少しずつ前へ・4
週明け。
本社に出社して一番に社長室で簡素な辞令交付式を行い、厚い紙に印刷された辞令を受け取って速やかに総務課へ戻る。そうしてビジネスバッグに貰ったばかりの辞令をねじ込んで周囲に向き直り、「では、後藤は去ります」と言って頭を下げた。
「短い期間でしたが、お世話になりました」
「ああ、残念……。もうちょっとゆっくり喋りたかったなあ。今度こっちに来たら是非寄って下さい。美味しい所案内しますから、ランチしましょ」
「イヤですよ、例え近くに来たって本社なんか寄らないに決まってるじゃない。二度と来るモンですか」
「あああ、そういう素の後藤さんともっと喋りたかった~」
隣の席の飾り気のない彼にそう言われ、他の社員にも頭を下げてその場を離れる。途中でこの間イヤミを言われた社員にもすれ違ったような気がしたが、わざわざこちらから話し掛けて嫌な思いをする必要も無かったのでそのまま階段へ向かってロビーに駆け下りた。
会社の正面の通りに見慣れた車が横付けされているのを見付け、さっさと乗り込んでシートベルトを締める。そうして後部座席に目を向けても乗っている筈の老人の姿は見えず、「お祖父さんはどうしたの?」と尋ねると、一尚は心底嫌そうな顔をして「昨夜叔父が連れて帰ったそうです」と返してアクセルを踏んだ。
「あンの狸親子、最初から俺に章弘さんを回収させるつもりだったんですよ。何もかも思惑通りに動いてしまって、何だかシャクです」
「気持ちは判るけど……狸なりに心配してくれたんでしょ。いくら家柄の良いお嬢さん嫁に貰ったって、そのせいで孫と逆さ別れにでもなったら目も当てられないもの。私を充てがっておけば少なくとも健康体は守れる訳だし、多少の事なら今は『ダイバーシティ推進してますぅ』で済んでしまう訳だし?」
「そっちの方が得って事ですか……」
「たぶんね。まあ良いじゃないの、人の金で温泉旅行したと思えば。お土産買って帰りましょう」
「そうですね」
大袈裟に溜息を吐いた一尚が気を取り直すように頭を上げ、高速に向かって車を走らせる。これから帰る先はまだ寒さが残っていたと思ったのだけれど、こっちの春は早いもので、花の蕾が膨らみ始めていた。
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章弘本人は手荷物とお土産を持たせた状態で会社に降ろし、大きな荷物と実家宛のお土産を勝手に彼のマンションに運び入れて一息つく。一尚もこのまま出勤しても良かったのだが、頭を切り替える為にコーヒーを一杯だけ飲ませて貰おうと思い、コーヒーメーカーに水と豆とカップをセットしてボタンを押した。
コーヒーが抽出されるまでの間、リビングの棚にある雑誌や本をざっと眺めていると、雑誌の束に隠れるようにクリアファイルに入ったコピー紙のような束が入っているのに気が付いた。それはどうやら何かの写しのようである。取り出してマーカーで線が引かれた『診断基準』の部分を読み始めた頃にコーヒーメーカーが静かになり、手にした紙の束を持ったままカップを取りに戻った。
限局性恐怖症、不安症、特定の状況への不安、恐怖感、多大な苦痛、パニック発作、などなど。線が引かれたキーワードをざっと斜め読みするだけで目を背けていた自身の弱い部分をまざまざと見せ付けられているような気分になり、一瞬気が遠くなる。しかし、ふらついた身体が椅子を引っ掛けてガタンと音が鳴った事で我に返り、紙から顔を上げて一旦冷静になる事が出来た。
持っていた紙をテーブルに投げ出し、大きく深呼吸してコーヒーを口にする。身体の中に沁みるように入って来た熱い液体を感じながらその紙を眺め、この部屋の主が何の為にそれらを読んでいたのかを考える。
薄いクリアファイルがパンパンになる程詰まっていたそれらは、一尚がしばらく苦しんだ現象について書かれている物の写しだ。診断が必要な程度ではないにしろ、自身に当て嵌まりそうな箇所は多分にある。診断基準の紙の他にも関連する資料がいくつか挟まっているのを見て顔を上げ、呆然として息を吐いた。
あの人、就活しながらこんな事を調べていたのか。
あんな風に苦しくなった姿を人に見せたのは章弘が初めてだ。年越しのあの晩、一尚が見せた揺らぎをきちんと受け止めた彼は、こうして調べて自分なりに理解しようとしてくれていたのだろう。しばらく連絡が来なかったのは恐らく何らかの形で自分の足元を固めたかった為で、多少無理をしてでもそうやってきちんと立っていられない内は、誰かに向き合う決心さえつかなかったのだ。
あのカッコつけ。彫り深、骨太、強情っぱり。
鍵の事といい、この件といい、彼が家族でもない一尚を如何に大切に思っているか、見せ付けられたような思いがした。
読み散らかした資料をまとめてクリアファイルに挟み、元の棚に戻して冷めたコーヒーを流し込む。そうしてカップを洗って水切りカゴに上げ、そのまま章弘のマンションを出て外の風を全身に浴びた。
本社があった場所より少し風は冷たいが、日が昇れば気温は高くなる。乗り込んだ車内で付けっぱなしになっていたエアコンを切って窓を開け、陽の光を受けて青々と茂る街路樹に見送られながら会社へと車を走らせた。
駐車場より先にエンドランスへ車を停めて持参した手土産をその辺にいた社員に手渡し、各部署に休んでいた侘びを言って歩いた後で、一尚もやっといつもの日常に戻って行った。




