5 セカンド・インパクト
夏休みになった。相変わらず、諸富はふわふわとしていた。
浅野や伊藤、他の一年生が声を掛ければにこにこして応じている。けれど、相変わらず本を読みながら、話の輪の外れの方にいて、なんとなくなじんでいる、という微妙なポジションだったし、それで本人も周りも居心地は悪くないようだった。
我が美術部では、一、二年生は夏休みに一枚油絵を仕上げて、九月の高校生展に提出するのが慣例だった。これを提出しないと、一応卒業単位に入っている、一年次と二年次のクラブ活動の単位をもらえないのだ。
三年生は一学期で引退なので、それまで活動日に顔をだせば単位は出してもらえる。二年生の一枚と、秋の文化祭の共同製作が、高校生活の部活動のハイライトになるはずだった。
絵は好きだった。絵が好きだから、受験の邪魔になる、と渋る親父を説得し、何とか所属を許された部活だったのだ。
写実的な表現が好きだし、得意だと思ってきた。なので、思いきりテクニカルなやつにしようと思って、題材にはガラスに付いた水滴を選んだ。
ただの水滴では絵にならない。絵なので、ガラスの向こうには、エモーショナルな風景を入れなくてはならない。でもそれは、あくまでもガラスと水滴の表現を引き立ててくれればそれでいい、と思って、オレはなんとなく、緑の木立と、こちらに背を向けた白い服の女の子を入れた。どうせ、ピントをぼかしてふわっと入れるからあまりこだわらなかった。
彩色は、夏休みの無人の校内で好きなところに陣取って行う。オレは北校舎と南校舎をつなぐ二階の渡り廊下に腰を据えた。その位置からだと、枝振りのいいけやきの、葉のよく繁ったところが窓から見えるのだ。下絵を描くのには写真を参考にしていたから、気分の問題ではあったけれど、背景の色塗りの参考になるかもしれない、というささやかな期待があった。
その日は、集中して描いているうちに、持ってきた飲み水のペットボトルが空になってしまった。
一階のピロティには自動販売機がある。飲み物を求めて階段を降り、ふと北校舎の方をみると、そこに、諸富がいた。一人で描いていたのだ。
なんとなく近づいて、キャンバスを見た。
衝撃だった。アシモフ事件以来の、セカンド・インパクト。
諸富が選んだ題材は、お寺とおぼしき木造建築の縁側に、キジトラの猫が座っている構図だった。自分で撮ったのだろう、DSCと呼ばれる、手のひらくらいのごく普通のプリントサイズの写真が、イーゼルのすみに立て掛けてある。茶色の背景に茶色の猫。絵に描くにはあまりに地味な姿である。
だが、キャンバスの中に広がる世界は、その写真とは大きく駆け離れていた。
縁側を構成する、写真では直線的に整然と並んでいる木材は、画面では大きくうねって、リズミカルな曲線を描いている。お寺の格子戸が構成する縦横の木組みも、ゆるやかにしなるような曲線で描き出されていた。その中で、シャープな直線ですっきり上下に伸びる太い柱が画面を縦に貫いている。
その、お寺の建築に当たる背景全体は、茶色で描かれてはいるけれど、紫っぽい陰影がつけられて、物憂げで沈んだトーンだった。
その中央に描かれた、メインモチーフの猫は、プリミティブな壁画アートのように、やや平板にデフォルメされて描かれた顔面をまっすぐこちらに向けている。陰影を明るめのオリーブグリーンでつけられているそのキジトラは、茶色の背景に茶色の猫なのに、確かにくっきりと浮き立って、強い存在感を放っていた。
普段のふんわりした諸富からは想像もしなかった、野性的で力強いタッチの絵だった。
この子、こんな激しいところもあったんだ。
オレが近寄ったのも気がつかない風情で、彼女は絵筆を動かしていた。パレットから筆で絵具をとって、画面に置く。かすかに眉をしかめて、また、別の絵の具のチューブに手を伸ばす。
絵と彼女、たった二人の世界だった。
声を掛けるのもはばかられて、オレは一旦、その場をそっと離れた。
自販機の飲み物は、夏休みで出入り業者の補充頻度が減っているのか、運動部の連中がイナゴのように襲来した後なのか、水、お茶、スポーツドリンクがものの見事に全部売り切れていた。
残っていた選択肢の中から、サイダーを二本買った。
それを持って、一階の廊下に戻る。
諸富は、イーゼルから一メートルほど下がってコンクリートの壁に寄り掛かり、放心したようにキャンバスを眺めていた。
「おつかれ」
さりげなく言って、サイダーを渡す。そのまま、諸富の隣の壁にオレも寄り掛かって、自分のサイダーを開けた。
反射的に受け取ってしまったのだろう。諸富はおろおろした様子で、オレとサイダーを見比べた。
