芒種を臨む頃
夜。普段なら何も鳴らないような時間帯に電話の音が聞こえて、意識が眠りの淵から急浮上した。
目を開こうにも開けられないまま頭だけを持ち上げ、ベッド上の何処かでブーブーと震えているスマホの音に耳を傾ける。途中で隣の章弘の手が顔に当たってぺちんと音を立て、気持ちよく微睡んでいたのが一気に冷めた。
軽い衝撃と音で一尚が「ぐ」と呻いたのを聞いた章弘が「ん、ごめん」と低い声で侘びて掌が当たった箇所を軽く撫でさすり、ベッドの何処かで鳴っているスマホを探り当てる。やっとの思いで眠い目を開けて周囲を見ると、ベッドボート付近で光って震えていた端末を手に取って「はい、どしたの先生」と答えた章弘が見えた。
その電話に応答した声は明らかにもたついており、誰が聞いても寝ていた人間の声に聞こえるだろうと思う。しかし電話の向こうの人物はそれを指摘する事なく、『悪い、寝てたよな』と言う低い声を発したのが聞こえて来た。
「寝てたけど、良いわ。今仕事中? 何かあったの?」
その声を聞いた途端に体を起こしてそんな風に言った章弘が、頭をもたげたままの一尚を撫でて『寝てて良いよ』と言わんばかりに布団を掛け直す。章弘と共に電話そのものが遠ざかってしまった都合上、向こうの人物が何を話しているのかはもう聞こえて来ない。ただ、こんな真夜中に電話を掛けて寄越したというのに、章弘が怒りもせずにあんな応対をしたとなれば、それなりに親しくしている相手であると推察する事は出来た。
先生、という事は吉武先生か。
そう思いながら大人しく頭を枕に付けて章弘を見ていると、彼は電話の向こうの人物の話に相槌を打ちながらガウンを羽織り、寝室を出てリビングの方へ行ってしまう。去って行った人肌を頭の何処かで寂しく思い、掛けられた布団に包まったままリビングの方から聞こえる章弘の低い声を聞いていた。
何を話しているのかまでは聞こえて来ない。でも夜中に掛けてくるような電話がただの世間話な訳はなく、聞こえる声のトーンは静かな物だった。
出身校は違えど、彼らは同い年でしかも同僚だったという話だ。長い付き合いになるという吉武に一尚が敵わないのはある程度仕方のない事だが、入り込む隙が微塵もないその関係性に疎外感を覚えるのはあまりに幼稚という物だろうか。
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「医大病院の吉武先生ってアレ、国道沿いの東町医院、あそこの息子さんですよ」
「ああ、あの年季の入った建物の」
「建物は古いですけど、院長が気さくで相談しやすいって、うちの祖母も話してました。院長夫人と娘さんはちょっとトガッてますけど、息子は皆あんな感じって聞いてます」
畑中の言葉を聞いて成程、と呟き、吉武のあの雰囲気は親譲りであった訳だと考えた。あまり長い時間会話した事は無いが、短い時間でも彼が大らかで安定感のある人であるとは感じられた。どっしりと腰を据えた穏やかな構えはそれこそ、ビャービャー大騒ぎする章弘にうってつけというか、互いにバランスが取れて良いコンビに見える。
俯いたままそんな事を考える一尚の様子に構わず「同僚でしかも同郷だった訳ですし、そりゃ電話位するでしょ」と言い切った畑中は、手にしたペットボトルの中身を一息に飲み干して盛大に息を吐く。勢いのある飲みっぷりに思わず彼の方を見ると、彼は空になったペットボトルとキャップをそれぞれゴミ箱に放り込んでさっさと営業車の方へ戻って行ってしまった。
いくら同僚だったって、真夜中にあんな電話寄越すかね……。
