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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
9/60

聖夜の狭間・2

 

 店に入って来た章弘は、スマホで誰かに電話をしているようだった。

「守衛室の奥、右手の方ね。ありがとう」と着いて早々に電話を終えた彼がスマホを仕舞い、一尚のいるテーブル席を見て少しの間立ち竦んでいた。


 そりゃそうだろう。いくら付き合いが長い方だと言っても、最初の殆どの場面では仏頂面であったし、時々笑う事はあってもそこまで笑いが持続する方ではない。それなのにそんな奴が可笑しくもない状況で一人、ただ笑っているのだ。驚かない方がどうかしている。

「いつからこの状態なの」と、我に返った章弘が愕然とした表情のままオーナーに尋ねる。時計を見て「十五分位前に店に来た時には、もう」と返したオーナーに何も返せなかった様子の彼は、すぐに険しい顔をして一尚の前に立ち、「立って、病院行くわよ」と言って一尚の手を掴んだ。外から来たばかりの彼の手は冷え切って氷のようだった。


「あきひろさん、手が冷たいです」

「っるっさいわね、良いからキリキリ歩きなさい! 保険証は持ってるでしょうね」

「財布に入ってます。財布はズボンのポケットにあります……くくっ、」

「笑ってないで行くわよ、早く!」


 変わらず笑い続ける一尚を一喝した章弘は、グイグイと掴んだ手を引いて店の外へ出て大通りに向かって歩いて行く。知り合って初めて真面目に怒られたというのに、その事実を真剣に受け止める間もなく、一尚は通りの路肩に停車していたタクシーに乱暴に押し込まれた。

 章弘が運転手に「医大病院の救急外来にお願いします」と言うと、運転手は「はいよー」と軽く答えて車を走らせる。一尚の隣に乗り込んだ章弘は、シートベルトを締めるより早く鞄を開けて黒い塊と細長い物を取り出して一尚に向き直った。


「はい、コレ脇に挟んで」


 そう言って渡された細長い物を手に取って見ると、デジタル表記の体温計だった。何でこんな物をと聞こうとしたが、「さっさと挟む!」とシャツのボタンを外されて乱暴に腋窩に突っ込まれた。その直後には着ていたコートを半分脱がされ、体温計を挟んでいない方の上腕に黒い大きな塊をぐるぐると巻き付けられる。更にはボタンを外してシャツの袖を捲くり上げられ、肘の内側辺りに冷たい何かを押し当てられた。

 何処からかシュコシュコと空気を送り込むような音がし、黒い何かが上腕を圧迫しているのが判る。何とか笑いをこらえた一尚の隣では、パッと点けた小さなライトを口に咥えた章弘が、小さな時計のような文字盤を真剣な目で見ていた。いつ出したのか、どうして持っているのか、彼の耳には聴診器が装着されている。


「……呼吸は苦しくない? 気分悪くない?」

「大丈夫です。気分はバカみたいに晴れやかでおかしいです」

「……いつ頃からこの状態なの」

「飲み会の席からだから、……大体一時間位前から」


 サッと聴診器を仕舞った章弘が手に持ったライトを少し離し、反対側の手を一尚の目元へ伸ばす。眼鏡の隙間から上下の瞼を開かせた後、間近に寄って目の何かを見た彼は、すぐに離れてスマホにメモを取った。そうしている内に腋に挟んでいた体温計が鳴り、取り出したそれを横から掻っ攫った章弘が、平熱より少し高い体温を読み取ってまたメモを取った。

 スマホは上着のポケットに、体温計や血圧計等の道具は鞄の中に仕舞い、章弘が「その飲み会の人間関係、これからぶち壊す事になるかも知れないわ」と、何でもない事のように言う。その意味が判らず笑いを漏らす一尚に、彼はやはり真剣な表情のまま低い声を出した。


