並存するために・5
章弘が新しい場所へ出向いた後、日が経つにつれて連絡がつきにくくなった。
初日はすぐに電話に出た。二日目はすぐには出なかったが、比較的早い時間に折り返しが来た。三日目は結構遅れて折り返しがあり、少しは話をしたけれど、向こうが眠いからと言って早々に通話を切り上げてしまった。週末も殆ど会話らしい会話をせずに終わっているし、段々と応答頻度が下がって来て、ここ最近に至っては恐らく見て見ぬ振りをされている。
長年時計を持たなかった章弘は結構マメにスマホをチェックする癖が付いており、その為にスマホはポケットや作業台などの比較的手が届き易い所にあった。それに普段からアラーム等も多用するからプライベートでは音の出る状態で携行されている筈で、耳の良い彼に電話の着信音が聞こえないというのも考えにくく、こちらの発信に気付いていない訳がないと思う。
……だからって流石に毎日は掛け過ぎだろうか。
こっちにいた時は用が無くても頻繁に連絡を取り合っていた物だから、知らない土地に行ってしまって大変だろうと、気に掛けていたつもりでいたのだけれど。それが却って良くなかったのかと思いはしても、あの彼が段々と静かになって来ているのも割と心配である。
そもそも章弘には閉じ籠もる習性があったのだ。外出そのものを面倒臭がるのは勿論性格もあるのだろうが、実際の所バーカウンター以外であまり強くもない彼は、時に大切な筈の人間ですらもシャットアウトして一人になりたがる傾向にある。長年そうして自分を守ってきた人だから、あの要塞を離れた今、見知らぬ土地での外部からの刺激に反応して守りに入っている可能性だって捨てきれない。
かといって迷惑だろうとここで引いたら、またいつもと同じ結末を辿るだけ。今回ばかりは申し訳ないが、しつこいと怒られるまで掛けてみる事にしようか。
着信拒否でもされてしまったらそれはそれ。今度は畑中にでも頼んで連絡を取り付けて貰えばきっと何とでもなるだろう。
そんな事を思いながら今のこの状況はお互いにとってあまり好ましくはないと考え、同時に何処かホッとしている自分がいる事にも気付いていた。
自分より先に動き始めた章弘はもっとずっと先を行ってしまったとばかり思っていたけれど、どうやら彼はまだそう遠くには行っていないようだ。遠くなったと思えたのは一尚が不安に駆られて視野が狭くなっていたからで、冷静になって考えれば今も、あちこちに彼の足跡が目に見えるように残っている。
薄々判ってはいたが人間そう簡単に変わる事は出来なくて、進んだ先でもそれまでと同じ様にぐるぐると螺旋を描いて留まってしまうに違いない。一気に進んでしまうときっとあまりの変化に身体と精神が耐えられないから、少し進んで留まって、或いは進んだ以上に後戻りをして、そうやって少しずつ少しずつ前進していくのだ。
多分今度は、こちらが一歩を踏み出す番なんだ。
あの人が一尚の覚束ない根っこをしっかり掴んでくれたように。再び彼を覆い始めた殻に少し風穴を開けて、その中で揺らいでいる彼の声に、一尚が耳を傾ける番なのだ。
今抱いている思いは皆の言う『特別』とはきっと違うけれど、章弘が一尚にとって『特別』な人である事に変わりはない。
彼がくれた思いはいつだって温かく、触れる度に身近にある大切な事に気付かせてくれた。彼無しには認識しようが無かった関係も感情も沢山ある。例え自分以外の大勢が知っている『特別』な感覚を知る日が来なくても、自分がこんなにも大切な物に囲まれていたと、そう気付かせてくれた彼に出会えた事を心の底から嬉しく思う。
その温かさをくれた彼が辛い状況にあるのなら、無理矢理にでも近くに居るべきなのだ。その為に受ける傷があったとして、今更何を恐れる必要があるだろうか。
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昼休みに入った時間を狙って掛けた電話も一向に繋がる気配はなく、仕方なしに耳に当てていたスマホを離して発信を止め、ランチバッグを用意して椅子から立ち上がった。
……と。今し方まで持っていたスマホが振動し、誰かからの着信を表示して振動し始める。しかしサッと手に取って見ても章弘からの物ではなくて、発信者を目にした途端ウッと呻くような声が出た。
『叔父』
彼に関しては最早名前を登録する事すらイヤで、たったそれだけの名称で登録されている。一瞬見なかった振りをしようかと思いはしたが、ここで出なくてもすぐに代表番号に掛けて来て内線で呼ばれるのは目に見えている。観念して仕方なく画面を操作し、素直に応答する事にした。