あの時端末から漏れ聞こえたのはスーパーで会った時とは少し違う、沈んだ雰囲気の声だった。何がどうしてかは皆目見当がつかないが、恐らくあの時の吉武はそれなりに切羽詰まった状況だったに違いない。だから誰もが寝静まる時間にも関わらず章弘にそういう電話を寄越し、章弘も嫌な顔ひとつせずにそれに応じていた訳だ。
自分だって何度も章弘に無茶を言ったし、そういう事を言う度に受け入れて貰った経緯はあったものの。他の誰かに同じような事をされて、しかもそれを受け入れている章弘の姿を目の当たりにしてしまうと、どういう訳かしっくり来ないというか、気持ちの良くない違和感が付いて回るのだ。
彼が懐に入れた人達に対していい意味で平等な態度でいる事は判っていたつもりだ。しかしそれでは物足りないと思い始めている自分がどうかしているように思え、らしくない感覚を抱き始めた自身を半ば持て余し始めていた。
「石井さんでも俗物なんだと思ったら安心しました」
「何だそれは」
「たかだか電話一本で思い悩むなんて、それだけ独占欲丸出しって事でしょ。その調子で叔父さんの事よろしくお願いしますね」
「……やかましい」
独占欲、か。
同乗した畑中の軽口にそう返しながら、一尚はまた成程と頭の中で独りごちる。得体の知れない違和感には一般的にそういう名前が付いていて、彼の口振りからしてそんなに珍しい訳でも大した問題でもないらしい。恐らく一尚は、彼らがとっくに通り過ぎて来た場所に今頃になって立っているのだろう。
誰かに対して抱く『特別』な思いはどうやら世間一般で言われている程清らかでは無いらしい。傲慢で独り善がりで感傷的、実に人間らしい側面を持っているそれらに初めて触れた一尚は、収まりの付かないこの思いにもありふれた名前が付いていた事を思い出した。
「……今度お前の嫁さんに会いに行って良いか」
「ダメに決まってるじゃないですか。ウチの嫁さんに会って良い男は嫁さんの父親と兄弟だけです」
帰社途中にふと思い立って言った言葉は秒で叩き落され、きっぱりと言い切った畑中を相手に口元が緩むのを抑え切れない。どうやらこの違和感と感情に思い悩む必要は無さそうだと、当然のようにツンとした態度を取った彼を見て思った。
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それからしばらく経って、そんな思いを抱いた事さえ忘れてしまった頃だ。自宅の方で入浴を済ませてリビングでのんびりしていた時に知らない番号からの着信があった。
いつもなら知らない番号からの電話は出ない事にしているのだが、珍しくこの近所の固定電話からの着信だったために、仕事繋がりの誰かかと思ってつい応答してしまった。
『石井さんの携帯でしょうか』と言った声はよく通っているバーのオーナーのもので、オーナーは一尚の返答を聞いた後で申し訳無さそうに『すみませんが、章弘が店で落ちてしまいまして。差し支え無ければ回収をお願いしたいんですが……』と本題を切り出す。そんな電話でノコノコ誘い出され、しばらく顔を出さなかった店の場所へと車を走らせたのがついさっきの事だ。
店に入って行くとすぐに「いらっしゃいませ」と言うオーナーの声が聞こえ、カウンター席で見事に落ちている章弘の背中が目に入る。それを目の当たりにした一尚がカウンター席に近付くのと同時に「お、来たな若者」と言う声がし、見ると章弘から一つ間を空けた席で既に出来上がった様子の吉武が笑って手を振って寄越した。
「すみませんね石井さん、こんな時間にお呼びして」
「いえ、大丈夫です」
「ごめんねえ。こいつ、俺がタクシーで送ってやるって言ったら絶対嫌だって駄々こねるから。だったら家知ってる人間を呼ぶしかないって話になってな。ホラ起きろ、お前のカズちゃんが迎えに来たぞ」
「んん~……」
