並存するために・6
「ヒロちゃんはジュン子ママの所で評判が良くってね、皆から随分可愛がられていたから私もよく覚えてるんだよ。あの……もう辞めちゃったけど、あのナントカっていうバーのオーナー、彼もジュン子ママ繋がりで……お店を畳んだ後でヒロちゃんを頼むって、ママが自分から頭を下げて頼んでた位でなあ」
後部座席に鎮座した祖父はそう言い、車窓から見える景色を眺めながら、目が覆われてしまいそうな程垂れ下がった眉をハの字にして懐かしそうに笑った。
「あの時のヒロちゃんは今よりずーっと華奢でねえ。良い子だから中身まで折れそうで心配だって、ママも最後まで気に掛けていた」
ジュン子ママというのは例のオカマバーの店主だった人で、一尚であっても名前位は聞いた事がある。その人はどうも祖父の仕事の同期だった人で、公私に関わらず色んな事を気兼ねなく話せる貴重な相談相手の一人であったそうだ。聞いてみれば祖父はそのオカマバーの常連でもあり、それで一方的に章弘を知っていたのかと納得した。
それからルームミラー越しに祖父を見やり、「じゃあ、章弘さんのあの就職先ってもしかして」と一尚が問うと、彼はうふふと茶目っ気たっぷりに笑って細い目をなお細くして見せた。
「優秀な人材を探している仕事仲間に、ちょうど仕事を探している人がいるとは言ったが、それだけだ。そこから先はヒロちゃんが自分で引き寄せたご縁だし、私は何もしてないよ」
そうは言っても付き合いの長い会社の比較的偉い人間に、良い人がいると勧められてそれを断るというのも中々無茶な話である。確かに人事部の担当は章弘の人柄を見たのだろうが、祖父が推すというだけでそれなりの人材である事の証明にはなるから、多少は忖度が働いていたと考えるのが普通だ。
この狸爺め、とその返答に口角を釣り上げ、嘆息して首を大きく横に振る。一尚のその様子を楽しそうに眺めた祖父にはもうそれ以上何も聞かないまま、高速のゲートを潜って緩やかにスピードを上げ、本線へと合流した。
「でもまさか、巡り巡ってお前がヒロちゃんを助けてくれるとは。嬉しいねえ、ジュン子ママに良い土産話が出来た」
そのジュン子ママという人が今どういう状況にあるのか、まだこの世にいるのかどうかさえ一尚には判らないが。染み染みと話す祖父の様子を見るに、その人が祖父にとって掛け替えのない人であった事は覗える。
変わらず車窓の外を眺めている祖父の笑顔に、僅かに混じる感情が何を意味するのか。それを考え始めたらまた遣る瀬無い思いに包まれてしまいそうで、ルームミラーからは敢えて視線を外して前だけを見ていた。
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「色目ぇ? 誰が誰に使ったって言うのっ……ですか」
「だから後藤さんが…………あの、男性社員……に対して」
「はああ? バッ……ッカじゃない、ですかっ?」
時計の長針がもう一回りすると終業時間であると、社内の誰もが気合を入れ直す時間。何だかよく判らない細かい数字の確認作業中に総務の主任に呼び出された個室で、そうやって言い掛かりともいえる個人面談に持ち込まれ、流石にカチンと来て危うく素を出しかけた。
思わず荒げかけた声を一度グッと飲み込んで静かに深呼吸をし、怒りに釣り上がりそうだった目尻を下げる。そうして努めて冷静な顔を作り、目の前の主任に向けて出来るだけ理論立てた言葉を吐けるよう注意を払った。
「公私の区別くらいちゃんと付きますよ。今の仕事が前の仕事と違う事も判ってますし、職場でそんな事する訳ないでしょう。大体私は来週いっぱいで地元に戻るのに、今ここで男を引っ掛けて何の得があるって言うんです」
「まあ、概ね同意見だけど……、だからこそ遊び相手を探して相手を物色してるんじゃないかとか、ちょっと不安がる声も上がっていて。こっちも報告として上がって来たからには一応事実確認と、必要があれば注意をしないといけなくて」
そう言って忙しなく手を重ね合わせている彼は、年は一尚よりも少し若い位だろうか。主任という立場上色んな事を背負い込まされているようではあるが、どうも声の大きい社員に良いように使われているフシがある。向き合った章弘の言に容易く言い淀んでいる様子を見るに、心の底からこっちをどうこうしたいと思ってはいないらしい。
周りからの圧力に負けたというか、興味本位でやれと言われた事を嫌々やっているというか。そんな様子で仕事が出来ない社員のネタ作りに安易に協力してしまっているというのも情けない話である。
これが本社の、しかも総務の主任って……それなりに忙しい筈の時期にこんな事してるようなヤツ、主任にしてて大丈夫なの? と、他人事ながら全く別な心配をしてしまうのだった。
「そういう事なら仕方ありません、私の方にそういった意図が無い事ははっきり申し上げておきます。それと……事実確認という事はこの面談の後、当然私の事を相談した相手にも確認を取るんですよね?」
