葭始生・3
世間の情勢から本社の方からとうとう自宅待機を言い渡され、あらゆる事の見通しが立たない中で休業期間が始まった。
本来ならば自宅にいるべき期間なのは勿論判っていたが、自宅でじっとしている時に限って、脳裏に浮かぶのは章弘の事ばかりだ。
一日目は何とか自宅内で過ごしたものの、二日目の昼食を摂った後は何をしていてもしっくり来ない感覚が続き、うろうろと落ち着かない一尚の様子を見かねた家族に『煩わしいから何処でも好きな所に行っていろ』と言われる始末だった。
仕方なく章弘に電話で状況を説明した所、彼はひとしきり大笑いした後で子供にでも言い聞かせるように『寄り道しないでお出でなさいな』と言って寄越した。
いつも通り章弘の部屋の駐車スペースに車を駐め、『勝手に入って来て良いわよ』という彼の言葉に従ってインターホンも鳴らさずにエントランスを通過する。そのままエレベーターで真っ直ぐに目的の部屋へ行って鍵を開けて中へ入ると、窓が開いているのか柔らかい風が流れて来るのを感じた。
「……章弘さん?」
「んー……こっちにいるわよー」
家主の声はリビングの方から聞こえ、さっき電話で話した時とは少し違う様子である。中へ上がりこんでリビングに向かい、日の当たる室内で気持ち良さそうに寝転んでいる章弘の姿を見付けた。
「ちゃんと真っ直ぐ来たのね」と、眠そうな目を開けてこちらを見た章弘に言われ、ハイと応えて近くへ腰を下ろす。少し開いたベランダから室内に入って来る風は少し冷たい気がしたが、日が差し込むリビングの床は思った以上に暖かく、肌を撫でるひんやりとした風の温度を心地良く感じられた。
「私は寝てるから適当にやってくれて良いわよ」
「……寝るんですか」
「寝るわよ。暖かくて動きたくないの。なーんにもやる事ないし」
「確かに」
「カズちゃんもゴロゴロする? ……ああでも、暇だから来たのよね」
「そうなんですけれど。ここに来たらそれで満足しました」
「なにそれえ」
幸せそうに横になっている章弘に倣い、一尚も床に両脚を投げ出してベタリと座る。一尚の様子を見て笑い混じりにそう返した彼は、「床じゃ足痛くなるわよ」と言って奥へ転がり、ラグの上に一尚が座れる位の場所を空けてくれた。その心遣いを無下にする理由も無いので大人しくラグの上に移動し、仰向けの章弘とは逆に腹這いになって頬杖をつく。それを見て笑った章弘は元のように目を閉じ、程なくして静かに寝息を立て始めた。
テレビやコンポはそれぞれ部屋の片隅に置いてあるが、彼は夕方にならない限りそれらをつけて音を流す事はない。だから今リビングの中でしている音は、微かに流れる風が立てる物音と眠っている彼の呼吸音だけ。黙ってそれらを聞いている内に自然と気持ちが凪いで、家にいた時とは違う穏やかな心地になれた。
……髪、伸びたな。
時々風に吹かれて揺れる章弘の髪を眺め、年明けから忙しくしていた彼の事を思う。元々ベリーショートを好んでいた章弘だが、転職のタイミングとこの情勢が重なり、結局いつもの美容室にはまだ行けていないらしい。
伸びた前髪は彫り深な顔立ちに柔らかな印象を与えており、それを目にかからないようにと七三で斜めに流したセットが、面長な輪郭を程よく覆ってやけに中性的な雰囲気を醸し出している。手櫛で緩くセットされた様子のその髪を何の気無しに眺めていると、根本から毛先にかけてゆるくカールしているのが判る。綺麗に弧を描いたまま揺れる毛先はパーマではなく癖毛なのかも知れないと思い、見ている内につい触れてみたくなった。
頬杖を解いて手を伸ばし、顔の横でくるんと丸くなっている毛先を突付いて指を通してみる。ふわっとした見た目に反して意外とコシのある毛束の中には陽の光を反射してキラリと光る物があり、『多少若く見えても髪は年相応なのだ』と、本人に言ったら文句を言われてしまいそうな事を考えた。
「……なによ」
と、苦笑気味に目を開けた章弘がこちらを見てドキリとする。咄嗟に手を引っ込めて「いえ」と応えながら、とろりと開いた大きな目が二重ではなかった事にも今更気が付いた。
仰向けの体勢からこちらに転がった彼が、ご丁寧に目の前にまで距離を詰めて来る。急に迫った人の気配に圧迫感を感じたのはほんの一瞬だけで、眠気に蕩けた目で茶化すように「ハイ、思う存分撫でて頂戴」と言った声を聞いたらどうでも良くなって、同じ様に苦笑して返した。
言われるままに手を伸ばし、日に当たって赤茶けて見える髪を堂々と指に絡める。そうしてどうする訳でもなくただ髪を梳いている内に章弘は再び目を閉じ、ゆっくりとした呼吸を繰り返す。すぐ隣から伝わる体温と呼気を受けて、一尚はこれまでになく落ち着いた心地でいる自身に気が付いた。
普段は煩い癖に、じっとしてると彫刻みたいだ。