「違法なクスリの作用だと思う。脱法モノだったって黙って盛ったら立派な犯罪だわ。病院で処置を受けて、警察にも連絡する」

「でも前に……章弘さんも似たような……」

「よく覚えてるわね。種類までは判んないけど、アレも似たような感じだと思う。アタシは自分で何とかしたけど、カズちゃんはダメよ。後から足元すくわれないように、色んな人に入って貰って被害者だっていう証拠を残しときましょ」

「くくっ、結構大変な事じゃないですか」

「そうよ。大したクリスマスプレゼントね全く」


 腕組みをして吐き捨てるように言った章弘は、見えてきた医大病院の建物を前に、大きく息を吐いた。どこか複雑そうなその顔を、恐らくにやついた表情のままちらりと一瞥した。

 温かい車内で移動している間も、不自然な高揚感は続いている。違法なクスリと聞いて妙に納得した。何せ、ビールを飲んだだけでどんな酒よりも気持ちよく酔えたのだ。こんな風に気持ちよく酔える事なんか早々ない。

 それに。一尚の状態を見る為に、時折身体に触れる手の感触が、今日はやけに心地良い。いつもならば不愉快な筈のそれは、どうしてか表現し難い多幸感を持って脳まで駆け巡るようだ。


 ……他の人はいつも、誰かに触れるとこんなに気持ちが良いんだろうか。


 肌に触れられるのも、頭を撫でられるのも、肩を組まれるのも、一尚にとっては不愉快なモノであって、必要に迫られない限りはあらゆる手段をもって回避したい筈の物だ。正直、一対一の親密な関係に憧れてはいても、パートナーと密着している人を見ると『よくあんなにくっ付いていられるな』という感想を持つ位で、自分もそうしたいとは到底思えない。

 だけどもし、周囲の彼等にとって、誰かとの接触がこんなに気持ちが良いのだとしたら。それならば周囲がそれを求めるのもよく判るし、それを感じられない自身の体質を不公平だと思う。

 肌に触れるだけでこれなら、例えば手を繋ぐ事はどんな風に気持ちいい物なのか。

 同様に、腕を組むのは。

 抱き締めるのは。

 頭を撫でるのは。

 キスをするのは。

 そしてその先の事をするのは----。

 この気持ちよさを知っている彼等がそれを渇望するように、知ってしまえば一尚もまた、再びこの気持ちの良い接触をしたいと思ってしまうのだろう。


 ああ、でも。コレの味を覚えたらきっと、章弘さん嫌がるだろうな。


 隣で車窓風景を眺めている彼の表情は、いつになく真剣で、それでいてどこか悔しそうで、何より悲しそうだ。多分、コレに溺れる事があれば、彼だけでなく身近な人にもそんな表情をさせる事になる。大事な人にそういう顔をさせて喜ぶような趣味など、一尚は持ち合わせていない。

 違法なクスリだと彼は言っていた。規制されているという事は、それなりに危ない代物であるという事でもある。コレを使って得た快楽は、恐らく本能レベルで人を虜にするモノなのだろう。




 タクシーが横付けされたのは病院の正面玄関ではなく、夜間救急と書かれたパネルが立っている方の入り口だ。どの出入り口も真っ暗な中でそこにだけ明かりが点いており、自動ドアの向こうには守衛室と、待合室のような空間が広がっているのが見えた。

 運転手がメーターの料金表を読み上げるより早く「長時間ありがとう」と万札を握らせ、章弘がさっさと車内から出て行く。喜ぶ運転手を尻目に、それを追ってタクシーを降りると、客の居なくなったタクシーが走って公道へ出て行った。


「こっち」と手を引かれ、自動ドアを潜って守衛室の右に入って行く。守衛室の奥の死角に小さなカウンターがあるのが見え、事務職のような男性が立って章弘の方に声を掛けた。

「吉武先生にお電話された方でしょうか」と問われた章弘が、引っ張ってきた一尚を示して「ええ、後藤といいます。お話したのはこっちの男性で」と言って軽く会釈をした。


「先生は今どちらへ?」

「その……先程救急車が到着して、皆そちらの患者さんの所に。お二人はこの奥の処置室へどうぞ。道具は先生の指示で揃えてあります。手が空いたら回るから、勝手に使えとの言伝てが」

