第二十話 憐憫
事件の真相と自分の新たな目的を聞いた録郎はヴィシャス邸を後にし、ルザリアに連れられてイシュトバーン家の屋敷に案内される。
「此処だ」
ルザリアの示した場所を見て、
「あ……?」
録郎は絶句した。
屋敷の規模としてはリズの家よりも大分小さかった。
だが、問題はそこではない。
屋敷を囲む塀に落書きがされていた。
目にも痛々しい赤や黄の派手な色で卑猥な言葉や罵倒語が書かれている。
「なんだこりゃ、取れねぇぞ?」
録郎はそこに駆け寄ると服の袖でその文字を消そうとした。
しかし、それは特殊な塗料で書かれていたようで袖で拭った程度では取れなかった。
誰かの悪戯だろうかと録郎は思った。
そして、悪戯は落書きだけではなかった。
壁が壊されていたり、犬と思われる動物の糞が放置されていたりと散々なことをされていた。
「気にするな。此処はずっとこうだ」
慌てる録郎に対してルザリアは涼しい顔で言った。
「ずっとこうって何で?」
「……私が刑務官の長だからだろう」
ルザリアは語る。
「『刑期を終えた息子が出所後一言も口を聞かないまま何も言わず首を吊って死んだ』だとか『結婚する予定だった嫁が獄中で子供の産めない体にされた』だとか。そういった類の恨みを持たれることはよくある」
「そりゃなんとも気の毒な……」
「もう慣れたさ」
なんでもないとでも言うかのようにルザリアは微笑した。
だが、本人が大丈夫だとしても聞いている方からすれば、まして初めてこの話を聞く録郎からすれば心が痛くなるような話だった。
――そう思った上で録郎は、ルザリアが噓を付いていると判断した。
噓と言っても人から恨みを買っているということが噓というわけではない。
そういったことがあったとしても、それはこの悪戯となんら関係ないということである。
「入り給え」
録郎に指摘を受けるより先にルザリアは門を開け、屋敷へと案内する。
誤魔化されたと思いながら、敢えて追求する必要性を見出せなかったため促されるまま中へと入る。
門を超えた先にあった屋敷は外から見るよりも寂れて見えた。
白塗りの壁は黒ずみ、屋根や窓には一部穴が開き、至る所に蜘蛛の巣がかかっている。
庭も雑草だらけで荒れていた。
誰もこれを貴人の住んでいる家だとは思わないだろう。
「やぁ、帰ったぞ」
玄関の前に椅子とテーブルを置き、本を読んでくつろいでいる人物にルザリアは声を掛けた。
おさげにした黒髪と大きな丸眼鏡、そばかすと構成している要素の全てが野暮ったさを強調しているような女だった。
着ている服から恐らくこの屋敷のメイドであることは判断できたが、主人であるルザリアを前にしても吞気に紅茶をすすっている様はとてもそれとは思えなかった。
「あ、ご主人様。お久しぶりです」
やっとルザリアに気が付きメイドは顔を上げる。
「お隣は誰でしょうか? お店の男とアフター、とか?」
本当にこの女はメイドなのだろうか、と録郎は首をひねる。
若い男が女性に対して接待をするという形態の店は確かに存在するが、自分が仕えている主人にそこを利用したか訊ねるものだろうか。
いや、本当に利用していたとしても聞かないだろう。
それが礼節というものである。
「……申し遅れました。私、本日よりこちらのルザリア・イシュトバーン様に執事としてお仕えすることになりました。ロッコ・トールマンと申します」
だが、相手が礼を尽くさないからといって自分も礼を欠いた行動をして良いというわけではない。
まして録郎の今の肩書きはルザリアの執事であり礼を尽くさなければならない立場に置かれている。
業腹ではあったが恭しく自己紹介をする。
――偽名を語りながらも。
「ご丁寧にどうも。ニンフィット・カフカです。私もこちらのご主人様に雇われてます。よろしくお願いします」
座ったままニンフィットは頭を下げる。
