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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
44/60

少しずつ前へ・2

 肉屋を出ておよそ一時間後、章弘は会社の寮ではなく、今日一尚が泊まる予定になっている老舗旅館の一室で座椅子にもたれて頬杖をついていた。


 先に露天風呂を堪能したので着ているのは旅館の浴衣と羽織で、向かいの一尚もまた似たような格好で座椅子の上に正座をしている。その一尚との間には二人で使うには少し大きな座卓が置かれており、更にその卓上には今運んでもらったばかりのすき焼きセットと細々したおかずが並べられ、鍋はクツクツと良い音を立てていた。

 おひつのご飯をよそって着々と食事の用意を始める一尚を前に、呆れ顔の章弘が溜息と共に「まさか本当にあのお肉をココで食べる事になるとは思わなかったわ……」と呟いて身体を起こすと、それを聞いた一尚は「まだ言ってるんですか」と涼しい顔をして見せた。


「研修は短い期間だからご飯は買って食べるって、自分でそう言ってたじゃありませんか。寮でやるにしたって鍋とか取皿とか箸とか、そういうの細々買うのが面倒でしたし」

「そりゃそうだけど……、だからって肉持ち込みでプロに調理させるって発想は流石にお坊ちゃんよね、私絶対に真似できない……」

「そうは言っても違うお客さんに食事出しちゃったっていうのも向こうの手違いですし、この位で済むなら易い物じゃありませんか。あの店がいっぱいだったのも何かの思し召しです、今日はココですき焼きを食う運命だったんですよ」

「運命だなんてロマンチックな言い方されても……、だって別にそういうアクシデントが無くても頼んでみるつもりではいたんでしょ?」

「はい」

「やっぱ太い奴よ貴方、しかもズル剥けね」

「意味が判りません、っていうかセクハラですよ」


 一時間程前。

 良い肉だけ買った所でどうせ寮には調理器具は無いし買い揃えるのも面倒で勿体ないし、壁が薄くて思うようにお喋りも出来ないだろうと、章弘は彼が泊まる旅館に強引に連れられて来たのだ。買ったばかりの上等な肉を引っ提げて宿に着いたら、チェックインをするより早く和服の女将が来て、神妙なお顔で『手違いでお夕食の料理を別なお部屋に運んでしまい……』と謝罪を始めた物だから、ダメ元で聞いてみようと言っていた話がすんなり通ってこの有様である。

 一尚が鍋の蓋を開けると、キレイに盛られた具材に程よく味が染みている様子が見て取れる。鍋から立ち上る湯気に乗って、割下と食材の香りがツンと鼻の奥を刺激し、空腹を思い出した腹の虫がグウと音を立てた。


「はい、取皿下さい」

「あらイケメン、こっちも取ってくれるの」

「こういう時は年功序列でしょう」

「イヤァ何が年功序列よ、年寄り扱いすんじゃないわよっ」

「良いから早く、こっちも腹減ってるんですから卵溶いて」

「はぁい」


 言われるままに取皿に乗った卵を溶いて手渡し、熱々の具材をよそって貰っている間に一尚の分の卵も溶き解して返す。それらにこんもりと具材をよそう彼の姿を見守りながら、『言葉でやり取り出来る相手が近くいるのも、食事の時に誰かといるのも久し振りだ』と考えて頬杖をついた。


 本当は今日だって、こんな体たらくで一体どんな顔して会えば良いかと考えていたのだけれど、ひと度顔を合わせたらそんな事は一気にどうでも良くなってしまい、退路を断つように立ちはだかった彼の姿に思わず苦笑してしまった。

 それに。階段の下でキリリとした出で立ちで待っていた姿はさながらお伽話の王子のようで、そのまま手でも差し伸べられたら画になるだろうなと、そんな事を考えてしまった自分にちょっとどうかと思ったのだ。でも周囲にいた女性社員の視線が釘付けであった事を考えると、この発想もあながち外れてもいないのだろう。一尚はこんな人間の事さえ気に掛けてくれるような、器のでかいイイ男だから。


 元々そんなに頻繁に行き来していた関係でもないが、向こうを出発する前後はお互い随分近くにいたような覚えがある。こちらに来てからはあの頃のように自分の行動にポジティブな反応を返してくれる人が身近にいなかった物だから余計に、当たり前にそうしてくれる彼の存在をありがたく感じられた。


 食事の用意を済ませた一尚が姿勢を正したのを見て、『そういえばお茶漬けを食べさせた時も、こうやって背筋を伸ばしてお行儀よく食べていたっけ』とその時の様子を思い出し、彼の育ちの良さを痛感する。そんなこちらの表情を見て「何ですか?」と不思議そうに言った彼には「何でも無いの」と返し、こっちも姿勢を正して互いに合掌して「いただきます」と言って箸を持った。


「…………美味っしい~」

「……、……」

「ン何このお肉、しっとりして柔らかくて美味っしい!」

「…………」

「んん、お野菜にもお肉の味染みてて良いわ~」


 思った事を全て口に出しながら箸を動かす章弘の向かいで、一尚も感激で目を輝かせながら黙々と食事を続けている。章弘よりも若いだけあってすぐに一杯目の食材を口に入れ終えた彼に手を伸ばして「はい、今度はこっちで取るから」と言うと、素直に取皿を手渡した彼は茶碗のご飯をわしわしと口に詰め込んで行った。


