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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
SS集
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葭始生・1

※ちょっとえっちなやつです。

 春。せっかく奮起して就いた仕事は波乱の連続だ。

 新人研修で赴いた本社では何だか判らない扱いを受け、研修を切り上げて戻ってやっと勤務地に来たと思ったら今度は感染症対策のための労働時間の短縮、時差出勤と来て、今週半ばからはとうとう自宅待機である。

 他の社員などはまとまった有休消化が出来る貴重な機会だと話していたが、入社したばかりでそういう物が何もない章弘にとって、現状はなんとも宙ぶらりんで落ち着かない状態だ。総務部のボスからは『休業補償はしますから、賃金の心配は要らないですよ』と言われてはいても、ただ家にいるだけで何も出来ない時間だけが積み上がって行くというのも気持ちの悪い物で。仕事に対する漠然とした不安と不完全燃焼感を胸に抱いたまま、家の中で何をするでもなく過ごす日々が続いた。


 自宅待機の初日は真面目に研修資料やビジネス書を読んで過ごした。二日目には実家に顔を出しに行って来た。三日目はゴミ出しと食料品の買い足しをして、四日目はひたすらネット配信のドキュメンタリーを見ていた。そして五日目の今日は、前日同じ姿勢で動画を見続けたせいで肩や腰が岩盤のように固くなっており、動画サイトの映像を参考に寝起きのストレッチを終えた所だ。そうしてパジャマから部屋着に着替えた所で、今日も一日何をして過ごそうかと考えながらリビングに出て来た。


 普段ならば次の休みの日にはアレをしよう、コレをしようなどと考えて過ごしているのだが、こうしていきなりポンと休みだけが入ってくると存外怠惰な過ごし方になってしまうようである。まして感染症予防を念頭に入れて考えると、普段のように外に出掛けて行くのも憚られ、結局の所家にいるのが一番安全で確実な自衛策で、それを軸に物事を考え出すと、その日にやれる事なんかも大体決まって来てしまう。

 そして毎日毎日自宅や自宅周辺で決まった事をするのにも段々と飽きてきてしまい、次に何をしようかと考える内に無性に人に会いたくなってしまうのだ。


 いや。


 人に会う、というより、人肌が恋しくなる、と言った方が正しいだろうか。要するに暇過ぎて体がエネルギーを持て余し、発散したくなっている状態という事である。勿論こういうご時世なので不特定多数の人間が出入りするような場に出向くなんて事は考えられないし、同じ様なリスクを考えると、下手にマッチングアプリなんかも手を出さない方が良さそうである。

 そうしてこのモヤモヤを発散する色んな方法を考えては消し、考えては消しを繰り返して、消去法で残るのはいつも自分で処理するというお馴染みの結論だが。下手に他人の肌の感触や温度を知ってしまっているだけに、それだけでは物足りないと感じている自身がいるのもまた事実だった。




 体の方がそんな状態だから、身近に人間がいるとついつい頭の隅でそういう事を考えてしまうのも致し方ないといえるだろうか。


 会社帰りにスーツではなくきれいめのジャケパンスタイルで章弘の元を訪れた一尚は、今日も余程暇だったのか皮から餃子を作ると言い出してエプロン姿でキッチンを占拠して作業に当たっている。一心に生地を捏ねている姿は真剣そのもので、多少ずり落ちた眼鏡さえ気にならないらしい。

 自分の父親の会社に経営する側として勤めている彼はどうやら、この状況でも自宅待機とまでは行かなかったようで。今日も数時間だけ出社して何某かの会議や書類を片付け、その足で食材を買って家にも帰らず真っ直ぐここへ来た。外から来た人だからと一応サッとシャワーだけは浴びさせたが、その後はずっとこの調子である。

 もうとっくに餃子の餡の用意を終えた章弘はキッチンのテーブルに頬杖をついて、この頃の欲求不満のそもそものきっかけである彼を眺めていた。


 こんなに甲斐甲斐しく飯炊きに来られた日には、そりゃくっ付きたくもなるわ。


 一尚は平均よりもやや高めの身長とがっしりとした胸板が頼り甲斐のありそうな印象を与えている上に、人目を引く顔立ちと落ち着いた佇まいをしている。その印象以上に世話好きである一尚がこうして章弘の食事を作りに来るのは最早日課のようなもので、彼にとって章弘の世話と料理はストレス発散の手段の一つだ。だから年下の彼から受ける世話を申し訳なく思う必要はなかったのだけれど、問題なのはむしろ彼が放つ『匂い』の方だった。

