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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
8/60

聖夜の狭間

 

 誰も好きになった事が無いという事を、誰かに言うのは気が引ける。恐らく多くの人間にとっては当たり前のその感覚を、生まれてから一度も持った事がないなど、多数派の人には想像が付かないだろうから。大半の人にとって身近な感情であるからこそ、周りにそういう感情を扱ったモノが溢れていたし、そういうモノに共感して盛り上がる人間がそれなりの数を占めていたように思う。

 ならば少数派になら感覚を共有出来るだろうかと考えたが、メインストリームから外れている人も、異性愛者でない人も恋愛感情は持っている人が多く、会っているだけで幸せだとか、独占したいとか付き合いたいとか、結婚したいとか、そういう気持ちにならないこちらの方がおかしい、どうかしているのだと指摘された事がある。


 無気力症の疑いを持たれたり、心的外傷があって無意識に科された何かがある筈だと言われたり。中途半端に臨床経験がある知人には抑圧的な思考回路が原因だとか、分泌系の機能に問題があるのではないかとか、本当に色々な事を言われて検査だの心理カウンセリングだのを受けてみたりはしたけれど。一尚はただ『好き』という感情が理解出来ないというだけで、それが社会生活に大きく影響を及ぼしている訳もなく。結局どうする事も出来ないまま時間だけが過ぎて行った。

 その内、自分はこの世に生を受ける際、大事な物を忘れて生まれてきてしまった欠陥品なのだと思うようになった。そんな思考で過去の事を振り返ると、誰かを傷付けた過去の出来事ばかり気になってしまい、罪悪感に苛まれて人付き合いさえままならなくなった。

 小学校の頃の旧友や、中学の時の後輩、高校の時の先輩、大学の頃に付き合った佐山、そして、こんな自分の一番近くにいた家族や兄弟……。一尚には佐山が最初のきっかけに過ぎなかったが、他の誰かにとっては、一尚が忘れられない傷のきっかけになっている可能性だってある。何より、こんな血も涙もないような人間を育てた事で、いつか両親や兄弟をより深く傷付ける出来事が起きるのではないかと、終わりの見えない漠然とした不安にしばらく付き纏われた。

 それならばせめて、今後会う人達が傷付かないように気を付けて付き合って行こうと。そう考えて他者に関わるようになったら、周囲から良いように使われるだけの頓馬になってしまった。病に倒れた父に代わって会社の中へ入り、思うように行かない仕事の中で、そうやって頭の中でさえどん詰まりのような状況が続いていた時だ。唯の偶然が重なり、一尚は章弘に会った。


『だって仕方ないじゃない、お互いにお互いの都合で生きてるんだもの。友達でも家族でも、判り合えないモノの一つや二つ持ってるモンよ』


 いつ頃だったか忘れてしまったが、一人だけで彼のいる店に行った時に、ずっと胸の奥に刺さっていた昔話をして現状を嘆いた事があった。それを聞いた章弘にサラリと言われたその言葉は、他のどんな人の言葉よりもすんなりと腹の中に落ちて、塞いでいた頭の中に容易く風を呼び込んだ。


『間違った事をして、後になって悪かったなぁって振り返るのはそりゃ、大事な事だけど。そればっかりじゃ人生ツラいじゃない。反省する時は反省する。そうじゃない時は切り替えて、程々に楽しくやってりゃ良いのよ。少子高齢化に貢献してる点はアタシも耳が痛いけど、勤労と納税の義務は果たしてるんだから、それはそれで良いじゃない』


 カウンターの向こうで頬杖をついてそう言った章弘を前に、一尚はしばらく言葉を返す事が出来なかった。




----------




 山口との再会からしばらく経ち、先日の同期達との忘年会があると何故か声を掛けられた。断ろうと思っていたのに取引先の人が来ると聞き、悩みに悩んで結局参加する事にした。


『じゃあ石井、逃げんなよ!』

『……あー、うん……』


 同期達だけなら多少強引にでも身を引いたものを、中途半端に取引先を絡められてしまっては後に引けないのが一尚である。参加する面々や人数、男女比からして出会いの場も兼ねているらしかった。殆どが知らない顔触れである上、そういう目的の場所とあれば嫌な思いの一つ二つ位しそうなものだ。絶対に一店目で抜けて早々に帰ろうと決意して指定された場所へ行くと、そこには取引先の人はおらず、先日章弘の店で会った女性が二人参加していた。彼女達は確か、山口の同僚と言っていた筈だ。