「美味しいわね」

「…………」


 言いながら取皿を返した章弘に、口が塞がった一尚がコクリと頷いて返す。流石に食べながら喋るような事はしないかと笑ってその姿を眺めている内に、ずっと昔に似たような顔をしてご飯を食べていた啓介の事を思い出すのだった。


 そう言えば。と食事を続ける一尚を見て思う。

 啓介や一尚を前にした時はこうやって、自身も割と自然体でいられたような気がする。二人共文句や愚痴はそれなりに口に出して言うけれど、共通して素直で感受性が高く、人を貶めるような事を言わないタイプだ。前に勤めていたオカマバーのママや、辞めてしまったバーのオーナー、吉武も似たような人達で、要するに章弘が警戒する必要がない、一緒に居て落ち着く存在が彼等であった。


 会社にいる時はあれだけ窮屈だったのに、今はこんなにもリラックスしていられる。それは章弘が新しい環境に来てもまだ守りに入り掛かっていた証であり、しないと誓った筈の『逃避』の渦に、また飲み込まれてしまう所だったという事だ。このまま気付かずに過ごしていたら、這い上がってはずり落ちる、あの悪循環のような生活に繋がり兼ねなかった。


 そうか。迷惑を掛けたくないなんてただの建前で、私はただ自分の素を曝け出すのが怖いだけなんだわ。


 昔失敗した記憶が未だに自分の足を引っ張っていて、そのせいで今も思いのままに生きる事が出来ないのだ。そんな風に生きたらまた何かに足元をすくわれてしまうような気がして、そうなってしまうのが怖くて、『普通』の振りをして一人で閉じ籠もってやり過ごそうとしているだけ。そりゃ窮屈な思いもしようという物だ。


『人に恵まれたのは幸運もあるんだろうが、そういう人を引き寄せたのもお前だよ』

『俺、叔父さんが好きだよ』

『いーんだよ。良いんだ』


 素の自分を知っていてなお、そう言ってくれていた彼等の言葉さえ、危うく忘れてしまう所だったのだ。

 一尚が無理矢理にでも切り込んで来たのは、章弘のそういう雰囲気を察しての事だったのかも知れない。ずっと立ち止まっていたのが不思議な位、本来の彼は面倒見が良くて辛辣で、躍動感に溢れたアグレッシブな人だ。元々の感受性が高い上に、今は過去の事もあって周囲の人の変化を敏感に察知する力もあるから。きっと再び立ち止まった章弘にいち早く気付いた彼は、章弘を覆いかけていた薄くて厚い殻をこじ開けて、こうして外へ繋ごうとしてくれていたのだ。




「章弘さんはカッコつけ過ぎなんですよ」


 食事の後でもう一度大浴場のお湯を堪能して戻り、畳の上に敷いてもらった布団に寝転びながら一尚が言った。


「もっと自分勝手に、気楽に生きて良いって俺に教えてくれたのは章弘さんでしょう。人の事は丸裸にして暴いた癖に、自分だけカッコつけようったってそうは行きませんからね」

「暴くだなんて……そんなに大層な事したかしら」

「しましたよ。あんな話家族にだってした事無いんですから、聞いた以上はそちらもきちんと責任持っていただかないと」

「責任って何よ……、一回間違って寝たオンナみたいな事言うわね。私だってあんな話、啓介にも先生にもしなかったわよ。どう、これでおアイコでしょ」


 ツンとして言われた言葉にそう返して布団の上に胡座をかいた章弘に、振り返った一尚が悪戯っぽく「って事は、章弘さんからあの話を聞いたのは俺だけ?」と笑う。一尚にしては珍しい表情に一瞬面食らって「会社の人達には掻い摘んで事情だけ話したけど……、私のカッコ悪い所までちゃんと話したのはカズちゃんだけよ」と答えると、彼は嬉しそうに足を動かしてフカフカの掛け布団を何度か蹴った。

 今日は酒も入っていない筈なのに、こんなにストレートに感情表現をする子だったろうかと考えてその様子を見ている章弘に対し、一尚は喜色を溢れさせて「お互い『特別』なんですね」と笑って言う。


「俺の情けない所全部見たんですから、途中で放り出さないで最後まで面倒見て下さいね。言っときますけどこっちは蠍座なので、今更逃げたって地獄の果てまで追い回してやります。覚悟して下さい」

「追い……って、結構おっかない事言うのねアナタ」

「ふふっ、だから章弘さんも諦めて、じゃんじゃん情けない所見せて下さい。どれだけカッコ悪くたって俺はめげません。絶対離しませんから」


 あっけらかんとして言われた言葉に唖然とし、しばしの間言葉を返す事が出来なくなる。それでも彼の言わんとする事は充分に伝わり、すっからかんだった身体の奥にジワジワと温かな感情が溢れ出て来るようだった。


「ねえ。それってまるでプロポーズの言葉みたいね?」


 同じ様に布団の上に寝転んで返すと、一尚はキョトンとして今言った言葉を自分の中で反芻する。それから章弘の言った事の意味に考え至った様子の彼がまた悪戯っぽくニヤリと笑ったのを皮切りに、二人で腹を抱えて大笑いして過ごした。


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