芒種を臨む頃・2
「自分でこう言うのも何だけど俺、それなりに優秀だった訳よ。ちょっと頑張れば成績はぐんぐん上がるし、運動はそれ程じゃなかったけどそこそこ出来たし、誰かに極端に嫌われる程尖ってもいなかったし」
「はい」
「それなりに順調で幸せな人生歩んで来て、まあ嫌な事も多少はあったけど、そんなのに負けてられないっていうか、そういう事も前向きに捉えて突っ走るみたいな、そうやって生きてれば人生楽勝位には思って気楽に医者やってたの」
「はい」
「でも人間ってそれぞれ事情が違うから、俺みたいに突っ走るのがかえってダメージになる奴もいるでしょ。立ち止まったり、来た道振り返ったりするのが大事な奴だっていて、そういう奴の背中を押して無理無理前に走って行っても、結局荷重に耐えられなくて壊れて行くっていうか、さ」
「はい……」
それが誰の事を指しているのかなど、聞くまでもなく見当がついた。それでも一尚は出来るだけ口を挟まず、言葉を選んで視線を彷徨わせる吉武の方から目を逸らさずに相槌を打ち続けた。
「……今回の騒ぎで余裕が無くなって初めて前に進むのがしんどくなって。立ち止まって色々考えてると、今度は周りが進め進めって押し出そうとすんの。らしくねえとか、いつもの元気はどうしたって言ってさ。こっちはそれがエラいしんどいっつーのに、皆良かれと思ってグイグイ押して来て」
「はい」
「で、周りに励まされながら半分やけくそになって仕事してた時にさ、手ぇ洗ってふっと鏡見たの。確か夜中、当直ん時だった。したら、当然シケた面した俺が映ってたんだけど、さ」
「……はい」
「その面が仕事辞める直前の章弘の面に見えて、ゾッとした訳よ。あー俺、昔あいつに同じ事やってたんだなって。そんで章弘の他にも多分、同じ職場で働く同僚をそうやって追い詰めて来たんだなって。そう思ったらもう、色んな事考え出して止まんなくなって。そっからはホレ、この通りよ」
それであの電話だったのか。と吉武の言を聞いて合点が行った。自嘲気味に話してくれた彼に『そんな大変な時の電話に、つまんない感情を抱いてホントに申し訳ない』と内心で思いながら、自身の過ちや葛藤を惜しみなく曝け出した彼に溜息と共に「先生は大人ですね」としみじみ返した。
当然そんな事を言われるとは思っていなかった吉武は固まって「は?」と困惑した声を出したのだが、気の利いたアドバイスの一つも浮かんで来ない一尚には、彼の話を聞きながら思った事を口に出して伝えるしか無かった。
「いえ、そうやって自分の言葉で自分のカッコ悪い所を話せるって凄いなと、率直にそう思ったもので。特に俺なんか年下だし、章弘さんと違って大して交流も無い相手なのに」
「…………言われてみればそうだな、つい喋っちまったけど」
「正直、俺は自分の置かれている状況を言葉にするのも、人を頼るのも苦手なので。それで身近な人に心配かけまくった前科があるだけに、そういうのを言葉に出来る先生を尊敬します」
「……尊敬に値するような事は何も無いと思うんだけどなぁ」
そう言って力無く笑った吉武に「そんな事ありません。先生は大人で、凄くカッコ良いと思います」と答えながら、手元でおしぼりを弄り始めた彼を眺める。恐らく無意識に手を動かし続けて「そーかな。良い年してこんな体たらくなのに」とごちた彼がいつかの自分と重なるような気がして、苦笑した一尚が「オーナー、『三十にして立つ』の次、何でしたっけ」とグラスを拭いているオーナーに目を向けた。
「『四十にして惑わず』ですね。その次に『五十にして天命を知る』なので、孔子的に言えば吉武先生はちょうど天命を追求し始めた所かも知れません」
「孔子……論語か、懐かしいな~」
「随分昔の人の言葉ですけれど、バカにした物じゃありませんよ。結構参考に出来る所もあるように思います」
「だねえ。そういうの全部受験勉強の一環ってスルーして来ちゃったけど、改めて見てみるのも良いかもなあ」
「そうですね。せっかく時間が出来たのですし、ご自分の根幹をじっくり見つめ直す良い機会だと思います」