そして、ちょいちょいと指で主人である筈のルザリアを呼び寄せると耳打ちした。
「執事と言ってますが、実際のところどうなんです?」
「実際執事だが、何故そんなことを聞く?」
「普通の仕事してた雰囲気ではないので。処〇膜から声がしていないですし」
「男に処〇膜というのはよく分からないが……肛門ということか?」
「そうです。あれは、老若男女問わず色々されたことのある面ですよ。そんなのを本当に純粋に執事として採用したんですか?」
「……ご期待に沿えなくて申し訳ないが誓ってそういうことが目的ではないよ」
耳打ちの意味が全くないほど声が大きかった為、この会話は当の本人に丸聞こえであった。
腹立たしいという気持ちこそあったが、極道であった過去を晒すわけにもいかない以上、少しでもそれを連想させるような振る舞いを避けるべきだと録郎は自分を律した。
そもそも、全てが全て全くもって的外れというわけでもなかった為怒るに怒れなかったというのもあるが。
「まぁ、そういうことにしておきますよ、ご主人様。というか、お風呂、入られますよね? 今気付きましたけど。沸かしてきましょうか?」
「ああ、頼む」
敬礼をし、ニンフィットは凄まじい速さで屋敷の裏手の方に駆けていく。
「……何なんだ、あの嵐みてぇな女は?」
ニンフィットを見ての録郎の率直な感想だった。
「あまり酷いことを言わないでくれ。あれで、私にとってはたった一人の家族だ」
「あれって言い方も酷いと思うが?」
「私は良いんだ、別に。それよりも、風呂が沸くまでこんなところで立ち話というのも如何なものかと私は思うのだが、どうだろう? 私の部屋で待たないか?」
まくし立てるような早口でルザリアはそう言うと録郎の手を引いた。
「俺に恋人でもねぇ女の部屋に入る趣味は……って、力強ッ!?」
一度は誘いに対して抵抗を試みたもののその凄まじい腕力に抵抗しようと思うと最悪相手を負傷させかねないと判断し、録郎は渋々彼女に従う。
そして、案内された部屋はとても女性がいるとは思えないような装いだった。
飾り気のない簡素な意匠のシングルベッドが一つ部屋の真ん中に置かれているだけで他に家具の類や調度品は置かれていない。
床に敷物はなく、剝き出しの生木には細かな傷が目立つ。
オフホワイトの壁紙は至る所が破れ、ささくれ立っている。
日照の関係か、部屋自体の印象も暗い。
「女の住む部屋ではない……と思っているか?」
「いや、別に」
図星を付かれながらも、録郎は表情を変えなかった。
「隠さなくても良い。長らく監獄勤めでそういったことに気を遣う時間がなかったのだから。そう思われても詮無いと受け止めるよ」
「そうかい。まぁ、そういうのを気にするかどうかは人それぞれだよな」
かく言う録郎は自分の家自体を持っていない。
極道時代は基本的に事務所に寝泊まりしていた。
「だが、客人を通すのには向かないな。俺だから床でも問題ねぇが、人によっちゃ戦争モンだぜ?」
「床? 一体何の話をしている?」
「何の話って……いや、どう見たって床以外に座る場所なんてねぇだろ?」
「ベッドに座れば良いのではないか?」
とぼけたような顔をするルザリアを見て録郎は頭を抱える。
「……嫁入り前のお嬢さんが滅多なことを言うもんじゃねぇよ」
彼女にとって録郎は、夫婦はおろか恋人ですらない。
仮にも自分が使っているベッドに何でもない男が触れることにためらいはないのかと疑問を抱く。
「……そんなに私、臭いか?」
「はぁ?」
あまりにも予想だにしていなかった返答であった為、録郎は動揺する。
「先程ニンフィットに風呂を勧められたろう?」
「まぁ、だから俺はここにいるわけだしな」
「あれはつまりそういうことなんだ」
あなた臭いですよ――と黙して訴えたということだ。
「本当に失礼な女だ」
呆れたように録郎は口を歪める。
