何でもない日々
「いらっしゃい。ああどうも石井さん、お久し振りです」
「ご無沙汰してました。ボトル、まだあるでしょうか」
「勿論。多少来ない期間が続いたからって、勝手に持って帰るようなホストはもういませんし」
「確かに」
苦笑交じりにそう言ったオーナーに笑って返し、カウンター席に陣取ってスマホをテーブルに出した。
久し振りに訪れたバーは連休だというのに街の中同様に空いている。世間の状況が状況であるとも言えるが、流石にお彼岸ともなると皆出歩かないのかと思っていると、先に水とチャームを並べたオーナーが「思ったより大丈夫そうで、ホッとしました」と言う。それに「そうですね。多分上手くやって行けると思いますよ」と返した一尚に一瞬キョトンとした彼は、すぐに互いの話題の齟齬に気付いて「貴方の事ですよ」と言ってまた苦笑した。
「先月は随分調子が悪そうでしたからね」
「……そんなに、悪く見えましたか」
「ええ。うちにもなかなか頑固なのが長くいましたので、人のそういうのには随分詳しくなりました」
「ああ……」
「今は、ひと山越えたようで」
「お陰様で」
「それは何より」
一尚の返答に穏やかに笑ったオーナーは、アイスペールいっぱいの氷と一尚の名札が付いたボトルを持ってカウンターから出て来る。カウンターに置いたグラスとミネラルウォーターを取ってテーブルに並べた彼は、一杯目を丁寧に作って一尚の前に差し出した。
「ありがとうございます」
「いえ、お礼を言うのはこちらの方です。あの頑固者を引っ張り出していただいてありがとうございました」
例を言った一尚に対し、ニコリと笑ったオーナーはそう言って頭を下げる。彼のその様子に驚いて「いいえとんでもない、却ってこちらがお世話になってばかりで!」と答えると、頭を上げた彼は「それが良かったのかも知れません」と言ってカウンターの中へ戻った。
「章弘の周りはいつも年上ばかりだったから。あいつの生き方を心配していながら我々は、ああやって閉じ籠もったまま不自由なく過ごせる土壌を提供してしまっていたのかなと、この頃少し考えるんです」
「……そんな、事は……」
「俺達はある程度酸いも甘いも噛み分けて来てしまったから、見守る事は出来てもそれ以上の事は出来ませんでした。そういう意味で、等身大に悩んで藻掻く石井さんは貴重な存在でした。章弘にとっても、我々にとっても」
「いえ、でも……そんなのはこの店に来るお客さん、誰だって……」
「いいえ石井さん。貴方でなければダメでした。貴方が相手だったからあいつも真剣に向き合えたし、きちんと前に進む事が出来たんです」
カウンターの向こうのオーナーに笑ってそう言われ、何と返して良いか判らなくなる。そして言葉に詰まった一尚を穏やかな表情で見た彼は、ピカピカな筈のグラスを手に取って、それを磨きながら続けて言った。
「石井さんも章弘も状況察知というか、自分の外の環境に対するアンテナは人一倍張り巡らせていますけど……貴方とあいつの決定的な違いは刺激に対する反応ですね。あいつは何かあると閉じ籠もって自分を守ろうとしますが、石井さん、貴方は逆に外に外にって働きかけて動いて行くでしょう。その傾向はしんどくなればなる程顕著で、仕舞いには闇雲に外に出て行く自分と、内側で揺らいでいる自分とのギャップでよりしんどくなるタイプです」
「う……。流石によく、お判りで」
「恐れ入ります。貴方がそうやって外ばかり見ていたから、あいつは貴方の内側にいる本当の貴方を守りたくなったんでしょう。石井さんは物言いは時々きついですが根は素直ですし、周りの事をよく見ていて人の厚意に溺れるようなガラでもない。そういう真摯な貴方だから、あの頑固者もついつい突き動かされてしまったんですよ」
オーナーの言葉は的確に一尚の急所を捉えており、話が進む毎にグサグサと単語が心に突き刺さる。しかしそれ以上に、穏やかな声にどうやら褒められているらしいというのが判ってとても照れ臭く思えた。
「突き動かすだなんて、そんなにカッコ良いものじゃありませんでしたよ」と苦笑した一尚に、カウンターの向こうの彼は顔を上げてパチパチと瞬いて見せる。
「俺はいつまでもまごついて迷って、ただグラグラ傾いていただけです。もうこの年ですし、せめてもう少しマシな迷い方をしたかったんですが」
「何を仰る、それで良いんです。焦る事はありません、『三十にして立つ』というヤツですよ石井さん」
「はあ。つまり俺は、やっと一人立ちし始めたという所でしょうか」
