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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
SS集
50/60

春日和の事・2

 

 章弘が家まで来たのはそれから三時間程経ってからだった。電話を受けた後でインターホンが鳴った時、緊張の為か忍がビクリと肩を震わせたのが見えた。


「こんにちは~」

「こんにちは。どうぞ、そのスリッパ使ってください」

「ありがとう」


 軽快な声と共に入って来た章弘はもう冬のコートではなく、やや薄手のブルゾンを身に纏っている。すっかり気温が高くなった外を歩いて来た彼が「ちょっと桜咲き始めてたわよ」と言ったのを聞き、「今年はまた随分早い開花でしたね」と返しながら、でも花見も自粛ですかねと言って苦笑し合った。


「いらっしゃい後藤さん、お元気そうで」

「お久し振りです、お邪魔しますね奥様。これ、少しですがどうぞ。日持ちしないヤツですみません、可愛かった物で」

「まあ」

「や、後藤さん、その節はどうも」

「どうも社長、こちらこそ。今度は一緒に飲みに行きましょうね」

「是非」


 両親がいるリビングに一度顔を出し、オトナの挨拶をした彼が隅の方で固まっている忍に目を留める。その目線をやけに緊張した様子で受け止めた彼女に構わず、章弘は「よろしく、濱村のお嬢さん」と言って勝ち気に笑って見せた。


「カズちゃんが靡かなくて残念だったわね。私のカズちゃんは好みに煩いの、悔しかったらもっと良いオンナになって出直してらっしゃい」

「なっ……!」

「だから誰が、いつ章弘さんのになったんですか」

「やだ、貴方ウチに毎朝飯炊きに来ておいて皆のカズちゃんのつもりなのっ?」

「うっそカズくん、最近朝活だなんて言ってご飯も食べないで出ると思ったら、この人の所で食べてたのっ? ちょっとおばさま、良いんですかこれっ!」

「最近やけにエコバッグ持ってるなあとは思ったけど、後藤さんちに行ってたのねえ」

「えっ! それだけ!?」

「ま、まあ……一尚も良い年だし、自分の稼ぎで収まる内容なら俺達も特には……」

「おじさままで!」


 呆気に取られた忍を前に、やはり勝ち気な章弘が見せびらかすように腕を組んで来るが、まとわり付く腕はいつも通り振り払ってさっさと距離を取る。それに「もう!」といつも通りの反応を見せた章弘がそれ以上何かを言う事はなく、いつも通りのやり取りに笑っている両親に苦笑しながら、目的の部屋がある階段の方へ足を向けた。


「じゃ、あと上にいるから。章弘さん、部屋教えるのでそっちに」

「あ、ありがとね」

「待ってよ、ふ、二人っきりで行くの!?」

「何よ変な子ねえ、どう見たって二人でしょう。私に何か憑いてるって言いたいの? おっかない事言うわねえ」

「そういう意味じゃないわよ!」

「やだぁじゃどういう意味で言ってるのよ、スケベな事考えてるんじゃないでしょうね」

「スケ……、っ何て事言うの!」

「んまぁ二人っきりって言うとすぐこれだから若い子はイヤぁよ。何考えたのよ言ってご覧なさい」

「な、なんでもないわよっ」

「章弘さん……あんまり誂わないでやってください。行きますよ」

「はいはい。じゃ、お土産お嬢ちゃんも好きそうな生菓子だから、お茶しながらたっぷり楽しんでね」

「ゆっくりして行ってね」

「ありがとうございます~」


 丸っきり馬が合わない訳では無さそうだが、一緒にいさせるとそれなりに姦しい二人を引き離してさっさと階段を上がる。それから末弟の部屋に章弘を招き入れ、「許可は取ってあるので、適当に見てて下さい」と言ってコーヒーを淹れに階下に戻った。




----------




「…………」

「…………」


 本棚から出した本を思い思いの体勢で読み耽るだけで、ひたすら時間だけが過ぎて行く。この部屋に入った時に『飲みながらどうぞ』と渡されたカップの中身はとっくに冷めてしまっているが、目の前に活字が並んでいるとそんな事さえ全く気にならない。互いの家を行き来すると言っても、いつも特に何をする訳でもなくこの通りの有様だ。この、ただ黙って文字を追うだけの時間は堪らなく貴重である。


