通夜の音
夜になってもまだ暑さが猛威をふるう真夏。
母の通夜はそんな時だった。
病院から電話がかかってきたのが一昨日の午後四時すぎ。仕事中だったため私は出ることができず……留守電に入っていたのだ。母の死が。
それからどうやって病院まで行ったのかは覚えていない。片道で三時間はかかるその病院まで、車で向かったことは間違いないのだが。
「おお、早かったの」
普段は寡黙な父の、空元気が見える。
母は横たわっている。顔に布はかけられていない。
近付いて、額に手を当ててみる。
冷たくはない。暖かくもない。額に触れても、頬に触れても。穏やかな顔で、ただ眠っている。
そこからは淡々としたものだった。葬儀の手配をし、業者が来るのを待つ間に親戚に連絡を済ませる。
母は病院の霊安室へ移り、そこから葬儀社の車へ。自宅への先導は父に任せ、私は先に帰った覚えがある。仏間や、そこに至るまでの部屋を片付けるために。
母の到着、いや帰宅。
我が家は道路から少しばかり離れている。車を降りたら細く急な道を歩かなければならない。そんな道を葬儀社の方と協力して母を運ぶ。
「おぃ、帰ったでょ」
私に言ったのではない。父は、母に言ったのだ。
仏前に安置。それから明日の通夜について軽く打ち合わせをしたら葬儀社の方は帰っていった。もう深夜十一時を過ぎている。こんな時間まで、本当にありがたい。
「やっと帰ってきたほにのぉ」
この父の呟きに、私はもう涙を堪えることができなかった。
家の中を見れば分かる。母が自宅と病院との往復を始めて十余年。だんだんと自宅にいる時間が少なくなり、それが病院と老人ホームの往復に変わってから三年は経つ。
それなのに、母の寝室は片付いていない。仏間へと続く部屋にも母の物がぽつぽつと見えた。
そう。父は、母が必ず帰ってくると信じて一切片付けをしなかったのだ。母が入院した、その日から。
明けて翌日。通夜は夜の七時半からだが、それまでにやっておくことは多々ある。手伝いに来てくれた親戚に家の中の片付けを頼み、私は外へ。
お寺さんや来訪者が通る道を少しでもきれいにしておかなければならない。草を刈り、枝を切り、かき集め、最後に掃く。
少しでも歩きやすくなるように。
そんな時、最初の来訪者が現れた。時刻は昼の二時。喪服に身を包み、杖をついた近所のご婦人が来てくれた。私は汗で張り付いたTシャツのまま挨拶をする。
細く急な下り坂を辿々しくも歩いて我が家へと入っていく。なんとありがたいことか。
周知していなくともこうして来てくれる方がいる。なんとありがたいことか。
そのすぐ後だった。お寺さん、すなわちお坊さんが来てくださった。
通夜に先立ち、いち早くお経を唱えに来てくださったのだ。
説明もあっただろう。説法もあっただろう。
しかし、私が覚えているのはたった一つ。合掌した私の手、その下。ずっと同じ姿勢で合掌し続けていたため、肘を伝って流れ落ちた汗が畳に染みを作っていたことだけだった。
そして日が暮れた。
最初に集まったのは親戚だ。他県に住む者、同じ町内に住む者。従姉妹も三人の子連れでやってきた。
その子達にとっては数回しか来たことのない我が家だ。物珍しいのだろう。家中ところ狭しと暴れまわっている。
それから近所の方々もやって来た。もう玄関に靴は置ききれないため、縁側などから入ってもらう。
改めて思う。私は親戚にしか連絡をしていない。それでもこれだけものご近所さんが来てくれる。嬉しくて涙が溢れてくる。
時間だ。
再びお寺さんが来てくださった。
読経が始まる。子供たちは片時も大人しくしていない。その子達の母親である私の従姉妹はどうにか止めようとするのだが、私はそれを止めた。来訪者の方々には申し訳ないのだが、私にとってはその騒がしさこそが母の通夜に相応しく思えたのだ。
クーラーもない、扇風機が一台しかない我が家。来てくださった方々は暑くて仕方がないはずだ。広くもない畳敷きの仏間、そしてその隣の部屋にまで大勢が密集している。私や父、親戚連中は廊下に座っているほどだ。
読経の声、子供達の音。
荘厳な響き、楽しそうな姿。
母も見ているのだろうか。聞こえているのだろうか。
こんなにも大勢の人間が集まってくれた。
母のために涙し、母のためならずとも騒いでくれる。
私はこの情景を忘れることはないだろう。
素晴らしい通夜だった。
母ちゃん、またな。
仙道アリマサ氏の企画参加作品です。
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