何でもない日々・2
翌週。
布団の中でアラームのスヌーズ機能をギリギリの時間まで使い切るつもりで気持ち良く微睡んでいると、エントランスからのインターホンが鳴り、早すぎる訪問客に眉を顰めて居留守を決め込む事にする。すると今度はしばらく後で玄関先のインターホンが鳴ったので、流石におかしいと感じて閉じていた目を開けた。
「はあ……?」
「章弘さん、入りますよ~」
「ええええ?」
思わず枕から頭を上げてスマホの時計を見るが、いつも起きる時間よりも遥かに早い時間を示している。朝だというのにハキハキとした一尚の声が玄関先で響き、次いで玄関の鍵が回る音が聞こえてくる。それにようやく慌てて起き出してカーテンを開けるより、向こうが寝室のドアを開ける方が早かった。
「おはようございます章弘さん。何です、今頃起きたんですか」
「おはよう……。今起きたのよ、貴方何時だと思ってるの……」
「六時ですね」
とっくに出社する支度を整えた様子の彼は、朝日で眩しい程輝く白いワイシャツの袖を捲りながら、腕時計を確認してそんな風に答える。何故そこで腕捲りをしているんだ……と寝起きで動かない頭を働かせながら「そう六時。まだ出社時間まではずっと早いのよ、私の平和な朝を邪魔しないでくれる?」と抗議するが、彼は微塵も動じる様子はなかった。
「あと四十分は寝られたわ」
「そんなにダラダラ寝てたら朝ご飯食べられないじゃありませんか」
「良いのよぉ、向こうに付いたらテキトーに買って食べるから」
「そんな事だと思いましたよ。何か作りますから、顔洗って来て下さい」
「ええ……、ああでも私、昨日ずっと寝てたから食材の買い出しなんて……」
寝室から出て行く一尚の背中にそう声を掛けたが、廊下へ出た彼はすぐにエコバッグを持ってドアの隙間から顔を出す。そのバッグの中身をゴソゴソとあさり、食パンやらカット野菜やら、そういう物を出して「持って来たので、大丈夫です」と言い、スタスタとキッチンの方へ歩いて行ってしまった。
えっ何あの子。早起きまでして人ん家に朝食作りに来たの……?
その事実に若干引きながらのろのろと着替えを済ませ、言われた通り洗面所へ向かって顔を洗い、髭を剃ったついでに眉毛も整える。そうして歯磨きまでしてガッツリ目を覚ました状態でキッチンに向かうと、わざわざ持参したらしい深緑色のエプロンまで着用して二人分の朝食を作る一尚の姿が目に入った。
「あ、ちょうど良い所に。そっちのプレート取って下さい、卵も焼いちゃいます」
「朝からサラダと卵なんて素敵ね、お泊りの時位しか食べないわ」
「章弘さん、一品ドンと盛って終了ですもんね」
「普段一人だとそんなモンよ。凝る人は凝るけど、私はそんなにマメじゃないもの」
その言葉に「でしょうね」と返した一尚の背を小突き、プレートを渡した所でオーブントースターがチンと音を立てる。その音を聞いた一尚が「ジャム位はあったでしょう、好きなの塗ってて下さい」と言ったのを聞き、簡単に手を洗って冷蔵庫の中にあったジャムの瓶を出す。
「っていうか、肝心な事聞いてないわよ」と言いながら一尚の好きなジャムを出し、バターナイフを片手にトースターの蓋を開けた。
「何でこんな時間に朝ご飯作りに来てるのよ。家で何かあったの?」
「いいえ、家の中では特に何も。今朝のこれも特に何だって事はありませんが……強いて言うなら、朝活です」
「はあっ?」
一尚の言った言葉に思わず振り返ってそう言うと、彼は涼しい顔のまま「朝活」とまた同じ単語を繰り返す。その単語の意味位は知ってるわ! と眉根を寄せた章弘には構わないまま、彼は綺麗に焼けたスクランブルエッグをプレートに乗せてフライパンを置いた。
「俺もどっちかって言うと朝は苦手だったんですけれど……、そうも言ってられない立場ですし、新年度を前に朝活を習慣にしてしまおうかと考えた訳です」
「うん、そこまでは良いわ。問題はそっからよ」