髪を梳いていた手を止めてふと眉根部分の出っ張りに指で触れ、そこから鼻骨に沿って筋の通った鼻をなぞってそんな風に思う。鼻先から唇、下顎骨、オトガイ孔と凹凸を確かめるように触れている一尚に目を開けて「くすぐったいんだけど」と笑った章弘は、ただでさえ近かった体を更にこちらに向けて手を伸ばし、一尚が彼にしたように顔の輪郭をなぞって見せた。
彼の手や指が動いて何処かに触れる度にソワ、と頭の後ろの毛が逆立つような感覚があったが、それが嫌かと言われるとそうでもない。そうやって自分の体で起きている反応を冷静に受け止めている一尚の様子を見ながら、彼も少しずつ触れる面積を増やし、体と体の隙間を埋めて行く。
「今日はやけに触らせてくれるじゃない」
そう言った彼の指が唇に触れ、眼前に迫った彼の顔にやはりソワリとする。それに何も答えられずにただ視線だけを交差させている内に彼の手が頭の後ろに回り、ただでさえ過敏になっている皮膚を撫でられて全身が総毛立つようだった。
慣れない感覚で思わず息を吐いた時を狙ったように、すぐ近くにあった柔らかい物がとうとう唇に触れる。湿った感触のそれに唇の粘膜が軽く食まれ、すぐに解放されたそこに自分の物とは違う熱が残る。軽く痺れるようなその感覚に浸る暇もなく、再び触れた粘膜がチュッと音を立てて下唇を吸うので、間近に聞いた音で体がピクリと揺れた。
「怖い?」
大袈裟に体を揺らした一尚の頭を撫で、すぐに唇を離した章弘が言う。それに「いえ」と答えた一尚を気遣うように、離れようとする背に腕を伸ばして引き止める。一尚がそうしたのをどこかホッとした様子で見ている章弘のそこに、今度はこちらから唇を押し当てに行った。
「ん。上手」
重ねた唇に軽く吸い付いた一尚を章弘がそう言って撫でる。それに反論するよりも早く唇を塞がれ、繰り返し押し当てられる熱で頭がクラクラした。
「鼻で息するのよ」と言った彼に再び頭を撫でられ、そういえば呼吸を忘れていたと思う。思い出したように上下し始めた背中を彼に撫でられ、真似して彼の体や頭に手を這わせながら、角度を変えて少しずつ深くなっていく口付けに応えた。
「ぁん」
不意に章弘の体が跳ね、口付けを中断してそんな声を上げた。その声を発した唇をサッと押さえ、気まずそうに起き上がって体を離した彼を見て、それまでの余裕ぶった態度とは異なる様子を疑問に思う。一体何が彼にそんな反応をさせたのかと、自分が直前に触れていた場所を考え、すぐに原因に考え至ってこちらも起き上がり、背中を向けた彼を抱き締めるような形で再びそこへ手を伸ばした。
「ちょっとダメ」と身を捩る章弘の体に触れ、服の摩擦を利用して隙間に利き手を捩じ込ませる。そうして彼が背けた場所にある突起に触れてみると、彼の体は判りやすく跳ねて鼻に掛かった嬌声を漏らした。
「ぁっ、っ、っ、ダメッ……てば……」
「何がダメなんです?」
「ダメッ……スイッチ入っちゃ……っァ、んむっ」
胸元で突起を弄ぶ指は止めないまま、後側から顎を掴んで唇同士を押し当てて粘膜を吸い合う。口ではダメと言いながら素直にこちらの唇に吸い付いて応じた彼は、一尚が動かす指の動きに合わせて体をくねらせ、低く甘い声を漏らす唇から濡れた舌を伸ばし、挑発するように一尚の唇をなぞって離れた。
「もう……ダメって言ったのに。これ、どうしてくれるの」
胸元にあった一尚の手を取った章弘が低く言い、黒いスウェットパンツの中にその手を導いて行く。指先に触れた熱いそれの感触で、ゾクリと背中の奥が疼いたのが判った。
耳の根本がカッと熱くなり、全身の血液が噴き出すような感覚に捉われる。心臓がやけに早く鼓動を打ち始め、胸の中心だけでなく体中がドクドクと脈打つようである。鼓動が早く激しくなったせいか、呼吸も少し早く浅くなっているのが判る。自分が今目の前にいる男の一挙一動に興奮しているのだと思うと、一層体が熱く感じられた。
そして恐らく、興奮しているのは章弘も同じ筈である。
本来触れる事がない筈の場所で指を動かしてそれの形をなぞると、触れた場所は更に熱くなって指を押し返そうとして来る。自分でしている時のように手を伸ばして掌で包むようにそれに触れた途端、仰け反って息を吐いた章弘も一尚の体に手を伸ばし、器用にボトムの前を寛げた指が股間に入り込んで来た。
「……っ、あ」
「ぁん、すてき……」
「章弘さ、ちょっと待っ」
「カズちゃん、ベッドに行きましょう? もっとイイコトしてあげる……」
「あ……、」
勃ち上がったそこをねっとりと指や掌で包まれ、目が眩みそうな程の刺激が背中を這い上がって腰が抜けそうになる。たったひと撫でされただけでこれなのに、この上更に触れられたらどうなってしまうのかという不安と、それ以上に大きい期待や好奇心で頭の中はごちゃごちゃだった。
半ば朦朧とした状態で引かれるままに床から立ち、寝室に向かう章弘に付いて廊下を移動する。開いたドアから寝室に入ってベッドへ腰を下ろすと、タオルを持って「ちょっと準備して来るわね」と言った章弘が一尚に軽くキスをして寝室を出て行き、浴室の方からシャワーの音が聞こえ始めた。




