ほころんだ頃
『ここ、俺の気に入ってる場所。雰囲気良いからゆっくり出来て良いんだ。バーって言っても店員さんは気さくだから、そんなに構えなくて良いと思うよ』
『……そうなのか……』
一尚が店に来るようになったのは四年前の春だった。初めは先輩風を吹かせた同期に連れられて来ていた彼は、仕事盛りの美丈夫の癖に吊るしのスーツに着られたような風体をしており、素材は良いのに少しアンバランスな印象を与えていた。
カウンター席でその同期と話していたのは仕事でのアレソレといった内容で、それ以来偶にその同期と一緒に飲みに来るようになった彼の事は、章弘に限らず店の誰もが気に留めていた。
見てくれが多少アレでも、顔貌が整っていればまぁ様になる上に、一尚自身も真面目さや誠実さが滲み出るような人である。強い酒ばかり好む危なっかしい飲み方に配慮してチェイサーを差し入れたり、二日酔いに効果がありそうな肴を提供したりと、誠実な常連を相手に時々目をかけていた。
そういう彼と今のような関係に落ち着いたのはその年の師走、肌が凍りそうに寒い日だったと記憶している。
その日は昔勤めていた店の馴染み客との飲み会だった。開始から一時間もしない内におかしな酔い方をしてしまい、身の危険を感じて何とか通路に這い出したその時に、偶然その場に居合わせたのが一尚だった。
会社の部署の忘年会で同じ居酒屋にいた彼は、二次会に向かう流れの最中にひどい酔っ払いを見て、思わずと言った形で声を掛けてきた。『大丈夫ですか』と事務的に声を掛けて来た彼を見て、章弘が驚いたのは言うまでもない。向こうもまさかそんな風に酔っているのが章弘だとは思わなかったようで、互いに見覚えのある顔を前にしばらく言葉が出なかった。
『……、俺、送って行きます。車で来てますから』
『ああいえ、悪いわ。ちょっと休んだら通りに出てタクシー捕まえるから……』
『そんな状態で一人で帰せる訳ないじゃありませんか。呂律回ってないですよ』
フワフワと危なっかしい感覚が続く足を何とか踏ん張って、壁伝いに外へ出ようとした章弘に、彼はピシャリとそう言って肩を貸し、レジの近くに置かれたベンチに章弘を座らせて店員に声を掛けた。ほんの少しの間にも関わらず、触れられた箇所がジクジクと熱を帯び、酒による酩酊状態とは異なる事を示している。楽しくもないのに笑いさえこみ上げてきそうな心境でソファにもたれ掛かり、近くに立った一尚を見た。
一尚は店員に章弘の荷物を取ってくるよう依頼した後、周囲の同僚にも章弘を送っていく旨を伝え、丁寧に二次会への不参加を侘びている。それを聞いて心底残念そうな顔をした女達に内心で申し訳なく思ったり、思わなかったりしながら座っていると、章弘の鞄とコップを持った店員が戻ってきて、鞄と一緒に『どうぞ』と言って冷たい水を差し出してくれた。そのコップに反射する店内の明かりがイヤにチカチカと瞬いているのを見て、これはどうやらクスリを使われたようだと他人事のように思った。
『念の為、中身を確認していただけますか』と、水を飲んだ章弘に鞄を指して店員が言う。言われるままに鞄の中に手を突っ込んで中身を探ると、財布とスマホが入っていない事に気が付いた。
『ふふっ、財布とスマホが入ってないわ』
『……俺、もう一回行って取ってきます』
何一つ笑える状況ではないのに、笑い混じりの章弘の返答を聞いて、サッと顔色を変えた店員が立ち上がった。しかし『あ、いえ』とそれを遮った一尚がコートのポケットからスマホを出し、『もう大丈夫です。俺が取りに行きますので』と礼を言って章弘に視線を合わせた。
『番号教えて下さい。ぶん取って来ます』
ぶん取るだなんて、綺麗な顔をして随分物騒な事を言っている。それがどうにも可笑しく思えて、自分の電話番号を伝えながら壁に寄り掛かってクツクツ笑っていた。
