8 ソロモンの指環
泰斗の、まっすぐにオレを見据える視線は、厳しかった。
「偏差値的に合格ラインだから、というのと、実際にやっていけるか、というのは別だよ。能力の問題じゃない。それこそ、モチベーションと覚悟の問題だ。俺は親父が医者だし、自然にそういうものだと思って入ったけど、やっぱり、腹を決めなきゃいけない瞬間があった」
「……」
「実習だって決してゆるくないし、要求される勉強の質も量も、それまでとは全く違う。いい加減な気持ちで入ったら、途中で折れるやつはいくらでもいる。現に俺の同学年だって、もう、退学も休学も何人も出てるよ。まあ、いい加減な気持ちで入って途中で息切れするなんていうのは、他の学部でももちろんあることだけど」
「うん」
「叔父さんがお前を医学部にやりたいって思ってることはもちろん知ってる。でも、一はどうなんだ。本当に行きたいのか」
改めて、自分の甘さを突き付けられた気がした。
あの日、諸富の絵を見て崩れた足元を、オレは修復しようとして、かけらを一つずつ集めて、でも結局それを組みなおせないでいたのだ。
「……わからないんだ」
「うん」
「あのさ、すごい子がいるんだよ。毎日とっかえひっかえ、いろんな本を読んでるんだ。小説とか、エッセイとか、科学の本もあるけど、とにかく受験とは関係なさそうな本を浴びるほど読んでるんだよね」
「うん」
「そいつにさ、進路どうするのって聞いたことがあるんだよ。そしたら、そんなに色々読んでる子がさ、自分は何が好きなのか、何がしたいのかまだわからないって言うんだよ」
「なるほどね」
「オレなんか、勉強ばっかりでさ。何にも、そういう自分のための本とか読んでなかったのに、その時気がついちゃったんだよね」
「自分のための本、ねえ」
「そんでね、そいつがすごいのは、目立つわけじゃないんだけど、それだけ、浴びるみたいに本読んでるくせに、勉強も、がたがたのぼろぼろにはなってないわけ。ちゃんとついて行ってるんだよ。ほら、進路指導室の貼りだし、あるじゃん」
「ああ、三十番までの」
「それ。それだって、三十番ぎりぎりくらいだけど、ちゃんと名前が出てくる。でも、週に六冊以上は軽く読んでると思う。気軽な小説やハウツー本なんかじゃないやつをだよ」
「そりゃ、バケモンだな」
「そういうの見てると、自分がすごくみじめになってさ」
こんな話は、泰斗が相手でなければできなかったと思う。
「一のいいところはさ、そうやって、人のことや自分のことをちゃんと見てるところだと思うよ」
お互いに一人っ子のせいか、泰斗はオレを弟みたいにかわいがってくれて、兄バカだ。甘いから、そうやって、すぐオレの気分を上向けようとする。
でも、それに乗る気にはなれずに、オレは頬杖をついて、何気なく、マスターの本棚を眺めた。一人で来た客が、注文の品を待つ間に手に取って過ごせるように置いてあるのだ。
ふと、目に飛び込んできたタイトルがあった。
『ソロモンの指環』。
いつか諸富が持っていた本だ。
オレはふと立って、その本を手に取っていた。
「あれ、ローレンツ? マスター、こんなの置いてたんだ」
目ざとく見つけて、泰斗が言う。
「兄貴、この本知ってるの? ファンタジー小説?」
振り返って問うた俺に、泰斗は笑った。
「んなわけないだろう。知らんのか? 理系でこれを知らないのはヤバいぞ。動物行動学の古典だよ。生物の本」
「え」
慌てて、ぱらぱらとページをめくった。インクペンで書かれたと思しき、素朴だけれど正確なデッサンの、魚や鳥のイラストが目に飛び込んできた。
「あいつ、そんなのも読んでたんだ……」
SF小説。御殿女中。動物行動学。他には、何を読んでいたんだろう。
オレは、本をいったんテーブルに置くと、スマホを取り出した。
勉強がひと段落したら読もうと思った本や観ようと思った映画、小耳にはさんでいつかちゃんと聞こうと思った楽曲のタイトルやアーティストを忘れないようにメモしている、雑記帳がわりのファイルを呼び出す。
そこには、無数のタイトルが記録されていた。
ある時期からは、完全に本ばかりになっている。その先頭は、もちろん、アシモフの「銀河帝国の興亡」だった。
「オレ、完全にストーカーじゃん」
呆然と呟いた。諸富が読んでいた本のタイトルで、オレが知りえたもの、ほとんど全部がそこにメモしてあったからだ。
こんなに最初から、オレは、諸富が好きだったのだ。
「なんだ、アオハルかよ」
泰斗は何を察したのか、にやにやしてカップを口に運んだ。