それに対し、ルザリアは首を横に振る。
「そう思われるのも仕方ないんだ。私はあまり風呂に入らないから……」
「風呂に入らない?」
録郎からすればそれは意外な事実であった。
基本的に自分の清潔さに敏感なのは男性よりは女性であるという印象があったからだ。
だが、同時に納得も出来た。
ルザリアの波打つような髪は手入れがされていないし、よく見るとオイリーな印象を受ける。
少なくとも髪を洗っていないことの証左だ。
「苦手なのだ、入浴するのが。だからその、風呂に入るのに大分勇気がいるというか……」
子供の駄々かと録郎は呆れるが、ルザリアがそれを語る顔には恥じらいと深刻に思い悩んでいることが見て取れた。
録郎は今まで意識していなかったルザリアの“匂い”を確認する。
そして、
「あー」
と、短く唸ると録郎はベッドに腰を降ろした。
「……何だ? 気を遣っているつもりか?」
ルザリアの問いかけを録郎は鼻で笑う。
「冗談。俺は俺がそうしてぇと思ったことしかしねぇよ」
「如何いうことだ?」
にたりと録郎は口角を吊り上げる。
「アンタの匂い、今まで意識してなかったけどさ。いやぁ、良い匂いするんだなぁ。ムラムラしてきたのよ、俺ァ」
「なっ……!?」
その言葉に、ルザリアは耳まで顔を真っ赤に染める。
「あ、てか、俺を部屋に連れ込んだのってそういうことしたかったから?」
「バッ……!? 違う……! そもそもそういうことは体を清めてからだろう! 湯浴みを待ちながらだなんて順序があべこべだ!」
録郎の言葉にルザリアはあからさまに狼狽する。
動揺が過ぎて指摘するところもおかしくなっていた。
「分かってるよ、それくらい。なんか話しがあるんだろう?」
ルザリアはフーフーと深呼吸をし、頭をクールダウンさせる。
「……兄に聞きたいことがある」
「リズちゃんのことか?」
まさに録郎が言ったことが聞こうとしたことだった為、ルザリアは驚いたような素振りをした。
「……兄の目から見ても不自然だと思うか?」
「まぁな」
不自然と感じたのはリズが話した協力する動機である。
友人が殺されて自分だけが運良く生き残った。
真実を知りたいと思う理由としては通らない話ではない。
だが、恐らくリズはそういう人間ではないというのが録郎の印象である。
「俺なんぞじゃ想像も出来ねぇような大きな何かを抱えてる。そんな感じだった」
真の犯人の動機が関係するのかもしれないとも考える。
どちらにせよ落とし前を付けさせるつもりであったから録郎は聞こうとも思わなかったが、リズは恐らくそれについて辺りを付けている筈だった。
あれだけ迂遠な手段を用いたのだ。
アウグステに対する嫉妬心だとか、犯した罪を知り疑心に駆られただとか、そういった理由ではないことは想像つく。
「それが何なのか分かったりはしないか?」
「……本気で聞いてんなら、アンタ、相当な天然だぞ」
「茶化さないでくれ。私は真剣なのだ」
はぁと録郎は溜息を吐く。
「悔しいのかい? 友達に隠し事されてんのが」
「悔しいといえば悔しいのかな?」
真剣という言葉に嘘はなかった。
ルザリアの眼差しがそれを雄弁に語っている。
「私は今までリズに散々世話になって来たから。一人で手に余ることに関わっているなら力になりたい」
だが、リズは隠し事をした。
危険なものから遠ざけているとも取れる。
それを思うと録郎は、なんだか溜まらない気持ちになってしまい、リズの手を引き抱き寄せて、ベッドに倒れた。
「えっ、ちょ……」
「大丈夫だ。アンタはしっかり必要とされている。じゃなかったら、事件それ自体を聞かせたりはしねぇ」
ギュッときつく抱きしめた。
屹度、これは同情だった。
同類だと思ったのだ。
友の力になれない無力を痛感しているこの女と、友の為に出来たことが余りにも少な過ぎる自分とが。