すぐに章弘のスマホに電話を掛け始めた彼は、店員に章弘達が飲んでいた場所を聞きながら奥へ入って行き、少ししたら片手に章弘の財布とスマホを持って戻って来た。ズイとそれらを章弘に押し付けた彼が、『中身、確認して下さい』と真剣な表情で言うのも可笑しくて、ヘラヘラと礼を言って財布を開いた。
元々素性が判りそうな身分証明書や会員証の類は置いてきてあった為、紙幣や硬貨、無記名のスタンプカード類だけをチェックして、何も無くなっている物が無いのを確認する。『大丈夫そうだわ』と答えた章弘は、それらを鞄に仕舞ってから一尚に顔を向け、やはり笑い混じりに尋ねた。
『ねえこれ、どんな人が持ってた?』
『ええと……、髭面の人です。ガッチリして黒いシャツで、白髪交じりの』
ああ、と特徴を聞いて納得した。その人は今日の飲み会に参加していた中でも一際目立っていた人で、目付きや醸し出す雰囲気がとても堅気には思えなかった。章弘を誘い出した馴染み客もその人に気を使っている様子だったから、身元が割れそうな物を置いてきて正解だったと思った。
いくら昔馴染みからの誘いといっても、クラブやバー等での飲み会であれば章弘もノコノコ誘い出される事は無かったのだが、今回は場所が普通の居酒屋であった事で少々油断していたのだ。こんなに人が多い場所で潰される事は無いだろうと、そう思っていたのが甘かった。
『ふふっ、貴方、初対面でよくその人に突っ掛かってったわね』
『? 体付きは違っても、相手は唯の人間じゃありませんか』
『あっはは、そう、そうよね。唯の人間だものね』
至極真っ当な返答が返って来た事で、そもそも彼が真っ当な世界の住人である事を思い出す。得体の知れない酔っぱらいにさえ声を掛けて親切にしてくれる彼は、やはり章弘とは相容れない存在のようだ。
『じゃあ、ご親切にありがとう』
一尚と、その隣で心配そうに成り行きを見守っていた店員にそう言って何とか立ち上がり、店を出てタクシーを探しに歩く。
固い地面の上を歩いている筈なのに浮いているような高揚感があり、寒さで腕や肩を摩ると奇妙な心地よさがある。自分で身体を触ってこれなのだ。完全に潰されて乱交パーティにでもシケ込まれたら一溜まりもなかったろう。
借金か、弱みか、その他に何かデカい貸しが出来たか。いずれかの理由であの昔馴染みが髭の男に章弘を差し出す算段を付けて誘い出したに違いなかった。オカマバー時代も似たような事情で誰かに売られ、クスリ漬けにされて忽然と姿を消した同僚がいたような覚えがある。女性程頻繁では無いかも知れないが、”こっち側”の人間がそういう理由で足元をすくわれる事も無い訳ではない。
そういう嗅覚の働く内は、いつも既の所で逃げ出せているけれど。今回の一件で何かあってからでは遅いし、またスマホも電話番号も変えなければいけないかしらと、フワフワとして心地良くなっている頭の中で考えて歩いた。
『待って下さい、ヒロさん』
と、追い掛けて来た一尚が無造作に章弘の手を掴んで引き止める。その感触にビクリとした章弘に『すみません』と侘びながらも、彼は掴んだ手を離す事なく引っ張って『兎に角送ります。駐車場、こっちですから』と言ってずんずんと歩いて行った。酩酊状態の人間を連れて歩くには些か乱暴だ。しかし、掴まれたままの手から伝わる温度がいつになく心地よく、章弘も敢えて振り払う事はしなかった。
『家、どっちですか』
『うーん、どっちかっていうと、あっち?』
『あっちって……』
『だって、あっちなのよ。ふふふっ』
『あっ、ちょっと!』
自身の手を力強く掴んでいる手をパッと持ち直し、腕を組んで肩に頬を寄せる。すると彼は少し怒ったような声を出し、グイっと腕を引き抜いて再び章弘の手を掴んだ。まあ、ヘテロの男性なら当然の反応かと思い、『ごめん、気持ち悪かったわね』と言って繋いだ手をブンブンと振って付いて行く。章弘のその言葉にバツが悪そうな表情を返した彼は、『いえ、そうではなく』とだけ言って先を歩いて行った。
『……人に身体触られるの、苦手なんです』