出来るだけ淡々と、しかし当然、の部分を強調して言った言葉に、目の前の彼は簡単に動揺して「ぅぐっ……も、勿論ですっ」と張れない筈の胸を張って見せる。それに対して章弘が「そうですか、良かったです」と笑った事で一瞬ホっとしかけた彼に向けて、脚を組みながら椅子の背もたれに身体を預け、出来るだけ穏やかに聞こえるように言って返した。
「でしたら後日で構いません、私がいつ、何処で、どんな場面でどんな視線を送ってそんな誤解を招いたか、判ったら教えて下さいません? もちろんお相手のお名前と所属は結構ですよ。そういうのは立場上話せないでしょうから」
「えっ、え……どうしてでしょうか……」
「何せ研修でこちらにお邪魔している身ですから。ご指導戴いた事は全て日誌に記載して上に報告する義務があります。今回は私の態度が誤解を招いたという内容ですから、どの辺りに問題があったかを明確にする必要があると思うんです」
「にっ、日誌っ? もしかしてあの長いやつですか、手書きの型の?」
「ええ。今時古臭いですけれど、手書きなら寮に戻った後もじっくり書けますでしょう。私はこの通り右も左も判らない立場ですから、その日の出来事は細かい所まできちんと振り返って、明日からの仕事に繋げて行かないと」
こちらの言葉であからさまに狼狽え始めた主任に構わず立ち上がり、「では、お話は以上でしたか?」と尋ねながら腕時計を確認する。ア、ハイと気の抜けた返答をした彼によく見えるように手帳の隅に入退室の時刻を記入してやると、蒼白になった彼は小さく「では、お疲れ様でした」とだけ言ってフラフラ出て行ってしまった。
この程度で動揺してんじゃないわよ根性なし。
本当はこの日誌も事細かに研修内容を書けなんて指示無かったのに、殆ど八つ当たりみたいに詳細に書いて、恨み節のように毎朝一番に送ってやっているだけだ。当然というか何というか返事は貰えていないから、日々律儀に送っているそれがきちんと読まれている確証もない。でもどうせ面白くない思いをするならこの位の抵抗はしたって良いだろうと、客観的な事実の記録がてら書いた物を送り付ける事でささやかに発散をしている所だ。こんな事で章弘の堪忍袋がいつまで持つかは不明だし、こっちに来てからというもの、腹に据え兼ねる事ばかりでもう投げ出してやりたい気分である。
「おい、言ったらしいぞ、あいつやりやがった!」
「やるぅ、後でご飯行こう、あのオカマが何言ったか聞かなくちゃ」
「オカマとかホモとかマジ無理。普通の会社に入って来んなっつーの」
「向こうの担当何考えてんだろうね」
「気持ち悪い、さっさと消えれば良いのに」
先に出て行った主任を追って総務課に戻る途中、表向きは神妙な面持ちのこちらを見てクスクスと嫌な笑い声を漏らす社員達の姿を見る。その彼等の顔を見て内心で中指を立て、『誰が黙って消えてやるか、道連れにしてやる』と物騒な事を考えながら総務課に戻り、晴れやかじゃない気持ちのままデスクに落ち着いて中断していた作業の続きに取り掛かった。
「お帰り後藤さん。ずっとスマホ鳴ってたけど、家族にでも何かあったんじゃない?」
「え? すみません、煩かったですよね」
「ああ、全然。俺そういうの気にならないからそこは良いんだけど」
隣から間延びした声を掛けてきたのは若い男性社員だ。年上の章弘を相手に敬語すら使おうとしない彼は主任や課長にもこの調子で話しかけるタイプの社員で、若干世間の常識からズレている分、却って裏表も無さそうな印象である。「訃報とかだと困るだろうし、一応チェックしたら」と言って自分の仕事に戻った彼に「ありがとう」と伝え、鞄に突っ込んだままになっていたスマホを出して画面を見た。
「え、うわっ……」
「お?」
「何?」
「どした?」
「あ、いいえっ、何でもないです……」
スマホを見た途端、通知欄を埋め尽くす勢いの着歴にちょっと引いて思わず声が出た。数分おきに掛かってきているそれらを見てストーカーも真っ青……などと思いながら周囲の視線を避け、一通だけ届いていたメッセージにも気付いて目を通して軽い目眩を覚える。
『これから近くまで向かうので、良ければ夜お会いしませんか』
ああこれ、後半疑問符じゃなくて半分威圧が入っているヤツだ。こっちの返事なんかこれっぽっちも聞いてない感じの。こういう時は絵文字付けて欲しいのに、字だけだとおっかないじゃないの。着信シカトこいてたこっちが完全に悪いんだけどさあ……。
ストーカーじみた発信を寄越している彼と会いたくない訳じゃないし、話したくない訳がない。ただ、今の状態で会ってもきっと実のある話は出来ないし、下手を打って酒なんか飲もう物ならまた年甲斐もなく甘えてしまう未来が見える。折角カッコつけて前に進み始めたのに、事ここに至って、そんなカッコ悪い姿を見せてなる物か、と。年上としての泣けなしのプライドで強がって立っている所なのだ。
何でそこまで入って来るの。そんなにされたら私、ずっと弱っカスのままになっちゃうじゃない……。
結局折返し電話を掛ける事も出来ないまま、スマホの音とバイブを完全に切り、細かい作業を続けながら仕事が終わるまでの時間を過ごした。