「そう、石井さんはやっとヨチヨチ歩きを始めた所です。まだまだこれから。大体、その年で悟られちゃ我々年長者の立場がありません、大いに迷うべきです。そして迷っても迷わなくても、またこうして時々飲みに来ていただかないと商売上がったりです」
「ああ、」
悪戯っぽくニヤリと笑ったオーナーが綺麗にウインクしたのを見て思わず笑い、冷たいグラスの中身を口にする。そうして黙って麦の香りを楽しんでいる内にドアベルが鳴って「こんばんは~」という聞き慣れた声がし、オーナーが応えるより早く「うわ、何これ閑古鳥じゃないっ」という騒がしい声が近付いて来た。
「残念、煩いのが来てしまいました」
「っふふ、」
大袈裟に肩を上下させてそう言ったオーナーと笑い合い、その『煩いの』がカウンターに向かって来るのを眺める。ツカツカと近寄って来た章弘は片眉を吊り上げて「聞こえてるわよ、客に向かって随分じゃないの」と言い放ち、荷物入れのカゴにドスンと鞄を置いて腕を組んだ。
「せっかくボトル入れようと思って来てあげたのに、そんな態度じゃ考えちゃうわぁ」
「はあ? ボトルなんか入れたらお前、しょっちゅう来る感じになるだろう。こっちは小煩いのがいなくなってやっと清々していたのに」
「そんな事言ってえ、ホントは手が掛かるのがいなくなって寂しい癖に。それに私ぃ、時々オーナーのアイリッシュコーヒーを飲まないと落ち着かないのよ」
「冗談も休み休み言え。あんな面倒くさいの、今度こそメニューから外したっての」
章弘の言を受けて、これまで余裕綽々だったオーナーの態度が軟化……というか弱化し、それを見た章弘が満足そうに一尚の隣の席に陣取る。トングでアイスペールの中の小さな氷をつまみ上げた彼は、それを摘んでパクリと口に入れてから得意げに笑って見せた。
「だってオーナー、どうせお店開ける前はコーヒー淹れて飲んでるんでしょ。生クリームも砂糖もお料理の材料であるしぃ、全然イケるじゃない」
「う、うーん……」
「飲みたいわぁ……オーナーのアイリッシュコーヒー。あれをあんなに美味しく作れる人、私他に知らないもの」
「ぐう……」
「そんなに美味しいんですか」
「んもう、絶品よ。そもそも私がコーヒーにハマったのはここのアイリッシュコーヒーがきっかけだったの。この人、お酒だけじゃなくてコーヒーも上手なのよ、ンもう堪んないの」
「それはちょっと興味あるかも」
「石井さんまで……」
「ほらオーナー、アイリッシュコーヒーを二つよ! 何なら豆だって挽くわ!」
「客にそんな事させられるか。黙って座ってろ」
諦めたように嘆息したオーナーが笑って棚にある道具を用意し始め、一尚に「待ってる間に章弘のボトルでも選んでてください」と言っていつものメニュー表を示す。促されるままにそれを眺め始めた所で章弘がまた氷を齧って「適当なので良いわよ」と言うので、いつかの事を思い出して「今日はプレミアム焼酎とか無いんですか」とオーナーを見る。その質問で一尚の意図に気付いた彼は、ニヤリと笑って「プレミアム焼酎はありませんけど、ウィスキーなら」と言いながら後ろの棚を探り始めた。
「それこそ、アイリッシュウィスキーはどうです、香りが良いのが入ってますよ」
「ああ、そういえば飲んだ事ありませんね」
「これなんか、甘い香りで癖もなくっておすすめです」
棚からグレーのラベルが付いた瓶を出したオーナーが言い、見た事のないラベルを前に一尚が黙って頷いて返す。先に「ヤダそれお高いヤツじゃないの!」と反応したのは章弘の方で、流石に長い事この仕事をしていただけあるなと静かに感心した。
「ちょっとは加減して頂戴、私の財布にいくら入ってると思ってんのよ!」
「あ、そうか。流石に給料貰うまではキツいですかね」
「大丈夫。退職月の給料に有休全部買い取ってイロ付けてありますから、その位持ってますよ。何ならカード決済も出来ますし」
「ああ、それなら」
「オーナーったら! ちょっと、アンタも少しは気ぃ遣いなさいよ!」
「せっかくですから一杯、ストレートでどうぞ」
「ありがとうございます」
「イヤァ、そんなの開けないで!」
隣で悲鳴を上げている章弘を余所に、オーナーの悪ノリに付き合って一尚もグラスに注がれたウィスキーを受け取って味わう。多少状況が変わってもこうしてここで美味い酒を楽しめるという、そういう何気ない事が殊の外嬉しく思えた。
そして嬉しいのは恐らく、カウンターの向こうのオーナーも一緒で。長い期間章弘の事を見守って来たであろう彼は、キイキイ喚く章弘の姿を時々眩しそうに眺めているのだった。