『あらぁ? じゃ好きな人とゼロイチ出来ないわね』
『ゼロイチ?』
『ゼロが穴、イチが棒。抱き合って棒と穴でするのよ~ゼロイチ』
怪訝そうな顔で章弘の言葉の意図を考えた彼は、一瞬で固まって顔を真赤にした。
『………………!!』
『いやぁだ、今何考えたのよ助平~、このムッツリぃ』
『どっちがですか!』
瞬時に返って来た切り返しはきつい印象を与えそうだが、真赤な顔で凄まれたって何も怖くはない。こちらは既にクスリがキマっているような状態なのでなおさらである。
『こんな公道で、そんな……信じられない』とブツブツ言いながら歩く彼の背中にまた笑いを誘われ、着いた駐車場では早々に車に押し込まれた。
『で、本当にどっちですか』と、運転席でシートベルトをした彼に尋ねられ、果たして本当の住所を伝えて大丈夫だろうかと一瞬考えてしまう。それを察してか、彼は『言いたくないなら俺の実家に連行します』と言って車を出し、その通りに彼の実家に連行されて彼の両親からも至れり尽くせりのもてなしを受けた。
更にその翌朝。
使われたクスリの反動でだるさや疲れを感じて昼間まで居座ってしまったのだが、上げ膳据え膳で鱈腹ご馳走になった上に、ご丁寧にお土産まで持たされた状態で家まで送り届けられた。
『昨日の夜酷そうだったので、二日酔いに良い物を適当に見繕ってきました。ウチの母も結構酒豪なので、常備してる分があるんです』
『そ、そう?』
この男、見かけによらず面倒見が良過ぎる。
いくら少し顔を知った人だとは言え、偶々居合わせただけの酔っ払いにそこまでする義理があるだろうか。
面食らいながら持たされたエコバッグを眺め、流石に何か礼をしなければと疲れた頭で思案して目の前の彼を見た。章弘の身柄を無事送還したし、渡す物も渡したしでそそくさと帰ろうとする一尚を、慌てて招き入れてコーヒーを淹れる。淹れたての熱いコーヒーをリビングで行儀よく飲んでいるその姿を見ていて、襟の詰まったローゲージニットがやけに野暮ったいと思った。
『あ』
と、急に声を出した章弘に一尚が顔を上げた。考えてみれば、彼の服はグレーだのベージュだのとはっきりしない色合いの物が多い。せめて身体に合ったサイズでメリハリを付けて着れば違って見えると思うのだが、ダボついた身体に沿わないラインが絶妙なジジ臭さを発揮している。
『ねえ。お礼と言っちゃ何なんだけど、服持って行かない?』
『服ですか』
『そ、服。仕事柄貰い物が多かったんだけど、似合わないのもあって。昨日今日のお礼に差し上げるわ』
『いえ、結構です。そんなつもりで送った訳では』
『良いのよ、アタシの気が済まないんだもの。ちょっと来てくれる、色とかサイズ、見てみるから』
廊下へ向かいながら彼を手招いて、殆ど物置状態になっている部屋へ向かう。滅多に開けないカーテンを開けて光を入れ、壁の一面を支配しているハンガーラックのカバーを外し、寝室から姿見を持って来て腕を組んだ。
やって来た一尚は章弘が見ている洋服ではなく、他の三方の壁を占めている本棚に目を奪われているようだ。ジッと本棚を眺めている彼の背格好と掛かっている洋服を見、『そうねえ』と呟いてタグが付いたままになっている衣類を幾つかピックアップする。そうして『コレちょっと当ててみて』と押し付けたモノトーンカラーの服を、怪訝そうな様子の彼が顔から下に押し当て、鏡に向かって何度か瞬いていた。
『どうかしら。貴方ガッシリしてるから、こういうシンプルなデザイン似合うと思うの』
『……こういうの、自分では選んだ事無いです』
『あら勿体ない。良かったら着てみる? だいぶ印象変わるわよ』
『……じゃあ、少しだけ……』
まだちょっと野暮ったかった一尚との関係を深めるに至ったのは、その一連の出来事がきっかけである。
その時の出来事をきっかけに彼は時々一人でバーに来るようになり、人から見られる時の印象について章弘に相談するようになったのだ。