 思わず主催の同期を見るが、彼は悪びれもなく「あーゴメン、例の子、体調崩しちゃったみたいで」と言ってその女性達を示して見せた。


「代わりって言ったら失礼なんだけど、この子達に来てもらったから」


 苦笑いで言い切った彼等を眺め、今後一切関わらないようにしよう、と。内心で固く誓って顔に愛想笑いを貼り付ける。自分達の楽しみの為に、ここまでして山口と一尚の関係を取り持ちたいものだろうか。というより、彼等は山口のあの変わり様を見て何とも思わなかったのだろうか。

 人がこれだけ避けて回っているというのに、善意の第三者程面倒な物はない。それに、考えてみれば仕事の相手と言ったって、別に私的な場でまで挨拶をしなくても良さそうな物である。いくら年の瀬で忙しかったとはいえ、こんな事にまで頭が回らなかったなど、一生の不覚と言ってもいい位だ。


「こんばんはー」

「お疲れさまですぅ」


 彼女達がいるという事は。と身体に緊張が走り、咄嗟に声が出せなかった。しかしすぐに女性の一人から「山口さんは来ませんよ」と言われ、少し安堵してその女性の方を見る。「来る筈だったんですけど、山口さんも体調悪いみたいでぇ」と言った彼女は、長いまつげで縁取られた目をバサバサと開閉して身体をくねらせて見せた。


「元々養生しに戻って来たみたいだし、心配ですよねぇ」

「養生?」

「聞いてませんか? 病気でリコンしたみたいなんです。財産とか家とか、申し訳なくて全部元奥さんに渡して帰って来たって、そう聞いてます」


 初めて聞く情報に同期達を見るが、驚いたような顔をして揃って首を横に振るばかり。連絡を取り合っていた筈の同期達でさえ、彼が帰って来た理由を『誰も知らない』のだと考えて背筋がそわりとする。あの変わり様の山口に関わるキーワードは、離婚、養生、体調不良等、良くないイメージの物ばかりだ。畑中の言葉からして退職が急だったようだし、何か大きな出来事があってあの窶れた状態に陥り、その為に家族に距離を取られて離婚・退職をして帰ってきたと考えるのが自然だろうか。今は情報が足りないので何とも言い難いが、総合的に考えてもあまり良くない心証である。

 それに。

 語尾を上げて身体をくねらせるこの女性。男受けを狙うような仕草や格好をしておいて、眼光がまるで蛇のようである。今し方だって一尚の顔を見てすぐに山口の事を口に出した辺り、山口について、一尚達の知らない何かを知っているのかも知れない。そうだったとしたら関わり方に注意が必要だ。

「じゃ、早速始めようか」という同期の声を受けて移動し、彼女から一番離れた席に座る。一瞬面白くなさそうな一瞥をくれた彼女に気付かれないよう、一尚も彼女を視界の隅に捉えたまま目の前の女性に会釈をした。


「えーと、じゃ自己紹介しよっか。俺から時計回りね」


 陽気な声でそう言った彼に倣い、所属する会社名と氏名を順に名乗っていく。その様子を何処か他人事のように感じながら、女性達が口にした社名と名前を忘れないように頭の中で何度も繰り返した。

 乾杯した後、酒が入って判らなくなる前にと、チャットアプリを使用する振りをして全てメモにまで残した。我ながら気持ちの悪い行動を取っていると思ったが、何も無かったらいずれ消せばいいだけの話である。

 その操作を終えて改めて通知欄を見て、何日も前に章弘からの着信があった事を知る。どうせ一次会で帰るつもりだし、後で店にでも顔を出せばいいと。そう思ってスマホを上着のポケットに仕舞い、ただ目の前のグラスを空ける事に終始した。



 身体の異変を感じたのは二度目の席替えをした辺りだ。

 初志貫徹してビールだけを煽っていたのに、次第に強い酒を飲んだ時のような酔い方をし始め、何かがおかしいと感じた。

 酔っている筈なのに手足が冷たく、浮遊感はあるのに妙に感覚が冴え渡っている感じもする。師走の疲れで変な酔い方をしただろうかと思っていると、今度は店の照明がいやに眩しく感じられるようになってきた。頭痛の前兆で似たような感覚になる事はあり、これは頭が痛くなるに違いないと、幹事の同期に早々に声を掛けた。