「ええ。だからって、折角朝早く起きても忍に騒がれるとゆっくり出来ないし、カフェに行くようなガラでもないし、どっか行ってから出社するっていうのも抵抗があって」
「ふんふん」
「だから、章弘さんに飯を食わせに来るっていう目的があったら……それでついでに、ここの本も読ませて貰えれば、色々無理なく上手く行くんじゃないかなぁと、そう思いました」
「……そう、なのね」
「それに……」
「それに?」
饒舌だった彼が少しの間言い淀んだ様子があり、捻っていた首を戻して顔を上げる。
「本当言うとまだ、自分の感覚に自信が無いと言うか……。自分がどんな状態にあって、その場で何を必要としているのか、まだすぐには判別が付かない状況でして。だから……」
「……要するに、私は朝食を提供して貰う代わりに、貴方の鏡になれば良い訳ね。今日は疲れてるとか顔色悪いとか、そういう事を思ったままに言えば良いのかしら」
「はい。こればっかりは、章弘さんにお願いするしか無くて」
「何でよ。お父さんだってお母さんだって、あのお嬢様だって家にはいるんでしょう」
「いますけれど、俺が自分のそういう所を隠さず見せられるの、今の所章弘さんだけなんです」
こちらを向いた顔が困ったように笑っているのを見て、あ。と思った。
いくら動き始めたからといって、これまでの生き方がガラリと変わる訳ではない。揺れ動く自身がまた元の状況を望まないとも限らないし、ぐるぐると同じ輪の中で苦しんでいる事に、自分一人では中々気が付かないかも知れない。
やっぱりこの子、スゴイ子だわ。
一尚は前に進む事も跳躍する事も恐れてはいないのだ。そんな事よりその場で留まる事の方が怖いだなんて、章弘にはとてもじゃないけど思えなかった。
「そういう事なら、お互いウィンウィンって事で。時々なら付き合ってあげるわ」
「何言ってるんですか。章弘さんの早起きが習慣づくまでは時々どころか、毎日来ますよ」
「はあっ? 良いじゃないの別に、私は好きで寝坊してるのよ!」
「寝坊して食生活テキトーになって、栄養が偏ったら体壊したりするでしょう。もう五年もしたらアラフィフなんですから、今からちょっとでも健康に気を使って長生きして貰わないと」
「ちょっと、年の事言うんじゃないわよ!」
「はい、じゃ冷めない内に朝ご飯にしましょう。後でコーヒーも下さいね」
この空気感で毎日飯作りに来るとか、通い妻かよ。と、プレートを手に持って運ぶ一尚を見て章弘は思う。が、実際本人に伝えたら何を言われるか判ったものじゃないので、黙って合掌して用意してもらった朝食を食べた。
後片付けもそこそこに家を出て、良いと言ったのに一尚に送られて会社の近くの通りで彼の車を降り、通勤中の人達に混じって会社まで歩く。天気は良いのにやけに風が強い日で、折角膨らんだ花の蕾がびゅうびゅうと吹かれて枝がひしゃげているのが見えた。
もうちょっとしたら開花するだろうかと考え、こんなに花が咲くのを気にしたのはいつ以来だったろうかと思う。あちこちの枝先を眺めている内に周囲が立ち止まったので、目の前を見ると進行方向の信号が赤くなっているのに気が付いた。
ああ、そういえば。と、信号機や周囲を見て思う。去年までの章弘が見ていたのは足元だけだった。花の事なんか気にもしないで、ただ下を見て歩いていたのだ。
自分がいつの間にか周りを見て歩くようになっていたのだと判り、その変化を嬉しく感じられる。すぐにでも誰かに言ってやりたかったけれど、スマホを出すより先に信号が変わってしまって残念に思う。
この道から眺める花がどんな風に街を彩るのかを楽しみに思いながら、思い思いに動き出した周囲と一緒になって足を動かした。
以上で本編は終了となります。色々と残っている事は後で、短編にて。
長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。