 時々ページを捲る音だけが室内に響き、読み終わった本は本棚に戻して別な物を探して再び読み進める。そうしている内に階段を上がってくる足音があった事に気が付き、顔を上げた所でドアが控えめにノックされた。

 室内に顔を覗かせたのは濱村のお嬢さんで、「あら、どうしたの」と言った章弘を相手に、可愛らしいゆったりとした部屋着姿の彼女は、室内の様子をチラリと見ておずおずと「お昼の支度が出来たので、呼びに来ました」と口にした。

「もうそんな時間か」と、読んでいた本から顔を上げた一尚が呟くのを聞いて腕時計を確認すると、確かにもう昼食を摂るような時間に差し掛かっていた。


「ほんと、全然時計見てなかったわ。ごめんなさいね、わざわざ用意していただいたの」

「いえ、そんな。リビングにどうぞ」

「ありがとう」


 奥のベッドに寝そべって活字の世界に没頭していた一尚が立ち上がり、読んでいた本に栞を挟んでベッドボードに置く。それに倣って手に持っていた本をデスクの棚に戻した章弘が戸口に立つと、さっきよりもやや強張った面持ちの彼女が「あの」と緊張した声を出した。


「あの…………。お土産にいただいたお菓子、美味しかったです」


 多分だけれど、彼女が章弘に本当に言いたかった言葉は、もっと違う物なのではないかと感じられる。何となくだが、今目の前にいる彼女は、ちょっと前に噂で聞いていた人物像とは少し違うような気がしたのだ。

 まあ。だからって別にどうという事も無い話だ。例え彼女がどんな態度でいようと、章弘の生活には何一つ関わりが無い。一尚辺りは何か事情を掴んでいそうであるが、こちらに話が来ないという事はやはり、そういう事なのだ。


 言葉の裏で隠れているであろう感情には章弘も敢えて突っ込むような事はせず、「でしょ? 桜のセット、春だけの限定品なのよ」と返してポケットに突っ込んだままになっていたリーフレットを出して彼女に手渡した。




 昼食の後も危うく本を読み耽りそうになるのをどうにか耐え、夕食の用意をされる前にと何冊か必要と思しき物だけを借りて早々に石井家を後にする。その際、当然のように章弘を送る車を出した一尚は、「忍を突き放せなかった理由、何となく判りました」と言って進行方向の道路を見ていた。


「理由?」

「結婚の話、自分が何で受けたかっていう」

「……ああ。一応聞いとこうかしら。どうしてだったの?」

「最初は離れて行く章弘さんに対する当て付けのような物と思ってましたけど……、多分ちょっと気性は激しくても、忍には章弘さんと似ている部分があったから、余計に断れなかったんだなって、今日思いました」

「……つまり貴方、よっぽど私と離れたくなかったって事ね」

「そのようです」


 そういう事をクスクスと笑いながら言えるようになった辺り、彼もあの一件で随分図太くなってしまったようだ。狼狽えて言い淀む姿もそれなりに可愛らしかったというのに、こうなってしまった以上、あの顔はしばらくお預けという事になりそうである。


「あら」


 車は順調に章弘のマンションに向かう途中、当然立ち寄る予定であったかのようにスーパーの駐車場に入って行く。何か買う物でもあったろうかと思って一尚を見ると、エンジンを止めた彼はさっさと車外に出てポケットからエコバッグを出して広げていた。


「何か買って行くの? あ、お夕食のお使い?」

「お使いっていうか、買い出しですね。晩飯何が良いですか? あと、酒と肴と……」

「ってちょっと! コレもしかしてウチで夕食食べて飲んで一泊する流れなのっ?」

「はい」

「はいじゃないわよ。ダメとは言わないからせめて事前相談位しなさいよ。私はちゃんと相談したじゃないの」

「じゃ、章弘さん。これから章弘さんちに夕食作りに行ってお酒飲んでも良いでしょうか」

「……ちなみにコレ、ダメって言ったらどうなるの」

「買い出しの後でウチに強制連行です。皆で飲みます」

「貴方って結構強引よね」

「はい」

「だから、はいじゃないわよ!」


 涼しい顔で駐車場から店内に向かう彼に半ば噛み付くようにそう言いながら、カゴを持って入り口の自動ドアを潜る。それから「で、晩飯何にしましょうか」と掲示してあるチラシを眺めながら言った一尚に、「お肉のタイムセールでーす!」という声を聞いた章弘は「すき焼きかしらね」と笑って言った。


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