この頃少し変わったこと
自分はそこそこ我慢強い方だと思っているのだが、想定外に強いその痛みに耐える事は叶わなかったようだ。
「あだっ! 小松っちゃん痛い痛い痛いってば、痛い!」
「うううわ、かったいわね後藤ちゃん。これ頭痛くならない? 肩凝りとかも相当でしょう」
「無理無理無理無理、マジ無理いたいからソレ小松っちゃん!」
「ホント~? コレでも全然力入れてないのよ。今解してあげるからね~」
「止めてっ、そういうのいいからもう止めて!」
「何言ってるの、オカマに二言はないのよ。終わったらスッキリするから我慢して、ね?」
「イヤ~~~~っ」
日曜日。知人のやっている美容室で、章弘はひたすら痛みに耐えて歯を食い縛っていた。
「んぎっ、ちょっとマジで痛いんだけど! 狙ってやってんだったらアンタ容赦しないわよ!」
「言い草ね、お客さんに痛い思いさせたい訳ないでしょ。凝り固まってるから痛いんじゃないの。普段からシャンプーしながらちょっとはマッサージしなさいよ」
「毎日こんな思いしなきゃいけないのァいった~~!」
「毎日やってたらこんなに痛くないわよ。良い後藤ちゃん、日々の積み重ねって大事なのよ、お肌のお手入れもそうでしょ」
「あだ! 小松っちゃんそこマジ無理、やめてえ!」
誰もいない店内でカラーリングを終え、シャンプー台に来た所でオーナーの小松から直々にヘッドスパの簡単なお試しを勧められ、その結果がこの有様だ。
前からヘッドスパという項目をメニュー表で見て気になってはいたものの、中々口に出せずにいたから、これ幸いと受けたまでは良かった。が、まるで章弘の痛がる場所を的確に狙って押しているかのように指圧され、気持ち良くてリラックスするどころか全身が強張って汗が吹き出て来る始末である。
この状況下で当然休業中であろう店の営業再開時期の問い合わせをした時、『後藤ちゃん一人位なら特別にやってあげるわ』という話になり、一対一でこうしてやり合っているような形である。休みなのに悪いからと一度断りはしたものの、『お願い、死ぬ程暇なの! 私を助けると思って何かさせて!』と逆に泣き付かれてどうしようも無かった。
個別対応である今日は普段流しているような音楽も一切無く、ギャーギャー喚きながら施術を受けている章弘と、章弘の暴言を飄々とかわして行く小松のやり取りだけが店内に響いていた。
簡単な(と言っても結構長い時間のような気がした)施術を終えて何もかもを洗い流してスタイリングチェアに戻って来る頃にはもう、全身がヘトヘトに疲れ切っており。後ろでドライヤーを持った小松から鏡越しに「カットはどうする?」と聞かれても、すぐには返事が出来なかった。
「前みたいに短いのもスッキリして良かったけど。後藤ちゃん前髪この位あってもカワイイじゃないの」
「そう? 長さに拘りは無いんだけど、シャンプーもドライヤーもすぐ終わるから、短いのは好きなのよね」
「ああ、わかるわあ。じゃ前くらいまで切っちゃう?」
手作りのマスクを付けた彼が利き手をハサミ状にして章弘の髪を切る動作をしたのを見て、タオルに包まれたままの頭を眺める。これまでの章弘であればその申し出に二つ返事で乗っかっていただろうが、今回は少し状況が異なる。
「……んー、どうしようかしら。こっちの方が気に入ってる人もいるのよねえ」
「やだ、それってこの間の彼?」
「まあ、ね」
「あーん、ごちそうさまぁ!」
本当なら今日は白髪染めをお願いした上で、髪の長さもベリーショートまで戻すつもりでいたのだ。
でも。
この頃増えたスキンシップには恐らくこの髪の長さも関係している。章弘としては短い方がラクで良いけれど、一尚はどうやら今の長さの方が好みのようだ。思いがけずジッと見て来るのも、ふとした時に触れて来るようになったのも最近の話で。お互いに環境や心情の変化があったとはいえ、折角この距離感に落ち着けた切っ掛けをバッサリ切ってしまうのも気が引けた。
以前の自分なら、身近な人の好みに合わせるなんて論外、煩わしいと思っていた筈だ。そういうのを気にしていちいち好みを抑えたりせず、これが自分なのだからと好きなように過ごして来た。それが今は『この位、合わせてみても悪くないかも知れない』と思い始めているのだから自分でも驚きである。
「じゃあ前髪ちょっと長めに残して、横と後ろはスッキリってどうかしら。仕事の時はワックスでこう、分けるとパリッとして良いんじゃない」
