第二十一話 執事生活開始
イシュトバーン家で録郎が迎えた初めての朝は最悪といえた。
目覚めたのは、小さな屋敷の離れにある兎小屋のような広さの黴臭い物置だった。
ガラクタに埋もれ足の踏み場もない場所に、なんとか一人分の空間を確保して壁を枕にして眠っていた為単純に寝苦しかった。
「ゴホッゴホッ!」
起きて欠伸をしたらそれと同時にむせた。
どうやら埃を思い切り吸い込んだらしい。
長年使われていなかった物置だったようで、埃が蓄積していたのだ。
悪態の一つも吐きたくなったがこれも自業自得だったから
昨晩、気持ちが昂るままにルザリアを押し倒してしまった録郎だったがすぐに冷静さを取り戻した。
というのもそのタイミングで丁度ニンフィットが現れたからだ。
きゃあという興奮したようなニンフィットの悲鳴と、手で覆われた紅潮した顔を見た瞬間に録郎は自分の血の気が引いていくのを感じた。
状況的に自分が強姦魔の類に見えてしまうというのもそうだが、何より女を前に全く感情が制御出来ていなかったことに。
極道は人の道を極めた者であると同時に、人の道を外れた外道であるがだからこそ最後の一線を超えてはならないと録郎は義父ともいえる花形から教わって今日まで生きてきた。
女子供の尊厳を踏み荒らすこと、善良な人間の心に汚い手で指を入れること――これらは最後の一線だった。
そこに頓着出来ていない自分に嫌気が指した。
まして親友が大切な人を失っている傍で女の肌に触れた自分が本当に許せなかった。
悠慈は今も悲しみに暮れているかもしれないのに。
だから、録郎は自分から寝床を物置にすると申し出た。
同じ屋根の下にいるというだけで、危険だとそう判断して。
「……とにかく、起きるか」
録郎は自分が自己嫌悪の袋小路にいることを感じ、気持ちを切り替えようと物置から出る。
形の上とはいえ執事になったのだ。
朝食の用意だとか、屋敷の掃除だとか“それらしき仕事”があるからそれらをこなさなければならない。
そうしていれば気持ちも紛れる筈だと考えながら録郎は肩を鳴らした。
†
「朝食の準備なら要らないと思いますよ。ご主人様、多分昼まで起きて来ないので」
録郎が厨房に着くと、先にいたニンフィットがそう告げた。
初めて会った時と同じく椅子にふんぞり返り、優雅に紅茶を啜りながら読書にふけるだらけ切った姿で。
「その……昼まで起きないというのはどういう……?」
「言葉、崩してもいいですよ。馴れてなさそうですし」
録郎は眉を吊り上げる。
――意外に勘のいい女だ。
丁寧な言葉遣いに慣れていないことをニンフィットは感づいていたようだ。
気が付いているなら取り繕っても仕方がないと、
「朝弱いのかい、あの嬢ちゃん?」
録郎は普段通りの口調で訊ね直す。
ニンフィットは呆れたように重い溜息を吐くとスカートのポケットからえんじ色の革で出来たポーチを取り出した。
そして、そこから煙草を一本取り出し口に咥えると、人差し指を立てそこから小さな魔法の火を発生させ火を点す。
魔法の火を消し、ふぅとニンフィットは煙を肺に入れた。
「いえ。朝は強いですよ、ご主人様。普段だったら私よりもずっと早く起きて庭で剣の素振りでもしている筈ですから」
ニンフィットは煙草の入っていた革のポーチを調理台に投げる。
「へぇ。真面目なんだな」
「ええ。真面目過ぎて、未だに処女なんですよ。体もなんですが、特に精神の方が」
そう言いながら、ニンフィットは調理台の上に置かれたライ麦パンを手に取り、
「朝ごはんまだですよね? 私の焼いたパンしかないですが食べませんか?」
録郎に勧める。
「お気遣いどうも」
ニンフィットからライ麦パンを受け取り、それを齧る。
美味いパンだった。
「で、起きて来ないことと処女ってのに因果はあんのか?」
「貴方、昨日ご主人様に迫りましたよね?」
「違う……って言っても信じちゃ貰えねぇだろうから否定しねぇけど。何だ? ドキドキして眠れなかったとでも言う気かい?」
「分かってるじゃないですか」
冗談のつもりで言ったことを肯定され、録郎は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「多分、あの人が男に触れたの初めてなんじゃないですかね? 昨日は期待と驚きと不安で頭の中はぐちゃぐちゃ、心臓はバクバク。その癖、散々かき乱した男にはお預けされちゃったわけですから。眠れない夜だったでしょうね」
「……何? 据え膳食わぬは男の恥とでも言いてぇわけ?」
ニンフィットはその言葉に首を振る。
「いえ、ご主人様の初めての夜は本当に幸せになるべきだと思っておりますから。現状、顔くらいしか褒めるべき点がない男に流されるまま失ってしまうのはあまりにも可哀想でしょう? 春本のシチュエーションというのなら盛り上がれますが」
眼鏡の奥の瞳には録郎に対する幾ばくかの敵意が含まれていた。
「……ニンフィットちゃんだっけ? アンタいい人だな」
最後の一言だけは抜きにするとして。
ニンフィットはルザリアの幸せを本気で考えていると見て取れた。
ルザリアの体臭を嫌味な言い方で指摘していた女と同一人物だとは到底思えなかった。
「褒めてるつもりですか」