「ありがとう、大変な時に無理を言ってご免なさい」

「いいえ。ちなみにその、そちらの方のご家族は……」

「薬物反応が出次第電話でお話しします。時間も時間ですし、今来られなくても私が身元引受人になりますので」

「あっ、では、書類は後程お持ち致します」


 章弘とその人が喋っている間に、他の人達が自動ドアを潜って中へ入って来る。彼等は救急車で来たという人の家族のようで、すぐにそちらの対応に当たった男性に頭を下げた章弘が、一尚の手を引いて奥へと進んで行った。




----------




 救急処置室と書かれたパネルの部屋に入り、一箇所だけ処置台と道具が置かれているベッドを確認する。処置台から検尿カップを取ってヘラヘラと締りのない顔をした一尚に手渡し、「ハイ、先に検尿ね」と言いながらコートを脱いだ。いつになく朗らかな表情の一尚は、受け取った検尿カップを見て「出ません」と明るい声を発する。普段からコレくらい可愛い顔してりゃ良いのにと思いつつ、「無理矢理にでも絞り出して」と言ってトイレのパネルがある方を示した。


「良いカズちゃん、オシッコだけよ。間違ってもマスかくんじゃないわよ」

「あっは、章弘さんたら下品」

「冗談で言ってんじゃないわよ。笑ってないで行ってきて頂戴。早くね」

「はぁい」


 鼻歌交じりにトイレに向かった一尚を尻目に、水道のある所を見つけて手を洗う。それから処置台の上にある道具を一通り見て、使い方の判らない物が一つもない事を確かめた。懐かしいそれらの感触を噛み締めながら、近いようで遠い日々を想起する。

 仕事その物が嫌いになって辞めた訳ではないから、こういう場に来るとつい色んな事を考えてしまう。処置台の高さも、輸液パックの感触も、消毒液の匂いも。どれもこれもが懐かしく思えた。


 もし、あの時きちんとした手順で転職をして、心身共に健康に仕事が出来る環境になっていたら。そうしたら、今もこういう道具を使って何処かで働いていたのかも知れない。

 あの頃の行いが結果として今も自身の足を引っ張っている。この業界は狭いから、奇抜な事をした人間が他者からどう思われるかを嫌でも考えてしまう。自分がどう思われたって、そこは構わない。浅はかな行動を選んでいたのは自分自身な訳だから。でも、章弘を良く思わない人が、章弘の周りにも同じ感情を向けたらと考えると、とてもじゃないが大切な物の近くには居られない。

 逆境に立ち向かえる程強くはなかったから。大切な物からは出来るだけ距離を取って、宙ぶらりんのまま生きて行くしかなかった。



「採ってきました」と、相変わらずホワホワした声で一尚が言って、検尿カップを隠しながらコソコソと戻ってきた。その姿を見て嘆息した章弘が「何で持って帰って来てんのよ」と言うと、言われた事の意味が判っていない様子の一尚がン? と首を傾げて見せた。


「トイレの中に検尿カップ置く所あったでしょ……」

「えっ、そうなんですか」

「もう、貸して。アタシ置いて来るから。そこのベッドに横になって、袖捲ってて。肘のトコまでね」


 彼の手から検尿カップを奪い、ベッドを示してそう言い、早足で近くのトイレに入って検尿カップを所定の位置に置く。そうして処置室に戻って再度手を洗っているうちに、ベッドに横になった一尚が袖を捲って待機していた。

 一尚が何か声を発するより先に、駆血帯を巻いて手袋を付ける。アルコール綿を出しながら「先に採血するわね」と言って腕に手を当てる章弘を、彼は意外そうな顔をして見上げていた。


「え、あの……もしかして章弘さんがやるんですか?」


 締まりのない声で聞かれて頷いて返す。それにまた驚いた様子の彼は、「そうよ?」と答えた章弘が採血ホルダーを手に取ったのを見て引きつった笑みを返した。



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