 一尚が部屋に来ると、彼が身に纏った衣類から漂う洗濯用洗剤や柔軟剤の香りに混じって、自分の物とは異なる熟れた匂いがするのだ。それは加齢臭と呼ぶにはまだ青く、体臭と呼ぶにはあまりに淡い匂いであったが、嗅いでいると落ち着かない気分になると言うか、妙にそわそわして体毛が逆立つような感覚に襲われる。

 きっと仕事が変わった上に慣れない状況で気が立っているせいで、普段気にならない気配にまでそんな風に感じてしまうのだと思い、時期に治まるものだろうと深く考えずに過ごしていた。


 しかし……。


 その大本にあるのが情欲であると気付いた時から、この匂いを嗅ぐとどうしても思考が邪な方へ行って仕方がない。

 何年も前。別な街に勤めていた若かりし頃は、それこそクソビッチ呼ばわりされる程悪名高い尻軽だったし、今だって気持ちのいい事はそれなりに好きだけれど、流石に大切な友人でもある一尚を衝動だけで食ってしまうには抵抗がある。

 それに何より、そもそも彼は人と触れ合うのが嫌いな男であった。女性とのアレコレなんかもそれが嫌で避けている彼が、年上のごつい男を相手にその気になれる筈もない。だから多分この衝動はぶつけるべきではなく、どこかで適当に発散させて今まで通りの立ち位置でやるのが正解なのだ。それは頭では判っているつもりだ。


 そうは言っても彼のようにしっかりした肉体の男性なんかは特にクるものがあって、じっくり粉と水を合わせて捏ねるその手がどんな風に体を這い回るのか、あの真剣な目はどんな温度で体を射抜くのか、ついつい想像してしまって直後に罪悪感を抱くのだった。




「何か……今日はちょっと元気ありませんね」と、食事の後の皿洗いまで終えた一尚がシンクから顔を上げて言った。下準備から調理、食事、後片付けまでを一通り済ませた上に章弘の『最っ高に美味しい』という褒め言葉を貰った彼は満足げな様子で、手に付いた水滴をエプロンの裾で拭いながら戻って来る。

 それに「うーん」と唸って応えた章弘は流しっぱなしのテレビ画面に目をやり、「ちょっと欲求不満なのよ」とラグの上に寝転んで手足を投げ出した。


「欲求不満?」

「そう。エネルギーが有り余って仕方ないの。こういう情勢で不謹慎なんだけど、発散出来ないのがねえ」

「んー、……部屋で筋トレするとかじゃ駄目なんですか。今はエクササイズ動画とかあるし、特別外出しなくても、多少の発散くらいなら出来そうですけれど」

「……あー……私の欲求不満ってそういう欲求不満じゃ無いのよ、お坊ちゃん」


 恐らくフラストレーションか何かを溜め込む方の欲求不満を想定した口振りに振り返り、キョトンとした様子の一尚に苦笑してしまう。じゃあ一体どういう意味で……と言いたそうな彼は、人差し指と親指で輪っかを作って見せる章弘に怪訝そうな目を向けてソファに腰を下ろす。

 体を起こしてその輪っかを彼の前にかざし、反対側の手の人差し指を輪っかに挿し込んで「こういう欲求不満」と出し入れしてやると、彼は黙ってその意味を考え、考え至った行為を想像してか一気に顔を赤くして黙り込んでしまった。


「…………セクハラです……」

「やだ、相変わらずそっち方向は初なのねえ」

「……うるさいです……」

「こう、ローションで解した所に太いのブスぅっとして、グッチャグチャのヌッチャヌチャになりたい訳。判るぅ?」

「……わかりません……」

「あん、気持ちいいのに」

「変な想像させないで下さい……」

「私で想像したの? 勃った?」

「ばっ、」

「ァいたっ」


 バチン、と大きな手が背中を叩き、叩かれた所がジンと痛む。流石に誂い過ぎた事を謝ろうとしたら、一尚はまだ真っ赤な顔のまま明後日の方を見ている。殊の外緊張している様子に驚いて「ゴメン、本気で嫌だった?」と言った章弘から更にサッと目をそらした彼は、「かえります」と力なく言って立ち上がり、身に着けていたエプロンを外した。


 あら、言い過ぎたかしら。


 すごすごと帰って行く一尚の後ろ姿に手を振りながら、ゴメンねと唇だけで言って見送ってみる。当然届いていない音声を彼が気にする筈もなく、章弘の関心は遠ざかって行った人肌の事より、彼が室内に残した匂いの方に移っていくのだった。


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