「まー確かに。ただウダウダ考えたって仕方ない事だし、今はいっか。石井さん烏龍茶もう一杯飲む? 余りモンで悪いけど、この辺の食い物も適当に食べちゃって良いよ」
「え、あ、はい。いただきます」
物憂げだった吉武の表情はさっきまでの穏やかさを取り戻し、そこからはオーナーも交えて他愛ない話をしながら二杯目の烏龍茶を勿体ぶって飲んでいた。そうしている内に不意にガタンと音がして、見ると章弘が立ち上がってトイレの方へ向かった所だった。
その後ろ姿を見送ったオーナーが「やっと起きたか」と苦笑し、カウンター席に残ったままのワインの瓶を回収して冷の入ったグラスを置く。時計を眺めた彼がそのままドアサインをひっくり返しに行ったのを眺め、一尚も残っていた烏龍茶を喉の奥に流し込んだ。
「あ~……久し振りに落ちた……」
「空きっ腹で一気に行くからだ、ばーか」
「お店で飲んだの久し振り。ま~だ足元ふらふらだわ」
「同じく」
「んふふ、先生あの情勢で飲み会なんかしたら袋叩きよねえ」
「ま~飲み会とか外食とかは今もあんまりしたくないんだけど、しばらくはゆっくりする予定だし、お前の周りなら大丈夫だろうと思って、な。金の使い道も無かったし? こういう時位経済回しとかないと」
「やだぁ退職して暇になったのにお寂しい事。あ、ねえ、日々の潤いに知り合いの若いオカマ紹介しましょうか、純情な良い子がいるわよ」
「あ~オカマは煩いから勘弁、お前の相手だけで腹いっぱい。オトコかオンナどっちかにしろ」
ヘロヘロの状態でトイレから戻って来た章弘を相手に流れるような軽口で返しながら、吉武もグラスの中身を空にして穏やかな目を向けている。二人のやり取りを静かに見ていた一尚の方へは「良い男がいるじゃない」と呂律の回らない状態の章弘が近付いて来て、首元に引っ付いて締まりのない笑い声を漏らした。
「カズちゃん~。なあにこれ、良い~匂い~」
「ああ、風呂入った後で来たので」
「いつ来たの? 起こしてくれたら良かったのに」
「起こしたっつの。起きなかったから二人で飲んでたんだろうが」
「やだアタシのカズちゃんと二人っきりで飲んだ訳? いくら先生でもカズちゃんはあげないわよ」
「誰がいつ欲しいなんて言ったんよ。……あ、悪い、別に石井さんがどうとか言いたい訳じゃないから、言葉の綾だから」
「判ってます。章弘さん、飲んだって言ってもこっちは烏龍茶でしたし、オーナーも交えてほんの十五分かそこら世間話をしただけで、全然そういうのでは」
「やだわカズちゃん、アタシという者がありながら!」
「章弘さん人の話聞く気ないでしょ」
「ううん、ちゃんと聞くからこっち向いてチュッチュして。長めにお願い」
「しませんよ」
「あーごっそさん、幾久しくイチャついてろ。大将、チェック頼んます!」
呆れ切ったようにそう言いつつ、吉武の表情は変わらないままだ。穏やかで優しいその表情を見ているだけで、章弘が彼にとってどれ程大切な友人であるかを感じ取る事が出来る。
財布を出してレジの方に向かった彼を見ていてふと、実家の近くのスーパーで会った時の事を思い出す。その時の様子とさっきの彼の穏やかな表情が直線で繋がりかけた所へ章弘が割って入るように顔を出し、「ちょっと、何で先生ばっかり見てるの」とむくれて見せたので、驚いて体がビクリとした。
章弘の腕が改めて肩に巻き付いて体が密着し、温かいと言うよりもやや熱い体温を背中や肩に感じる事になる。それを煩わしく思う感覚も今やすっかり息を潜め、いつもの要領で首元に絡み付いた腕に手を触れると、後ろで小さく「先生の事、ありがとね」と言った章弘の声がした。
さっきの話をこっそり聞いていたとは人が悪い。途中から起きていたなら話に混ざってくれればいいのにと思ってちらりと章弘を見ると、こちらの視線に気付いた彼がニコリと微笑んだのが見えた。
「気の利いた事は思い付かなかったので、これといって何もしてませんが」
「カッコ良いって励ましてくれてたでしょう。先生にはそれで充分なの」
「そうなんですか」
「そうよ。来てくれてありがとうねカズちゃん、私もそうだけど、先生も今日貴方に会えて嬉しかったと思う。皆カズちゃんが大好きよ」
