1 交差点とアシモフ
目の前の横断歩道の信号が青になる。
一斉に歩き出した人波。いつもの朝の光景だ。
オレは流れに乗って歩き出そうとして、ふと、前方の波の乱れに気がついた。
周りにいるのは、ほとんどが同じ高校に向かう生徒たちだ。紺と黒の制服の波の向こうで、ふわふわとおぼつかない足取りの人影。横断歩道をなんとか渡りきったその小柄な人影は、人の流れから外れるように街路樹の陰に寄った。紺のブレザーに同色のプリーツスカート、地味で野暮ったいと悪名高い制服は、うちの高校の女子だ。
気分でも悪いんだろうか、と気になって、見ると、顔見知りだったので驚いた。
部活の新入生だ。
薄くて華奢な肩を包む、ちょっとぶかっとしたブレザーや、学校指定の仕立て屋が仕上げたままのひざ下丈のスカートが、いかにも一年生らしい。
気がつくと、人波をはずれて、彼女の横に足を止めていた。
「ええと、諸富? だっけ」
びっくりしたようにオレを見上げる。あー、覚えてないか。
「美術部だろ。二年の小木曽」
自分を指差して名乗ると、思い出した、というようにその目が少し大きくなった。
「大丈夫? 具合悪いの?」
「いえ、少し休んだら平気です」
女の子は色々あるんだろうし、あまり追及するのも悪いかな、と思ったけれど、顔色がすこし白っぽいのが気になった。
「休むんなら、こんな道端より保健室行った方がよくない?」
「大丈夫です」
彼女は気丈に言って歩き出そうとしたけれど、足元がやはりふわふわしている。つまづきかけたので、あわてて手を出して支えた。
「保健室、校内入ったらすぐだから、ほら、それ貸しなよ」
半分ひったくるみたいに、バッグを彼女の肩からとると、彼女は口のなかでもそもそと、ありがとうございます、と言ってついてきた。
またつまづいたら手を貸そうと思ったけれど、うちの高校名物の、サンドバッグみたいに重くなる通学バッグがふらつきの一つの原因だったらしい。なんとか、とことこと歩く姿に、少しほっとした。
うちの高校では、参考書やテキストの持ち帰りがとにかく多いのだ。
旧制中学時代の遺物だとも言われている詰襟の男子学生服、戦後すぐ共学化して以来変わっていないと噂の古めかしい女子ブレザーとならんで、伝統のヘビー級通学バッグは、在校生からは『忌まわしき負の遺産』と呼びならわされていた。
この子みたいに線が細くて腕力が弱そうだと、この重たいバッグを抱えて歩くのは、普段から大変だろう。
自分の学ランの肩には、二つの通学バッグががっつり食い込んでいるけれど、努めて何でもない風にかついで歩いた。強引に奪い取った以上、ちょっとでも重そうな様子を見せるのは癪である。
「……あの、すみません、ちゃんと覚えきれてなくて」
そんなにびくつかなくてもいいと思う。オレ、怖い顔してたかな。
「当たり前だろ。一年は、他の一年と上級生、全部はじめましてじゃん。こっちは一年の顔だけ覚えればいいんだから。それより、本当に大丈夫?」
「あ、はい。何から何まで自業自得なので……」
消え入りそうな声で言う。ふと、その手に、カバーを掛けただけの本が、手提げにも入れられずにむき出しで握りしめられているのに気がついた。ちょうど、指定で買わされる英語の単語帳の大きさだ。
そう、今日は木曜日。全学年、朝の始業前に英単語のミニテストがある日だ。
「ギリギリまで単語帳見てたの? 歩きながらは危ないよ」
軽くたしなめる口調になってしまった。
「いえ、信号待ちの間だけで、歩き出すときには閉じてたんです。でも、日差しがちょうどページに当たってたのに、ずっと見つめてしまっていたせいで、目を上げたら立ち眩んじゃって」
ガリ勉ちゃんか。オレはなんとなく息苦しくなって、無意識のうちに学生服のカラーに指をかけて、少し緩めていた。
身に覚えがあった。高校入学直後。大学受験まで、何一つ無駄にするもんか、いい大学に受かってやる、と鼻息を荒くしていた。オレだけじゃない。同じクラスには、そうやって前のめりになっている人間が少なからずいた。
大体そういう人間は半年もすると息切れしてくる。その頃、ようやく周りが見えてくるのだ。本当に勉強ができるヤバいやつは、そんなムキになってやってないってことに。さらっと、息を吸って吐くみたいにいろんなことができるんだってことに。
「諸富、特進だっけ」
「はい」
うなずきはしたものの、きょとんとした顔で見返してくる。質問したオレの意図がわからない、という顔だった。
「いや、オレもそうだから、覚えてただけ」
オレは肩をすくめた。一学年十クラスのうち、一クラスだけが特進科だった。受験オタク、ガリ勉と言われそうな思考パターンの人間がひときわ多い。
まあ、この子に今説明したって、きっとピンとはこないだろう。
「え、あ……」
「二宮金次郎は、歩きながら勉強してほめられたけどさ。もう時代が違うからね。今や、歩きスマホ撲滅のために、あの像は撤去することにした学校も多いらしいよ。うちの高校に残ってるのは、男子の制服と同じく戦前からの天然記念物みたいなもんだから」
「……二宮さんがいなくなったら、学校の怪談の定番、一つ消えちゃいますね。目が光るとか、夜歩くとか」
オレは思わず吹き出した。二宮さんって、友達か何かか。
「だね」
「……あの、それと、違うんです」
「え? 何が?」
「勉強じゃないんです。そんな風にほめていただいては恐縮なので、誤解を解かなくてはと」
彼女は真っ赤になって、ちょっとうつむきながら言った。
ええと、誰か今、この子のことをほめた人、いたかな。オレは断じてほめてない。
「何の話?」
手に持っていた本のカバーをそっと外して、オレのほうに向ける。
「銀河帝国の興亡、アイザック・アシモフ?」
読んだことはないが、その名前には聞き覚えがあった。アメリカかどこかの、SF小説の大家だ。きっと入試の題材にはならないであろう作家。
「昨日読み始めたら、どうしても気になっちゃって。つい、読みふけってたら朝になってて……」
「睡眠不足の目で、日向でまだ活字を見ようとして、立ち眩みを起こしたってこと?」
床をみつめたまま、顔の両脇からゆるく垂れたみつあみを揺らしてこっくりうなずく彼女の細いうなじを見下ろしつつ、オレは自分の思い違いに頭を軽くどつかれたような衝撃を受けていた。
単語ミニテストの前夜に、SF小説を読んでいて、うっかり徹夜? そしてそれにもかかわらず、信号待ちのタイミングでまで、その小説をまだ開こうとしていた?
こいつ、本当に大丈夫なのか。
◇
放課後、美術室の前で、またあのふわふわと歩く後ろ姿を見つけた。つい呼び止めてしまった。
「諸富、大丈夫だった?」
彼女はびくっとして立ち止まり、またあの大きい目でオレを見返した。
「あの……はい、おかげさまで、あの後は……」
ちょっとだけ意地悪な気分になって、言ってやった。
「いや、体調じゃなくて、単語テストの方」
「あ、ええと」
勘違いに気がついた、というように、ぱっと赤くなってうつむく。本当は、最初は体調のことを案じて聞いたのだけれど、それはあえて黙っておいた。
「はい、なんとか、追試にはならず……」
二十問中、十八問以上とらないと追試なのだ。
「よかったね」
思わず笑ってしまった。
変な子だなあ、というのが、第一印象だった。















