9 冬けやき
「何を考えとるんだ、お前は!」
親父の反応は予想通りだった。二学期が終わり、成績表が出た日のことである。
帰宅した親父に、酒を飲む前に聞いてほしい話がある、と切り出して、オレは進路の変更、すなわち、医学部受験と、今行っている医学部に特化したカリキュラムの塾を辞めようと思っている、ということを申し出たのだった。
「父さんの期待していた方向性じゃないのはわかってる。父さんが、オレのことを考えて言ってくれてるのもわかってるんだけど」
「ならこの話は終わりだろう。お前は逃げてるだけだ。今、目先の勉強が辛いからって逃げ出したらお前はこの先一生負け組だ」
「でも、今本当に医者になりたい、と心から思えているわけでもないのに、行けるからってだけで行こうとしていい学部じゃないと思うんだ。本気でやろうと思って始めたことじゃなきゃ、オレはいつかどこかで折れる気がする」
「負けるのが怖くて、その前に、逃げてるだけだろう。勝負もせずに引き下がるのは本当の負け組じゃないか。父さんはお前をそんな風に育てた覚えはない!」
親父は激昂して目の前の机を叩いた。激しい音がして、食器が小さく踊った。
「じゃあ、世の中で、医学部に行かなかった人間は負け組なのかよ」
オレも声を荒げた。
「偏差値の高い大学ほど勝ちで、低かったら負けなのか。オレはそんなゲーム、まっぴらだ」
「お前の言ってるのは小綺麗な理想論だよ。結局就職となれば偏差値の高い大学ほど有利で、自分で開業できる資格はもっと有利だ。世の中をちゃんと見てない小僧が知った風な口をきくんじゃない」
親父はまるで、議論は終わりだ、というように、腕を組んでどかっと背もたれに体を預けた。
オレはぎゅっと奥歯を食いしばって、もう一度、考えた。こんなのは予想の範囲内だ。ここで引いたら結局何も変わらない。
太田の顔が浮かんだ。軽々と何でもできる天才だけど、話せば話すほど面白いやつだった。あいつだって悩んだりもするし、夢もやりたいこともあるし、ままならない現実だってある。その中で自分に何ができるかいつも考えてる。
兄貴。大学に行って、顔つきが引き締まった。前からかっこよくて憧れで、自慢の兄貴だったけど、一気に大人になった。今の兄貴がカッコいいのは絶対、兄貴が医学部生だからじゃない。兄貴がその選択を本気で引き受けたからだ。
それから諸富。あいつはあんなにふわふわしているけれど、わからないことはわからないって堂々と言う。それをそのままにしておかないで、わかるために自分なりにたくさん本も読む。でも学校の勉強からも逃げていない。
諸富が読んでいたうち、何冊かの本を読んでオレが気づいたのは、やっぱり諸富はとんでもないバケモンだってことだった。オレは諸富の半分のペースでだって読めなかった。実際に読んでから改めて思い返せば、オレに聞かれて本の内容を手短に説明していた諸富の理解力は、実は桁外れだったこともよくわかった。しかも、読んでいる本はジャンルも内容もてんでばらばらなのだ。
世の中に出れば、きっと、そんな奴らはごろごろいる。一見普通に見えて、芯にとんでもないものを持っている人間。オレが世の中に通用する人間になろうと思ったら、自分の芯に嘘や甘えがあったらダメなのだ。
「親父。オレはその、世の中のことがもっと知りたいんだ。人間の身体の中のことより、人間の手や頭が作り出したものをもっと知って、人間が作り出した社会で生き延びていく方法が知りたいんだ。だから、まだ何をしたいかは分からないけど、人文系の方が確実に向いているし、そっちに行きたいと思ってる」
親父は目をむいて身体を起こした。さすがにそこまでオレが言い出すことは、親父の想定の範囲になかったらしい。
「文系だと! 逃げもいいところだ。そこまで落ちたか!」
「あのさあ」
オレはため息をついた。
「なんで文系だと逃げた、堕落したってことになるんだよ。親父の会社にだっているだろ。法務、財務、人材マネジメント、マーケティング。いなきゃ、会社回んないだろ」
「そんなのは詭弁だ」
親父はオレの胸ぐらをつかんだ。
「結局、どの大学、どの学部を出たかで人生決まるんだよ。就職だって、昇進だって、結局そこなんだ。ここまで、お前のためを思って、何でもしてやった父さんを裏切るのか。楽な道に逃げて、上を目指さんつもりか」
空しい気分で、腹の底が塗りつぶされたような心地がした。どこまでも平行線だ。オレと親父はこの議論をしている限り永遠にわかり合えない。
殴るなら殴ればいい。
そう言う代わりに、オレは口を開いた。
「オレはそうは思わない。もちろんオレは父さんとは違う人間だから、行きたかった医学部に行けなかった父さんの無念はわからないよ。でも、オレは本気で、理学部で勉強して、会社に入ってがむしゃらに働いて、オレを養ってくれた父さんを尊敬してる。伯父さんより父さんが劣ってるなんて、医学部より理学部が劣ってるなんて、一度も思ったことはない。父さんは世界一の父親だって思ってきた」
言いながら思った。
だからオレは、医学部にこだわり続ける親父を見るのが嫌だったのだ。親父自身の、地道で立派な人生を、息子に誇ってほしかった。親父と同じように地道で立派な人生を歩んでいる周りの人々に、敬意をみせてほしかったのだ。
親父の目のなかで、何かの光がふっと揺れた気がした。
「わかった風な口をきくんじゃない」
親父はさっきと同じ言葉をのろのろと言って、オレのシャツを離した。
◇
オレは家の中にいたたまれなくなって、頭を少し冷やそうと、庭に出た。縁側に腰掛けて、なんとなく空を見上げた。
白く曇る息の向こうに、家の隣にある公園の木立ちが見えた。葉をすべて落としたケヤキの木。もうずいぶん、公園の前は素通りするだけで、中には入っていない。
小学生の頃には、親父と公園で自転車の練習をしたっけな、と思い出した。転んでも転んでも、痛くて泣いても、親父は乗らなくていいとは言わなかった。悔しくて、腹が立って、親父が帰ってくる前にもたくさん練習して、親父の知らないうちに乗れるようになってやろうと思った。どうにかこうにかふらふらとでも漕げるようになった日、会社から帰ってきた親父を捕まえて、酒を飲む前にちょっとでいいから見ろ、と引っ張って行って、乗ってみせて自慢したんだった。
あの日、親父はどんな顔をしていただろうか。記憶を探ったけれど、思い出せなかった。
暗い空に、もっと黒々としたシルエットで、ケヤキが枝を広げている。
ふと、諸富だったら、この景色をどう描くだろう、と思った。
その夜以降、オレと親父は同じ家のなかにいても一切口をきかず、冷戦状態となった。