「あー、実はこんなに長いのって初めてで、正直どうしたら良いか判らなくて」
「オッケー、じゃ任されたわ」
章弘の言葉に軽快に答えた小松がそう言ってニコリと笑い、章弘の頭を包んでいたタオルを取り去って手に持ったドライヤーのスイッチを入れた。
あんな風に多少距離が近くなったからと言って、一尚に対する気持ちには特に変化はなかった。
行く所まで行っておいて何だが、自分だけを見ていて欲しいとか、彼の全てが欲しいとか、誰かといる所を見てモヤモヤするとか……そういう激しい感情を覚える事はこの先も無さそうである。もしかしたら一尚が相手ならばそういう感情も芽生えるかもと期待していた面が無いとは言えないけれど、そうだとしても章弘にとってはいつも通りの事で、今更それがどうという事もない。
でもとりあえず、章弘にとって彼は大切な人の一人である事に変わりはない。自分の浅はかな行動一つで、あの真っ直ぐな視線や姿勢が再び揺らぐような事はあって欲しくない。だからせめてそんな彼が穏やかに過ごせるように、自分の出来る事を頭の片隅で考えてしまう。
自宅へ戻ってすぐにシャワーを浴び、着ていた服は洗濯機に放り込んで部屋着に着替える。リビングの窓を開けてラグに腰を下ろし、風に当たりながら読みかけの雑誌を捲り始めた辺りで、やっと起き出したらしい一尚がリビングに来て眠そうな目を丸くして見せた。
「…………髪、」
「そう、切ってもらって来た」
「……前みたいにしなかったんですね」
「まあね。ウチの誰かさん、長い方が好みみたいだから」
「…………」
章弘のその言葉でしばし固まっていた一尚は、風でバサリとカーテンが音を立てたのを聞いてようやく動き出した。
寝起きで緩慢な動作の彼は、雑誌を斜め読みする章弘の傍に胡座をかき、ただこちらを眺めてじっとしている。そこからあまりにも長い時間そうしているものだから、「そんなに私の顔が好き?」と茶化して紙面の活字から顔を上げると、じっとしていた一尚の目が泳いで明後日の方へ向かったのが見えた。
雑誌を離して彼の方へ手を伸ばすだけで、起きたばかりのやや乱れた髪に触れる事が出来る。こうして他人の片手がすぐに届く範囲に腰を下ろすようになった事は、一尚にとっても大きな変化である筈だ。
「……お腹空かない? たまには私がブランチでも作りましょうか」
「いただきます。ブランチっていうか、もう完全にお昼ですけれど」
「どっちだって良いじゃない、顔洗っていらっしゃい」
そうして撫でた頭を引き寄せても怒られる事はなく、それを良い事に遠慮なく額にキスをしたら、お返しとばかりに背中に腕を回されてギュッと抱き止められた。
洗面所に向かっていく背中を見送りながらキッチンに立って、当たり前に二人分の食材と皿を用意する。いつの間にか自然にそうしている事に対しても『悪くない』と思っている自分がいる事に気が付き、自身の心境の変化に口元が緩んだ。
元々、ここは自分ひとりだけで過ごす場所だった。この場への立ち入りを許したのは甥の啓介ただ一人で、最初はその甥に料理を振る舞うための皿やカトラリーさえ置いていなかった。
それが今や、調理道具も少し種類が増え、冷蔵庫の中身が充実し、食器がもうひと揃え加わり、自分が使う訳でもない歯ブラシやシャンプーが混在している有様である。他の何者にも囚われない身軽さを良しとしていた筈だったのに、一尚との関わりが深まると共に随分と持ち物が増えて来た。
大切な物って増えると身動きが取れなくなるけど。その重さが心地良いなんて事もあるのね。
そんな風に考えながらフライパンを振っている章弘の元へ、顔を洗って目を覚ました一尚が戻って来る。自分が作るつもりでいたブランチは当然のように一尚に引き継がれ、そのまま章弘が手料理を披露する事無く時間が過ぎて行く。
早々に手伝う事を諦めた章弘は、出来た料理を並べる予定であるテーブルの上を片付け、カウンター近くの椅子に腰掛けながら、手際よく調理を進める一尚の姿を眺めた。
「……何です、ニヤニヤして」
「別に。何でもないわよ」
「何でもないのにニヤニヤするんですか」
「何でもないからしてるのよ」
「そうですか」
章弘の言葉に大して興味もなさそうにそう返した彼も、ニヤニヤとまでは行かないが口角が上がっているのが見える。こうやって共に過ごす時間が彼にとっても穏やかであるのなら、これほど嬉しいことはないと思った。




