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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
SS集
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春日和の事・1

 寝ながら息苦しさに包まれていたような気がする。

 気付けばまだ目覚ましのアラームが鳴る前で、カーテンの隙間からは朝日が差し込んでいるのが見える。上体を起こして見ると先日薄めの物にしたばかりの掛け布団が半分程ベッドから落ちており、寝相もそこそこ悪かったらしいと思った。


 ……今週は気が抜けなかったから。


 かと言っていつも気を抜いているっていう訳でもないんだが。通常業務に増してやらなければならない事ばかり積み上がっていき、やってもやっても終わりが見えないのがこの時期の仕事である。

 この三~四年でシステム化を推し進めた結果、以前と違って日付が変わる頃まで残業するような事はなくなった。それでも年明けから低迷している業績や、見通しの立たない次年度の事業計画、予算編成には多少頭を捻らねばならない情勢である。父の会社は扱っている商品が商品なだけに、こんな不安定な世の中でも何とか経営を保てている状況ではあるけれど。この調子で行ったら四月からはどうなるものかと、考えれば考える程小さくはない不安が付き纏うのだ。


 はぁ……。頭が疲れる。


 そのまま二度寝するような気分にはなれず、起き上がって部屋着に着替え、簡単に身支度を済ませて階下へ下りる。すると早い時間にも関わらず何故かリビングに明かりが点いているのが見え、不思議に思って先にそちらに入って行くと、中では忍が何かのテキストを睨んで腕組みしている所だった。


「……何してる」

「ああカズくん。おはよう」

「おはよう」


 一尚に気付いた忍がパッと顔を上げ、こちらを見てテーブルの上のテキストを持ち上げて表紙を見せる。隅に『調理師講座』と書かれたそれの表紙には食品学というタイトルが印字されており、目の前にいる忍も忍なりに前に進み始めた事を意味しているようである。

 そのテキストを見て「調理師になるのか」と一尚が聞くと、彼女は照れ臭そうに頷いて手にしていたテキストを下げた。


「実際そういうお仕事に就くかどうかは判らないけど、ずっとおばさまに習ってたお料理は楽しくて。お料理で生きて行くってどんな感じなのかなって、ちょっと思ったからお勉強しようと思って」

「……ちょっと思った位で通信講座なんて受けるのか」

「だって思い立った時が一番吸収出来るんだもん。興味がある内に詰め込めるだけ詰め込んでおかなきゃ」


 真面目な顔をして文字を目で追う彼女を見て、『へえ』と意外な一面に驚いた。確かに大学はそれなりの所を出ていたと思ったが、彼女がこうして座ってテキストに向き合っている場面など想像も付かなかったのだ。性格はアレだが、そこそこ器用な彼女なので、勉強だの課題だのはそれこそ、及第点レベルの物だろうと勝手に思っていたのだけれど。こういう姿を見ると『案外優秀だったのかも知れない』などと思って感心してしまうのだった。

 目の前のそんな彼女を見ていて「あ」と、疑問に思う事があった。一尚が発した声に目を上げた忍に対し、「その資金はどうした。そういえば、こっちに来た時の交通費とかはどうしていたんだ」と尋ねると、彼女も「ああ」と大した事じゃないような反応を返した。


「交通費は電子マネーで多少持ってたからそれを使ったの。これの教材費は持ち株売った分から」

「へえ、株なんて持ってたのか」

「えっ、カズくん持ってないのっ?」

「俺はウチのグループのを多少持ってる位だ」

「なあんだ、案外マイペースなのね。私はあちこちチェックして、気になるトコのは買ってるの。スマホはこの間返して貰ったし、それで多少出来る事が増えたから、良い機会だしお勉強しようと思って。おじさまにも出来れば、お世話になってるお礼がしたかったんだけど」

「そういうの、親父は受け取らなそうだな」

「その通り、あっさり断られちゃった。しょうがないから石井グループの株ちょっと買ったわ、他にやれる事が無いんだもの」


 この前の週末、やはり誰が相手でも結婚は出来ないと家族に話し、濱村の家の人達にも忍を連れてすぐにその旨を伝えに行った。その件は忍も納得した上での話であったが、相変わらず『それも致し方なし』という反応の先方にはやはり、彼女も言葉を返す事が出来なかったようで。彼女の祖父が『いつまでもご迷惑をお掛けする訳に行かないから』と引き取ろうとするのを、逆に一尚の両親が引き留めて今の形に落ち着いた。