「ええと、あの」
「飲みなって。もしこんなところで脱水起こして倒れても、すぐには見つけてもらえないんだから、自己管理しなきゃ」
「すみません。……ありがとうございます」
「いいね、これ」
オレは視線をキャンバスにやった。
「あの、……」
諸富は何と言っていいかわからないというように、口を開きかけて、閉じた。
こんなパワフルな絵を描いているのに、やっぱり、話しかけるといつもの諸富だ。
「ほめられて、言うことが思いつかなかったら、ありがとうって言っておけばいいんじゃないかな」
オレが片方の口角を軽く上げると、諸富はぱっと赤くなった。ぺこんと頭を下げる。
ありがとう、か、恐れ入ります、か、そういう意味のボディランゲージなんだろう。
「諸富はさ、大学、どうするの。志望とかあるの?」
そういえば、今まで、そんな話は一度もちゃんと聞いたことがなかった。
諸富は手の中のサイダーをじっと見つめた。
「ああ、ごめん。立ち入ったことだったね。別にいいんだけど」
オレが慌てて言うと、彼女は首を横に振った。
「そうじゃないです。聞いてくださったのはいいんですけど、私、わからないんです」
「わからない?」
「自分が何が好きなのか、とか、どうしたいのか、とか。本、いっぱい読んでみてるんですけど、そうすると全部面白そうに思えて」
「ふうん」
オレはうなった。オレ自身はそんな風に考えたことはなかった。
高校選びも、偏差値と、進学実績だった。
大学も、オレ自身はこれと言って目標があったわけでもないので、さしあたり、親父の希望の医学部。今の成績で現実的に狙える大学。
できるだけ偏差値をあげておけば、大学選びも幅がでる。
でも、その後の将来を考えれば、やはり、出来るだけ有名な大学に行っておいた方が、つぶしが効く。資格が取れればなおいい。医者はどこに行っても仕事ができるし、給料も高くて、安定している、というのが、自分は医学部受験に失敗し、理学部を卒業してサラリーマンになった親父の口癖だった。
自分が好きなこと、とか、したいこと、面白そうなこと、みたいな、そんな夢見がちな選び方をするという発想は、オレにも、オレの周囲の人間にもなかったのだ。
もう一度、オレは諸富の絵に視線をやった。謎めいた目で、こちらをじっと見つめる猫。心の奥底まで見透かして、何かを問いかけてくる。それが何かわからないままに、この絵の前に立った人物は、自分の心が丸裸にされるような感覚をおぼえるだろう。
諸富の、その進路の選び方は、本当に、夢見がちなんだろうか。
少なくとも、諸富は、自分に嘘をつかないような選択を、自分の意志でしようとしている。
いい偏差値の大学に行っておけば、いい将来が手に入れられる、とか、周囲の期待するルートに乗っておけば、協力もしてもらえるし、波風がたたない、という考え方のほうが、むしろ甘いんじゃないだろうか。
他力本願で、自分のことを決めるのに、偏差値とか漠然とした周囲の期待任せにしているってことじゃないのか。
そんな思いが、落雷のように訪れた。
足元の地面が、音を立てて崩れたような気がした。
その後、何と言って諸富のそばを離れたのか、オレは覚えていない。精一杯取り繕って格好をつけて、じゃあ、ぶっ倒れないように気を付けてやれよ、とかなんとか、兄貴ぶったことを言ったんだろうと思う。
気がつくと、自分の絵の前に戻ってきていた。
緑と白がぼんやりした画面。写真をそのままトレースしたような水滴。
自分の絵が、急につまらないものに見えた。
画面の中の、うすぼんやりした、線の細い女の子。
これは、諸富だ。
意識的にはそんなつもりで描いたわけではなかったのに、そのことが、その瞬間にはっきりわかった。自分がひどく恥ずかしくなって、オレは衝動的に、パレットに赤い絵の具を絞り出した。それで傘を描いて、その女の子の姿を半分隠した。
次の瞬間、梅雨時の帰り道、遠目に諸富を見かけたことを思い出した。
くっきりした赤の、かわいい傘をさしていた。
隠そうとして、結局、もっとはっきりと、この女の子は諸富になってしまった。
自分の描いた絵に、こんなに裏切られたのは初めてだったけれど、さすがに、ここから色を修正するのは難しい。それに、緑の画面に、ぱっと花が咲いたような赤い傘は、絵としては完璧に見えた。
仕方なくオレはその衝動的な修正をそのままにして、絵を仕上げる方向に舵をとった。
でも、誰かに――もしかして諸富自身に、この女の子のことを気づかれるんじゃないか、と思うと、そんなはずはないと思っても、落ち着かなかった。