吉武がカウンター席に突っ伏したまま動かない章弘の肩を揺すってみても、彼はただ唸って眉根を寄せるのみに留まる。その様子を見て「ダメですね、これはしばらく起きないです」と苦笑したのはオーナーで、「石井さん、章弘が起きるまで何か召し上がりませんか」と一尚に笑って見せた。
「ああでも、一人位なら背負って行けますから。ありがとうございます」
「いやいや、今無理に連れてって途中で吐かれたら大変だろ。ちょっと目ぇ覚めるまで石井さんも飲んでこうぜ。何から行く、ビール?」
「あ、いや、俺は車で来ましたので」
「あっはっは、だよねえ、章弘の迎えで来たんだもんね。ま、座って。好きなのどれでもどうぞ、何飲む?」
「いや、あの……」
この吉武という男の頭には、一尚が断って帰るという選択肢は端から無いらしい。身の回りで全く人の話を聞かない人間と言えば叔父や祖父がそうだが、どちらの二人とも異なる様子に困惑して言葉も出なくなる。しかし、いくら車で来ていると言ってもこの状態の章弘を背負って帰るというのも結構な重労働ではある。せめて一人で立てる位回復してからじゃないと、マンションの駐車場から先で困憊するのが目に見えていた。その上吉武の言う通り吐かれでもして持ち物に色んな物が付着したとしたら、すぐに立ち直れる自信がない。
そこまで考えて大人しく吉武と章弘の間の席に座り、メニュー表を手渡されるより早く「じゃあ烏龍茶で」と言った一尚に、オーナーはニコリと笑ってグラスと烏龍茶を用意した。
「ハイかんぱーい」と笑ってグラスを掲げる吉武と軽く乾杯して中身の烏龍茶を啜り、改めてテーブルの上の肴を見る。ドライフルーツやナッツ、チーズやチョリソー、チョコレートといった肴だけで、彼らは延々酒盛りをしていたらしい。隣で気持ちよさそうに落ちている章弘の前にはもう少しで空きそうになっているワインの瓶があるし、吉武の方もそこそこ有名な年代物のウィスキーボトルを半分以上空けている状態だ。これだけ飲んだら確かに落ちてもおかしくないなと思い、吉武に進められるままイチジクに手を伸ばして口の中へ放り込んだ。
「残念だなー、石井さんも結構イケるって聞いたのに、一緒に飲めないとは」
「じゃあ、次があったらぜひお誘い下さい」
「あはっ、じゃ遠慮なく誘っちゃう。連絡先交換しようよ、俺もう医大病院からは抜けたからさ」
「え……、先生病院お辞めになったんですか」
スマホを探しながらあっけらかんと言い放たれた言葉をそのまま聞き流す事が出来ず、思わず尋ね返して彼を見る。一尚のその視線を真正面から受け止めて「ウン」と頷いた彼は、手にしたスマホを弄びながら「前からぼんやり考えてはいたんだけどさ」と言って皿の上に並んだナッツを一つ口に放り込んで咀嚼し、それを酒で喉の奥に流し込んでから短く息を吐いて低い声を出した。
「今回のこの騒ぎで当たり前に出来てた色んな事が出来なくなって、色んな限界が見え隠れし始めた時に、初めて自分の事を考えちゃったというかね。ふっと『ずっとこのまま生きていくのか』って思い始めたら何か、俺って働き始めてから此の方、自分の用事でさえまともに休んで無いんだなって事を思い出しちゃって。前はそれでも全然構わないと思ってたんだけど、今はとっ散らかって収拾がつかない感じでさ、ちょっと落ち着いてゆっくり考える時間が欲しくなった訳よ。俺もホラ、良い年だし」
「…………」
その言葉を受けてあ。と、すっかり忘れかけていた夜中の電話の件を思い出す。一尚があの晩抱いた気持ちなど当然知らないであろう吉武は、物憂げな顔をしてポツポツと話し始める。面識がある以外は殆ど交流も無かった一尚は、彼の話を聞いて相槌を打つことしか出来なかった。