「メモばっかしてないで、何冊か読んでみろよ。人をうらやんでいたって、自分が行動を起こさなきゃ、何も始まらないだろう。お前はとにかく悩め。自分が知らないこと、気がついていなかったことがあるってわかったんなら、今がその時だよ。効率なんか考えないで、あれこれ悪あがきしてみろ。決断はその後でいい。今の状態で放課後の勉強会に絞ったって、足を引っ張るだけだ」
◇
文化祭の当日になった。
当日でも、こまごましたトラブルは次から次に起こってくる。カフェインの析出班が実物展示するはずだった、カフェイン結晶を納めたシャーレが割れたの、太田のヒザラガイが逃げ出したの、暗幕がほつれたのと、一つ一つ目が回りそうになりながら対応しているうちに、あっという間に、午後になっていた。
美術部は、校門装飾と壁面画展示のほかに、当日のイベントとして、レザークラフトのワークショップと、陶芸作品の展示即売ブースを開いていたはずだ。何も手伝えなかったどころか、見にも行けなかったな、と思っていると、思いがけないお客さんが来た。
「せんぱーい。来ちゃいましたよっ」
伊藤と浅野が入り口からひょこっと顔をのぞかせた。背の高い浅野が上の段、小柄な伊藤が下の段。相変わらず、十年来のコンビ芸人みたいに息が合っている。
「今年、二年の特進の展示、評判いいですよ。生徒会の出口調査でも、今のところ五位に入ってます」
浅野が、トレードマークのポニーテールを揺らして、なぜか自分の手柄のように胸を張る。
「美術部は?」
「もちろん、二位。ラグビー部と野球部合同の筋肉女装喫茶はチートみたいなもんですから、実質一位です」
伊藤もショートカットの頭を昂然と上げ、浅野に倣って胸を張る。こちらは二人を含む美術部員の手柄でいいのだが。
「薫ちゃん、ここまで来て、帰るのは無しだって。ほら」
一旦引っ込んだ浅野に半分引きずられるようにして、諸富が教室に入ってきた。おろおろ、そわそわしている。
久しぶりの諸富は、やっぱりいつもの諸富で、オレは知らず頬が緩んでいた。
「あの」
諸富のほうからオレに話しかけるのは、ものすごくレアケースだ。オレが面食らっていると、諸富は、後ろ手に持っていた紙袋をずいっと突き出した。
「いつかの、サイダーのお礼です。差し入れ」
「え、あ、ありがとう」
「それでは、私はこれで」
脱兎のように逃げ出そうとする諸富の二の腕を、伊藤が笑いながらつかんだ。
「ほら、薫ちゃん。ちゃんと見ていかないと、来年は薫ちゃんのクラスがこれやるんでしょ」
「差し入れのお返しだけして帰っちゃったらダメだよ」
浅野も反対側を押さえる。そのまま、三人でポスター展示を眺め始めた。
「すごくない? 特進ってこんな課題もあるんだ。半分、大学生みたい」
「ポスターセッションなんて、学会発表みたいだよねえ」
「え、アカリ、学会って知ってるの?」
「お兄ちゃんが大学院生でさ」
「かっこいいー!」
「かっこよくなんてないよ。頭ぼさぼさでさ、正月もろくに帰ってこないし、自分の専門のことしか興味ないよ」
いつでもどこでも、明るく盛り上がれるのが浅野と伊藤の特技である。いつの間にか一歩下がり、その二人をにこにこしながら見守っている諸富に、オレは思い切って声を掛けた。
「あのさ」
「はい」
びっくりしたように振り返る。大きな目でオレを見返す。これも、いつもの諸富。
「『ソロモンの指環』、オレも読んだ。前読んでただろ」
ぱっと顔が明るくなった。こくこくとうなずく。
「面白かった。諸富が教えてくれなかったら、多分、知らなかった本だと思う。ありがとう」
「本当ですか? 私もすごく好きなんです。あの、トゲウオの章が」
「あ、魚? うん。あれ面白かった。でも、オレはコクマルガラスの章がよかったな」
「あれはかわいかったです」
なんだ、普通に話すって、こんなに簡単だったのか。
オレはちょっとだけ拍子抜けしつつ、さっき受け取った紙袋を掲げた。
「差し入れも、ありがと」
「お口に合うといいんですけど」
「え、まさか手作り?」
思わず尋ねてしまった。
諸富の色白の頬が、また、ぱっと赤くなる。
「あの、違います。違うから大丈夫です。向こうの、普段購買に納品してくれてるベーカリーのブースで買ってきた、チョコレートドーナツなので」
「違うから大丈夫って、なんだよ」
「食中毒とか」
「諸富の手作り、そんなヤバいの」
思わず、からかってしまった。むう、と膨れる顔がかわいい。やめようと思ってたんだけど。
本当は、手作りだったらいいな、なんて一瞬思ったことは、もちろん、ドン引きされそうな気がしたので黙っておいた。
今までとそんなに変わらずに話せている自分に、すごくほっとした。