 その時に取り上げられていた貴重品類を返して貰った忍は、多少使える現金が増えて自由が利くようになり、こうして時々自分の好きな事をするようになったのだ。以前ほど無茶苦茶な事はしなくなった彼女だが、やはりその行動力には目を瞠るばかりである。


「……お前ウチの株価いくらか知ってるのか。ちょっと買うような金額じゃないと思うんだが」

「忍って呼んで。思ったより高くなかったし、今回ガクッと下がった時に買ったから大した事なかったわ」

「……何だか凄く居た堪れない気分だ」

「あ……、ちょっと言い方が悪かったかしら」

「ま、気にするな」


 そんな事を言った彼女の言葉選びや言い回しがどこか章弘に似ているように感じられ、バツが悪そうにテーブルに向かう姿をついまじまじと見てしまう。当然ながら彼女と彼は丸っきり正反対の外見をしていて、何処も似ている所を見つける事が出来ない。突っ立ったままそうしているのも何なので、「何か淹れるが、お茶でも飲むか」と言いながらキッチンに向かって移動した。


「淹れてくれるの? じゃあカフェオレが良い、ノンシュガーの牛乳多めね」

「俺がいちから淹れる訳ないだろ、インスタントだ」

「……じゃあ、キャラメルマキアートで良いわ」

「脂肪と糖の塊は飲まないんじゃなかったのか」

「今は頭使ってるから、良いの!」


 きっぱりと言い切った忍の声を背に受けながら、電気ケトルに水を淹れてセットする。お湯が沸く前にとマグカップを探している内にポケットに仕舞っていたスマホが聞き慣れた音を立て始め、今が何時か確認するよりも早く手に取ってそのまま応答した。


『もしもしー。おはようカズちゃん、朝からゴメンねえ』

「おはようございます、起きてましたし大丈夫です。どうかしましたか」

『ねえ、カズちゃんビジネス書とか持ってなあい? あったら貸して欲しいんだけど』

「ビジネス書?」


 電話の向こうの声を聞いて記憶を探り、彼の家の書庫にあった本を思い出す。あの家の本棚にも多少のビジネス書は詰まっていた筈で、章弘が何を求めてそんな事を言っているのかを考える。一尚のその思考に気付いた様子の彼は、『カチッとしたのじゃなくて、新社会人とか中堅向けの啓発書が良いんだけど』と言いながらコポコポと何かを注ぐ音を立てていた。


『ホラ、私会社に入るのなんて初めてでしょ。病院とかとは全然勝手が違うから、ここいらで今読んだ方が良い本とかを探して、出来るだけ読んで置きたいと思って』

「成程。そういうのなら多少持ってますよ。あ、多分弟の部屋にもゴッソリ置いて行ったのが残っているかも。ホラ、あの生真面目な方」

『あら本当? 今日借りに行って良いかしら』

「良いですよ」


 話している間にお湯が沸き、向こうの彼と同様にマグカップに注いでスティックコーヒーの粉を溶かす。

 カップの中身をスプーンでかき混ぜながらリビングに視線を戻し、「ちょっと煩いのもいますけど」と言ったのを聞いた彼女に「ちょっと、煩いのって何、聞こえてるんですけどっ」と喚かれはしたが、それを電話越しに聞いた章弘からはフン、と鼻で笑われてしまった。


『小娘の一人や二人何て事ないわ。じゃあ、近くまで言ったら連絡する』

「俺はもう起きてますし、何なら迎えに行きましょうか」

『流石に悪いわよ。ゆっくり行くから良いわ、ありがとうね。じゃ、また後で』

「はい、気を付けて」


 電話を終えてカップを持ってリビングに向かうと、面白くなさそうに口を尖らせた忍にキッと鋭い一瞥を貰う事になる。そんなモノには構わずテーブルにカップを置いて新聞を取りに玄関に行き、日中とは異なる寒さに身震いした。


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