36:奇跡
「あなたにこうされるくらいなら、やはり今すぐにでも死んで差し上げますわ」
わたくしはすぐそこにあるダミアン皇太子の顔を見つめながら呟き、己の舌を上と下の歯で挟みます。
このまま噛めば死ぬことができますわ。後必要なのは、覚悟だけ。
……そんなの、この男の思い通りになるくらいなら何でもありませんわ!
わたくしの考えは甘過ぎました。
妻になると言えばオネット王国を助けられると、そう思っていたんですの。
でも違いましたわ。わたくしにそんな勇敢な選択はできないと、すぐにわかってしまったのですわ。
全身が、そして心の奥底にある感情がこの男の言いなりになることを拒んでいる。理性では絶対に従った方が万事うまくいくとわかっていながら最期まで抗おうとしているのです。
押し倒されて初めてその事実を身をもって知りましたの。
――だってわたくしはまだラーダインを愛しているんですもの。愛してもいない男のものになるなど、できるわけがないでしょう?
死ぬのは恐ろしい。でもこの男のものになる方がもっと恐ろしい。
やっと心の準備が整ったわたくしは、歯を食いしばって命を絶とうとします。
しかしいざ行動に移す寸前、わたくしの口には汚らしい手が突っ込まれたんですの。
「させねえって言ってるだろうが」
「うぁっ」
急にダミアン皇太子の指先を押し込まれたわたくしはえずき、身を捩りました。
このままでは死ぬことができない。なんとか逃げ出そうとしますが、上からかけられているダミアン皇太子の体重が重過ぎ、華奢なわたくしの体ではどうにもできませんでしたわ。
なんとかしなければ。
重みと息苦しさ、気持ち悪さのせいでガンガンする頭でなんとかそう思い、持てる全力を尽くし、彼の手を噛むことにしましたの。
これがわたくしにできるせいぜいの抵抗。舌を押さえられ、ほとんど動かない口に無理矢理力を込めて、血まみれの手に歯形を刻むことができたのですわ。
あまりの激痛に呻く皇太子は仰け反り、慌てて手を引っ込めました。
とはいえ大してダメージが与えられたわけではありませんわ。せいぜい数秒の時間を稼いだだけ。それでも、わたくしにとっては充分でしたの。
最初はただで死んでやろうと思いましたが、痛みにやられている現在の皇太子は隙だらけ。ほんの少しだけ自由になった上半身を最大限活用してやることにいたしましたわ。
ダミアン皇太子の喉が、すぐそこに見えました。あれにかぶりつけば全てが終わるのですわ。
「それでもせっかくの好機ですもの。このまま、喉を噛み切って」
――それが今のわたくしにできるとでも?
ふと、疑問の声が胸の内に湧き上がりました。
確かに今のわたくしは満身創痍と言っても過言ではございませんわ。そんなわたくしがわずかな好機を得られた程度で皇太子の命が奪えるはずがないのです。このまま大人しく死ぬのが最善手なのではないか、と。
そしてその一瞬の躊躇いがいけませんでしたわ。
一秒にも満たない間、迷っただけ。
しかしそれは百戦錬磨のおぞましい化け物である彼相手にはあってはならない失態であり、気づけばダミアン皇太子に再び主導権を握り返されてしまっていましたの。
噛み付いた方と逆の手で首を掴まれます。
先ほどまで確かに優勢だったわたくしは一瞬で呼吸困難に陥り、抗う力を奪われていたのです。
――失敗しましたわ。なんて愚かなことを。
薄れていく意識の中で、悔やんでも今度こそどうしようもありません。
少しの間油断したがために一度掴んだ奇跡を逃してしまった以上、次はないでしょう。
「思ってた通りに諦めの悪い女だな。なかなか面白い。だが逃がしはしねえぞ、アイシャ・アメティスト・オネット」
ああ、これで本当の意味で負けてしまいましたのね……。
そのことが本当に不甲斐なくて、こんなわたくしをたった今この瞬間もどこかで心配してくださっているであろう方々に申し訳なく思ってしまいます。失望させてごめんなさい。期待させてごめんなさい。
わたくしはもうダメですわ。
「だ、れか……」
敗北を認めたはずなのに、生存本能からなのかみっともなく漏れてしまう声。
そんなわたくしをダミアン皇太子は相変わらずのニヤニヤ顔で見つめましたわ。それから再び彼の顔が眼前に迫り、互いの唇が触れ合う――。
――――なんてことには、なりませんでした。
「そこの君。僕の姫君に何をしているのかな?」
なぜって、起こるはずなんてないと思っていた奇跡が訪れたからですわ。
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