彼が口にした『好き』は一尚が本当の意味で欲しかった言葉とは意味が異なるが、耳元で言われた言葉に不覚にもドキリとし、変な息苦しさを覚えて深く息をする。急に乱れ出した鼓動や息遣いは密着した章弘にも当然伝わっていた筈で、身動いだ一尚を包む彼の腕に少し力が籠もった。
出来上がってしまった大人二人を車に乗せ、先に吉武を自宅へ送り届けてから章弘のマンションへと車を走らせる。その途中に幾つかスーパーがあるのを思い出した一尚は、助手席で上機嫌に鼻歌を歌っている章弘に向かって「スーパーの近くを通りますけど、何か欲しい物ありませんか」と尋ねた。
「んー、別に無いわね」
「? スポーツドリンクとか、買い置き残ってます? 明日絶対必要になると思いますけど」
「判んないけど、いらないわ」
「ええ、ホントに?」
少し先で赤に変わった信号を認め、交差点前で減速しながら隣の章弘を見る。やはり酔っ払いではアテにならないかと一週間前の食料庫の中身を思い出していると、助手席のアームレストに頬杖をついた章弘が外の景色から一尚に視線を移して静かに口にした。
「明日もカズちゃんが近くにいてくれるなら、他はなんにもいらないわ」
アイドリングストップなどという機能に少しばかり感謝を捧げたくなったのは後にも先にもこの時だけだ。他に何も遮る音がない車内で、しみじみと吐き出されたその声は確かに一尚の耳に届いた。
酔っ払った状態で口を突いて出たそれは恐らく彼の本心の一部で。彼のそれが例え一尚が抱く思いとは違う次元の話だったとしても、傍に立つ事を望まれている事に変わりはないのだと思える。
それでも。それだけでは物足りないと頭の何処かで思ってしまう程、たった半年で一尚は随分欲張りになってしまった。きっと章弘があんまり心地良い時間を提供してくれるから、彼の優しさに慣れ切って少し我儘になっていたのだろう。最も、一尚が我儘を通したいと思うのは全て章弘に関わる事だけで、その他の事に関してはこれまで通り大して興味が無いままだ。
「冗談は置いといて、スポーツドリンクは買って行きましょう」
「ちょっと! 人が珍しくキザな事言ってんのに冗談で流さないでくれるっ? 酔っ払いの戯言だと思ってんでしょ、酔ってなきゃこんな事言えないのよ!」
「酔った勢いでそんな事言われたって嬉しい訳ないでしょう。真面目な話なら素面でどうぞ」
「酔って理性が弱くなって本音が出たんだなぁキュ~ン、とか無い訳っ? 普通ここでキュンってしてまっすぐ家帰って甘やかしてくれる流れでしょ! 完全に二人の世界に入ってチューとかしちゃって後続車にクラクション鳴らされるとか!」
「こんな時間に後続車なんかいませんよ、スーパーだってホラもうすぐ閉まりますよ」
「ホントだわ憎たらしい!」
「十分元気じゃないですか。買い出しして帰りますよ」
「ンもう、ケーキ買って行ってやけ食いしてやるんだから!」
「それ確実にお腹周りに来ますからね」
キュン、なんていうオノマトペに実体験が含まれるようになったのはつい最近で、彼の言う通り、真っ直ぐ帰って甘い時間を過ごすのも悪くないと思わなかった事もない。
けれど自分が抱く感情を章弘が持ち合わせていないのはこちらも判っていて、なのに彼の思惑に嵌ってスマートに動いてやる事なんて癪に障ると思い直した。
これから先も日常は続いて行くのだし、自分達の関係には期限もゴールも特別ありやしないのだ。
章弘が一尚に『特別』な感情を抱いていなくても、この先ずっとそうとは限らない。そして例え一尚が望む『特別』な思いが彼に湧き上がる事は無くても、一尚に許された『特別』は他の誰よりもずっと多い筈だから。いつかそうなる日を楽しみに、これまで通りの関係を望むのも決して悪くはないだろう。
さっき彼が言った甘い世界なんか、来たるべき日が来てから浸ったって十二分に堪能出来るに違いない。
酔っていてもいつも通りのペースであれこれ言い募る章弘に口で応酬しながら、一尚はいつものスーパーの駐車場へと車を滑り込ませた。




