてもすぐに中断して切り上げる。そしてかばんと帽子を両手に持って、一目散に山川の方へ駆け寄ってくる娘に対して、内心は「お待たせ―!」と叫びたかった。回りに誰もいないのであれば、肩車でもしてやりたい気分だった。ただそこはぐっと堪え、親の威厳と落ち着きを示さねばならない。

「片付けはしたのか?ほら、ちゃんと先生に挨拶して。」

そう言いながら娘の頭を押しながら一緒にお辞儀をする。意識して仏頂面にも似た真面目な顔を作ることにも慣れたものである。


 「詩音、今日は何をして遊んだんだ?」

手を繋いで家路に就く。娘に、手がガサガサと言われないようハンドクリームをつける習慣のできた山川。店のパートさんにも手がスベスベねと褒められると、悪い気はしないのであった。幼稚園を出たら娘からかばんを外してやって、自分の肩に掛ける。詩音はもしかしたら腕白お(きゃん)なのだろうか。1年で肩掛けかばんがかなり古びてしまった。まっ黄色だったかばんに黒い染みがそこかしこ目立つようになった。

「ねぇねぇ、お父さん。明日はピクニックに行くんでしょう。」

にっこりと山川を見上げながら明日のイベントを確かめる詩音。笑うと目の輪郭が平仮名の『へ』みたいな形になるのだが、こいつがまた山川を骨抜きにしてしまう。何やらテレビアニメで主人公達がピクニックに行ったそうで、そこでサンドイッチを食べたそうな。出掛け先はどこでもよくて、とにかくお外で手作りのサンドイッチが食べたいとのこと。それはお安い御用なのだが―

「そうだね。ちゃんと準備してあるから、明日一緒に作ろうな。で、今日は幼稚園、どうだった?」

「晴れたらいいね。」

「うん、そうだね。天気が良かったら、明日は少し遠くの公園に行ってみよう。・・・で、幼稚園は―」

「詩音ね、ハムとチーズがいいな。」

エヘヘ~と娘が笑う。山川もつられてフフっと笑う。会話が成立しないとか、父ちゃんの話を訊いていないとか、そんな些細なことはどうでもいいのだ。


 詩音と暮らすようになってから、それまで全くしなかった料理をするようになった。今でも鮮明に覚えている。総菜コーナーの単品をバランス良く買い揃え、インスタントの白米をレンジでチンし、子供用のふりかけもつけてみた。緊張しながらも詩音は、おいしいですと全部平らげた。その時だ、空のプラスチック容器を見て何か違うと感じたのは。自分の腕では既製品の方がずっとおいしいが、思い込みにも似た正義感から弁当も作っている。自分のだけなら残り物を適当に詰め込めばいいだけだが、娘の弁当はそうはいかない。女の子同士で見せ合ったり、おかずの交換なんかもするのだろうから、可愛くなければいけない。弁当箱は四角から丸型に変えた。


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