「悪いけど、疲れて悪酔いしたみたいだ。頭痛がしてきそうだから早めに帰らせて貰う」

「ええっ、マジ? 大丈夫なのかよ。無理に誘って悪かったな」

「いや、まあ。帰って寝れば大丈夫だと思う」

「じゃああたし心配だしぃ、石井さん送って行こうかなぁ」

「あ~ダメダメ、こいつ実家暮らしだから。行ったらお父さんとお母さんがお出迎えしちゃうよぉ」

「何だ、そうなの? そういうの先に言ってよぉ、損した気分」


 一尚が実家に住んでいる事を知った途端、まつげの長い人がやけに不満そうな表情になる。その言葉や仕草を視界の隅で捉えている間も、浮遊感と眩しさが少しずつ強くなっていく。急いで財布を出して同期に紙幣を渡した後は、挨拶もそこそこにその場を後にした。


 記憶にある地面は固い物の筈なのに、今日この瞬間はやけに柔らかく感じられる。手も足も身体も、軽くなったようにふわふわとして非常に心地が良い。

 今日はビールだけで随分気持ちよく酔えたと思い、フラフラ歩いている内に今度は笑いがこみ上げてきた。

 何も可笑しな物がないのに口角が上がり、にやついた顔を普通に戻す事が困難になる。そんな状態でクツクツ笑って一人で歩いているから、周りの人達からは当然距離を取られ、すれ違う時に怪訝そうな視線を向けられた。


 ……いくら何でもおかしい。


 身体の浮遊感が治まるどころか、どんどん増して来ている。その内身体が蕩けて周囲に混じってしまいそうだ。目に付く少しの明かりでもチカチカと眩しく感じられるのに頭痛が来る気配も無く、頭がやけに冴えて何でも出来そうな気持ちになってくる。

 酒で酔ったにしては気分が良過ぎるし、いくら酔ったからと言ってこんな風に所構わず笑い声を漏らした事なんか一度もない。




 おかしい。




 おかしい。




 おかしい。




 頭の中でずっとそれだけを繰り返してフラフラ歩いている内に、以前に居酒屋で酔っていた章弘の事を思い出す。今の自分のこの状態は、あの時の彼に少し似ている気がした。

 彼にならこの感覚を共有出来るだろうか。あの人は何かと物知りだし、もしかしたらこのおかしな状況をどうにかする知恵を持っているかも知れない。


「あきひろさん」


 思い出したその人の名を口にしたら、どうやら呂律も回っていないようだった。たったそれだけの事さえ可笑しくて仕方がなくて、壁や電柱にもたれて笑いながら歩いた。




「いらっしゃいませ」とドアベルの音を聞いてこちらを向いたのは、この店のオーナーと調理担当の人だ。見慣れた店内に目的の人の姿がない事に気付くより早く、いつもの調子で「今日はヒロちゃんお休みですよ」と言ったオーナーが、一尚の顔を見るなり言葉を失った。

 壁にもたれながら店の中に入ってカウンターへ移動しようとする一尚の腕を、急いで出てきた調理担当の人が引っ張って、近くのテーブル席に座らせる。その間もクツクツと笑って身体を揺らす一尚の事を、二人とも信じられない物を見る目で見ていたような気がした。


 今日はクリスマス・イブだというのに店内には客の姿がない。今年はお一人様割をするから来いと、章弘が言っていた筈だった。営業掛けておいて自分はいないのかと一人で笑っていると、ハッと我に返ったオーナーが磨いていたグラスを置き、何処からかスマホを取り出して電話をかけ始める。すぐに応答したらしい向こうの人に「ヒロちゃん悪い、急いでこっち来て!」と言い放ったのを聞き、電話を掛けた相手が章弘なのだと判った。


「今石井さん来てる。いつもと違う、何か変だ!」


 切羽詰まった様子でそう言った彼の様子も可笑しく思えるのだから、確かに何か変なのだ。理由も判らず一人で笑っている一尚の傍を離れ、調理担当の人が店のドアの方へ行く。恐らくドアサインをひっくり返しに行ったのだろう。平日とはいえこれからがゴールデンタイムだっていうのに、こんな状態の客が来て迷惑しているに違いない。


「石井さん。ヒロちゃんすぐ来るから、来たら一緒に病院行って下さい」

「ふ……、病院、ですか……ふふっ」


 章弘とのやり取りを終え、近くへ来たオーナーが真剣な顔でそう言ったのを聞いて、半笑いでこれからの状況を考えた。しかし、当然ながらこんな状態で何をどうしたら良いかなんて判る訳がなく、すぐに考える事を放棄して章弘の到着を待つ事になった。


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