「いや、本心から言ってるよ」
顔を背けるニンフィットに録郎は断言する。
他人の為に誰かを敵に回しても良いと考えられる者がいるならばそれはきっと善人ではなくとも“いい人”には違いないと録郎はそう考えていた。
「……紅茶も飲みますか?」
「ありがてぇ。茶には目がねぇんだ」
ニンフィットからカップに注がれた紅茶を受け取ると録郎は一気に飲み干し、調理台の上に置く。
「さて。朝飯作る必要がねぇなら、掃除でもやるかね?」
「屋敷の中の掃除ならもう私がやってしまいました」
改めて張り切り出そうとする録郎にニンフィットは水を差す。
「マジかよ。んじゃあ、庭の手入れでもやるか?」
録郎は雑草まみれの庭を思い出す。
見たところ暫くの間手付かずという雰囲気であった為時間はかかるだろうが、だからこそいい仕事になるだろうと録郎は考えた。
「いえ、その必要はないです。意味がないので」
「なんつー怠惰な……」
ニンフィットの発言に録郎は呆れた。
草取りという作業は基本的に億劫なものである。
やる気を出して取ったところでそこから一、二週間もすればまた生えてくる為作業自体の性質が“虚無”なのだ。
「まぁ、気持ちは分からんこともねぇが、そういうのだって貴人に使われたモンの仕事だろう?」
だが、やらない限り景観の中に雑草は存在したままなのだ。
ここは貴人の家なのだから、一瞬でもきれいな状態であった方が良いのは間違いないだろう。
執事とは高貴な人がよりそれらしくいる為にいるのだから。
「まぁ、やりたければやればいいですけど。私は止めましたからね?」
しかしそんな録郎にニンフィットは何故か忠告めいたことを言う。
実際に草取りを開始した結果、忠告の理由はすぐに明らかになった。
比喩ではなく、本当に抜いた傍から雑草が生えてきたのだ。
「だぁ! クッソ! やってられるか!」
かれこれ一時間ほど雑草と格闘したが全く事態が改善しなかった為、録郎は屋敷の壁に背中を預け、へたり込む。
「だから言ったじゃないですか。やる必要はないって」
そんな録郎の隣でニンフィットは本を読みながら気怠そうに煙草を吹かす。
「……アンタの言葉足らずだ、ニンフィットちゃん。“再生ミント”が生えてるなら最初からそう言えよ」
録郎は恨めしそうにニンフィットを睨む。
自然界には魔法を使える植物が存在するが、イシュトバーン家の庭に生えている“再生ミント”と呼ばれる雑草もそんな植物の一つであった。
「なんでこんなモンが生えてやがる?」
この植物が使える魔法とはその名が示すとおり“再生魔法”である。
折られたり、切られたり、踏みつけられたりといった手段で“再生ミント”の組織が傷つくとその破壊の程度にもよるが大体で十数秒から数分以内の間に再生して破壊を受ける前の状態に戻るのだ。
その癖繁殖力が途轍もなく高く、一度土地に根付くとそこに元々根付いていた植物の一切を駆逐してしまう。
その危険性は、種一粒で一ヘクタールの麦畑が全滅するほど。
これの所為で農夫が何十人と首を吊る事態となった上、性質上除草が極めて困難である為”、再生ミント“の栽培、苗および種の所持に禁固刑が科せられている。
当然、ルザリアのような国の要人の家に生えていて良いものではない。
「……嫌がらせか?」
思い至った考えを録郎が口にすると、ニンフィットは顔を強張らせる。
「どうやら当たりみてぇだな」
録郎が知っている事案にこのようなものがあった。
――ある富豪が私腹を肥やす為に人の往来の多い大都市に大規模なカジノを建てようとした際に元々そこに住んでいた人々を追い出さなければならなくなった。
そこにあったのは、親を失い身寄りのない“国民”の子どもたちが暮らす孤児院で、富豪の出した立ち退き要求に一切応じなかった。
一向に話が進まないことに苛立った富豪はある極道組織に孤児院を立ち退かせることを依頼。
その依頼を叶える為に、極道組織は孤児院に対して嫌がらせを行った。
そして、行われた嫌がらせの内の一つが“再生ミント”の種を孤児院の敷地内にばら撒くというものである。
“再生ミント”は孤児院の校庭をあっという間に埋め尽くした。
“ミント”というだけあり、“再生ミント”は独特な臭気を持つ。
この臭いに引き寄せられ、大量の蠅が発生。
さらにその蠅を餌にする毒虫の類まで集まり、子どもたちや施設の職員達を襲うという事態にまで発展し、結果として孤児院はその地から立ち退くしかなくなったのである。
「……えげつねぇことやりやがる。壁の落書きといい、表に放置された汚物といい、なんでこんなに嫌がらせされてんだ、ルザリアはよォ」
ちらりとニンフィットを見る。
「アンタ、詳しい事情知らねぇか?」
ルザリアは刑務官にありがちな民衆の恨みというが、やられていることの性質の悪さからはとてもそうとは思えない。
そもそも国家最強の十三騎士という肩書きの割には家が寂れ過ぎている。
ニンフィット以外の使用人がいない点も不自然点である。
「詳しい事情、話しても良いのですけれど」
くすりとニンフィットは微笑を浮かべる。
そして、直後に突き付けられた要求は、録郎の顔色を確実に変えた。
「先に貴方の素性を知りたいですね。極道さん」




