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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
SS集
54/60

葭始生・4

 彼が浴室でシャワーを浴びている間に、体の奥の熱が少しずつ引いていくのを感じていた。多分それは寝室の一尚に残された最後のチャンスで、もしも元の関係に引き返す事を望むのなら、唐突に空いたその間に帰るのが正解であった。

 浴室から出た足音が寝室に向かって来るのを聞きながら、静まりかけていた鼓動が再び大きく、激しくなるのが判る。戻って来る足音が寝室の前で一瞬止まっていたのは恐らく玄関に残っている一尚の靴を見たからで、程なくして開かれたドアに視線をやると、入室した章弘が後ろ手にドアを閉めた所だった。


「帰らなかったのね」


 そう言った章弘はさっきと変わらずベッドの縁に座っている一尚に笑い、「もう途中で止めたり出来ないわよ」とすぐ隣に腰を下ろして肩に手を触れる。その彼から目を逸らさずに「はい」と答えて頷くと、シャワーの湯気を纏ったように温かい手が頬に触れ、同様に熱くなった唇で口元を塞がれて静まった筈の熱がじわじわと再燃して来た。

 さっきは触れるだけだったキスが今度は噛み付くような勢いで息が苦しくなり、空気を求めて開いた口の中には舌まで捩じ込まれ、普段は決して触れられる事のない場所をぬるりと撫で回されてゾクリとする。必死で呼吸をしながら唇や舌の動きに翻弄されている間にも、隣にいた筈の章弘がいつの間にか膝に乗って股ぐらの辺りを弄っており、体のあちこちから湧き上がる快楽に驚く暇もない。

 慣れない状況と感覚に戸惑いながら身を任せ、所在なくされるがままになっていた上体はやがてゆっくりとベッドに倒される。シーツに広がった髪が長い指に絡め取られて数回梳かれ、髪に触れていた筋張った指は一尚が身に付けたシャツの方へ移ってボタンをひとつひとつ外して行った。

 口を塞いでいた粘膜がようやく離れ、肩で荒く息をしながら腰の上に馬乗りになっている章弘を見る。彼の興奮は既にピークに達しているようで、とろりと熔けた目がまとわり付くようにこちらを見下ろし、濡れた唇を赤い舌がなぞって荒く息を吐いていた。いつもとは違う妖艶な表情を前に、背中の奥を走る疼きが止む事はない。

 少しだけ冷静な頭の隅で、いつか叔父が言っていた『腐れビッチ』という雑な呼び方が、彼のこういう一面を示していたのかも知れないと他人事のように考えた。




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 骨張って薄っぺらな自分とは対照的に、一尚の体には健康的な厚みがある。筋肉と脂肪のバランスが取れた厚みが周囲にしっかりとした安定感を与えており、ハリのある質感の体は触れると心が弾む。本人はその厚みを気にしているフシがあるようだけれど、何を頑張っても骨や筋ばかりが目立つ章弘からすれば贅沢な悩みである。

 自分とはまるで違う掌や指に触れてその形をなぞり、時折動く指に手を握られれば、年甲斐もなく溜息が漏れた。


「ああ……私こういう分厚い掌で撫でられるとコロッと行くのよ。もう~堪んない」

「そうですか? 俺は章弘さんみたいに指長いのが好きですけれど」

「ありがと。私もカズちゃんの手好きよ、触ってるとホッとするの。寝る時ずっと握ってたいから手だけ置いてってくれる?」

「それ絵面想像するとちょっと怖いですね」


 少しずつ暗くなり始めた窓の外に構わず、一尚の肩口を枕のようにして引っ付いたままそんな話をした。日が落ちて急に下がり始めた気温を気にしなくても、人の肌に触れているだけでこんなに温かいとは意外である。つい数時間前まで身に纏っていた物はまだ床の上に落ちており、布団に包まったままお互いにお互いの体温で暖を取っているような状態だった。

「今日だけでもう、一年分くらい人に触ったんじゃないの」と、ずっと人に触れる事を避けて来た一尚に向けて章弘が言う。その言葉を発している最中もふっくらとした手掌を握ったり指同士を絡め合ったりと触りたい放題にしていたが、一尚がそれを嫌がる様子はなかった。


「ねえ。どうして急にベタベタしてくれたの。何かあった?」


 手の指同士を絡めてがっちり掴んでから、手入れされた爪先を眺めて尋ねる。それに「ぐ」と唸るような返答をした彼が見るからに動揺した様子で手を動かしたので、分厚い手は掴んだまま彼の首元に顔を近づけ、そこから放たれる匂いを思い切り吸い込んでやった。


 この匂いだ。


『誤字があったから』などという不自然なメッセージを送り直して来たあの晩も、廊下にはこの匂いが残っていた。直前に盛大に性欲を処理したものだから、それを見られていたとしたら流石に距離を置かれるだろうと章弘も残念に思っていた。しかし、予想に反して翌日からも彼はあくまでいつも通りで、視線だけがやけに突き刺さるように向けられるようになって行ったものだから、今日はとうとう我慢が出来なかった。


「ま、私は大満足だったからどうだって良いんだけど」

「そうですか……」


 ホッとした様子でそう返した一尚にそれ以上言及する事はせず、素肌同士の心地良い感触に身を任せて目を閉じる。耳元で聞こえる相手の鼓動と呼吸音を聞きながら、穏やかに流れる時間にただ浸っていたいと思えた。

 即物的な関係にばかり浸って来たから、こんな風にゆっくり相手の体温を感じられる時間は新鮮だ。大抵の相手は名前も知らない人であったし、やる事が終わったらお互いにさっさと日常に戻って行くので余韻もへったくれもなかった。それは章弘を『好き』だと言った吉武も例外ではなかったが、そもそも章弘自身がそういう物を是としていたのが原因の一つであったとも言える。

 恋だの愛だの、一対一のそういう事は未だに面倒だと思いはするけれど。誰かとこういう心地良い時間を過ごす事が出来るからこそ、皆はそれを求めて止まないのかも知れない。


 しばらく黙ってお互いにじっとしていると、窓の外の外灯が点いた頃に大きくグウと腹の音が鳴ったのが聞こえて来た。その音でパッと目を開けた章弘に一尚も顔を向け、「すみません」と恥ずかしそうに言って包まっていた布団を捲くった。

 体を起こした一尚が「何か腹の足しになる物作って良いですか」と布団を這い出し、床の上にある章弘の衣類をまとめて掴んで放って寄越す。それを受け取って身に付けながら時計を確認し、身支度を整えた一尚に「そうねえ、良い時間だしご飯にしましょうか」と答えて布団から這い出した。


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