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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
SS集
52/60

葭始生・2

 全く、人の気も知らないで。


 章弘のマンションからの帰り道、運悪く長い赤信号に捕まった一尚は何に対してか判らない溜息を吐き、まだ忙しなく鼓動を打ち続ける心臓の辺りに手を触れ、宥めるようにさすって深く息を吐いた。


『こういう欲求不満』


 見慣れたリビングでそう言った章弘の指が、やけに生々しく出し入れされる様を思い出してしまい、折角静まりかけていた熱が再燃しそうになる。たったあれだけのジョークで何を燻っているのかと、自身の反応に呆れ返りながら行き交う車や歩行者の波を見た。


 いつもならば冷静に叩き落とせる筈のジョークに過剰に反応してしまうのは、先週彼の家で遭遇してしまった出来事がきっかけだ。




 あれは章弘の新しい職場が休業を表明する前の話。

 あの日も一尚は飽きもせずに章弘の元を訪れてインターホンを鳴らしたが、家主からの反応はなく、目の前のオートロックのドアも閉じたままだった。家を出る時にメッセージを送った筈だとスマホを出して見ると、そのメッセージが読まれた形跡はない。仕事で疲れて寝ているか、風呂に入って動画でも見ているのだろうと思って預かっている鍵を出し、エントランスの機械にかざしてオートロックを解除した。


 いくら合鍵を預かっている仲とはいえ、流石に人の家に無断で上がり込める程図太い神経はしていない。家族やパートナーであればそういう距離感でも問題無さそうなものだが、章弘とは別にそういう関係ではない。友人よりはやや近く、家族というよりは少し距離がある、でも互いに親しく、それなりの信頼を置いている、そういう何だか……微妙な間柄だ。

 合鍵を預かる程親しいといっても、そんな微妙な関係だからこそ尽くすべき礼儀という物もある訳で。今日はどうやらその一環のやり取りが上手く行かなかったようだと、そう思いながらエレベーターのボタンを押して開いたドアの中に入り、目的の階を指定して階層の数字が増えていく様を眺めた。

 章弘の部屋がある階に着くとチン、ともポン、とも取れる音が鳴り、エレベーターのドアが開いて冷たい空気が流れ込んで来る。日中暖かくなったといっても朝晩はやはりまだ寒さが残っており、外気から身を守るように上着の前をキツく押さえて外へ出た。


 本当ならエントランスと玄関前のインターホンをそれぞれ鳴らすのが、一尚が来た時の合図なのだが、仮に彼が疲れて眠っていたとしたら、その音で起こしてしまうのも気が引けた。


 勝手に開けて入った事は後で謝れば良いか。そもそも鍵は預かってる訳だし。


 などと言い訳がましい事を考えて鍵をシリンダーに挿してドア開け、薄暗い玄関の中へ静かに身を滑り込ませて靴を脱ぐ。そうして音を立てないように慎重に寝室のドアを開けるが、予想に反して章弘の姿は無かった。


 ……という事は、風呂にでもいるのか。


 と考えて洗面所の方を見ると、締まったドアの隙間から僅かに明かりが漏れているのが判る。そちらに近付いて洗面所のドアを開けると、続く浴室の中からはシャワーの音が響いていた。

 成程、これではインターホンの音など聞こえないに違いないと思い、ドアを閉めてリビングに向かおうと体の向きを変える。すると浴室の中から荒い息遣いが聞こえて来て、直後にガタンと小さくない物音がした。

 まさか、倒れた? と嫌な想像に駆られた一尚が浴室を振り返ると、中からはまだ苦しそうな呼吸音がする。ひとまず無事なようだがどうにかしなければと、持っている荷物を廊下に放り出して浴室の中へ入り込む心構えをした時だった。


『ア、ァ……ッ、……これ、すご……っ』


 絞り出すように甲高い声が浴室の中から漏れ聞こえ、そのすぐ後で再びガタンと何かの倒れるような音がする。鈍く響く大きな音を聞いてビクリと一尚の体が跳ね、前に踏み出していた足から力が抜ける。目の前の状況に頭が追い付かず、呆然と立ち尽くしている間にもまた荒い息遣いと今聞いたような声が響く。聞いた事も無いような声音は確かに章弘の声で、いつもとは違って艶めかしい響きを帯びてただ『いい』とか『いく』とか、そういう類の言葉を発し続けるのだ。

 それがどういう意味であるのか、判らない程初ではない。


 流石にこれは聞いたらまずい。


 少ない知識をかき集めて浴室の中で起きている事を必死で探り当て、一尚は静かに脱衣所から立ち去ってドアを閉める。そうして床に振り撒いた荷物を元のように手に持ち直し、来た時と同じ位静かに玄関を出て鍵を締め、急いでその場を後にした。

 さっきエンジンを切ったばかりの車に乗り込んでようやく、自分の体が思った以上に緊張していた事が判る。ドクドクと早鐘を打つ胸の中央を押さえて深呼吸を繰り返しながら、さっき聞いてしまった声を何度か思い返してしまった。


 耳に残った音声を何とか振り払い、鼓動が落ち着くまでゆっくり呼吸を繰り返す。しばらくしてやっといつもの調子を取り戻したので、家を出る前に送ったメッセージは取り消し、文字を間違えた振りをして別なメッセージを送ってやり過ごした……。




 そういう事があった後で当の章弘からあんな風に生々しい話をされてしまうと、当然ながら意識してしまうし、意識し出したらし出したで、正直言って彼にどう接したら良いかさえ判らなくなる。ただでさえ一尚は自分の中にある感情とか衝動とか、そういうのを読み解いて相手に伝えるのが圧倒的に苦手なのだ。

 多分こういうのも、言えば章弘が色んな手立てを提示してくれるような気はするけれど。『一人で処理しているのを見てしまって、以降勝手に意識してしまっている』だなんて、どうして本人に伝える事が出来ようか。


 あんな人なのに……いや、あんな人だからだろうか。


 おかしな事に一尚は、この所彼に触れてみたくて堪らないのだ。

 女性と付き合っていた頃は自分が誰かに触れる事も触れられる事も嫌で、いつからかそういう関係そのものを敬遠するようになっていた。章弘と親しくなったのはそうやって人を遠巻きにしていた事がきっかけでもあるのだが、互いにぐるぐると燻っていた場所から一歩だけ外へ出てからというもの、もっと彼の近くへ行ってみたくて仕方がない。

 もしやこれは長年人を遠ざけて来た反動なのだろうかと、考えてみてもやはりよく判らなかった。


 章弘の男性らしい、骨張った体躯は勿論、前向きな生き方を近くで眺めているのは好きだった。好きだったが、ほんの少し前までは確かにそういう『好き』ではなかった筈だった。それがいつの間にかこんな風に変化して来ている事に、自分でも驚きを隠せずにいる。


 ふと、ハンドルに伸ばした自分の手が目に入り、自分の手とは丸っきり違う章弘の手の形を思い出す。彼は一尚よりも少し身長が低い割に大きな手をしていて、関節や筋がしっかりと浮き出た長い手指は、存外優しく器用に動くのだ。

 あの手で、落ち込んだ時に背中を優しく叩いてくれた事や、頭を撫でてくれた事を思い出すと同時に、ついさっき目の当たりにしたばかりの卑猥なサインも思い出してしまって『うっ』と眉根を寄せる事になる。


 信号が変わったのを見てアクセルを踏み、周りの交通状況に合わせて車を走らせる。普段ならばまだ会社にいるような時間帯に帰路に着くというのも変な気分で、昼間の暑さが残る車内にいるせいか、体がやけに熱を持っているように思えた。


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