「はい」
『よう一尚、ちょっと頼まれてくれるか』
一尚が電話に出るなり叔父はそう言い、返事も聞かない内から用件を話し始めた。
『夕方から本社で経営会議なんだが、この情勢でジジイ一人電車で都会になんか行かせられないだろ。お前ちょっと運転手してくれないか。経費はこっちで出すから』
「はあ? そんなの会社に来て遠隔会議にしたら良いじゃありませんか。わざわざ向こうに行く意味なんか」
『あっちの親族に子供が生まれたってんで、出産祝い渡したいんだとよ。親心だ、おやごころ』
「貴方に親心を説かれても……。第一こっちも年度末で忙しいのに、そんな時間割けませんよ」
『何言ってんだ、お前肩書は常務で総務付きでも何でも無いんだから、一日中総務課に張り付いてなくて良いだろ。そんなの課長と主任に投げて置け、いい加減自分達で何とかする癖を付けさせろ』
「そんな無茶な……、っていうか、叔父さんが送れば良いだけの話なんじゃ」
『俺は今仕事で県外に来てて、明後日まで帰らない。他に適任がいない』
「適任って叔父さん、あのねえ……」
『良いか、よおく考えろ一尚、本社だぞ。ウチの本社は何処にある』
そう尋ねられてピタリと、小会議室に向かい始めていた足が止まる。本社のある場所を思い浮かべ、今いる場所との位置関係を考えてすぐに叔父の言わんとする事の意味に気が付いた。
急いでデスクに戻って鞄に手帳や筆記具を詰め込みながら、『向こうを発つのは週明けの朝でいいぞ』と言った叔父の声が弾んでいるのを心底気色悪く思う。それを察したように彼は『誕生日プレゼントが遅れた侘びだ』と言い、電話の向こうで低く笑って寄越した。
『ようこそ独身貴族の墓へ。歓迎するぜ一尚~』
「うるさいですよ」
『兄貴には言っといてやるからそのまま行って良いぞ。じゃあな』
言いたい事だけ好き放題に言い、叔父は一方的に電話を切ってしまう。誕生日なんか半年近く前の事だと呟いて通話を終えたスマホをポケットに突っ込み、一応社長室に内線で報告を入れようとすると、その社長室からの内線でデスクにある電話機が音を立てた。
「はい、総務……」と出た一尚に、父が疲れた声で『俺だ』と言って大きく息を吐いたのが聞こえた。
『今さっき親父から連絡があったんだが……そっちも聞いたか』
「ええ、たった今叔父さんから。ちょっと空ける事になりますけど、大丈夫でしょうか」
『仕方ない、親父も康正も言い出したら聞かないから。それにお前、役員の癖にこの三年公休以外は殆ど休んでなかっただろう。体調の事もあるし、一日二日位サボったってバチは当たるまい、親父のカードでも使って出来るだけデカイ金額使って来い。社長命令だ』
「はい、承知しました」
『その代わり、来週からも馬車馬の如く尽力して決算事務と予算編成を間に合わせるように。これだけ連続して休まれちゃ社員に示しも付かないし。そうだなあ……再来週には次年度の事を話したいな』
「ひどいパワハラを受けた」
ククッ、と低く笑いながら言った父に従い、受話器を置いて早々に退社の準備をした。折角持って来た昼食の始末に困りながら、スマホを出して先に章弘にメッセージを送る。
『これから近くまで向かうので、良ければ夜お会いしませんか』
一応は反応を見る為にそんな形で送ったが、返事を聞くつもりは毛頭ない。必要な物をまとめて上着に袖を通し、階段に向かった所で尚徳に会ったので、挨拶もそこそこにランチバッグを押し付けてさっさとエントランスまで駆け下りた。
「あら、お疲れさまです常務。お出かけですか?」
エントランスの自動ドアに差し掛かった時、そう声を掛けてきたのは仕事モードの義妹だ。営業の外回りから帰った所らしく、手には美味いと評判の弁当屋の袋を提げている。恐らく目当ての弁当を入手出来たからか、ホクホクの笑顔を向けられた事で焦燥感が少し和らぎ、「お疲れ様」と答えながら車の鍵を手に取った。
「これから会長を送って本社に行く所だ」
「本社にぃ? これから行ったんじゃお泊りですねえ」
「まあ、そうなるかな」
「ああでも、泊まりなら向こうの黒毛和牛を堪能できますね」
「……和牛?」
「ハイ、和牛です」
ただでさえ人好きのする笑顔をしている彼女は、「お肉屋さんがやってるすき焼き屋さんがあって、これが絶品なんです」と言って本当に蕩けそうな表情をする。彼女が食べたというすき焼きがどれ程美味であったか、その顔が雄弁に物語っているように思えた。
一尚の視線でハッとした義妹がすぐ「すみませんお見苦しい所を」と言い、少し顔を引き締めてコホンと咳払いをする。そうしてから「でも、冗談抜きでおすすめですよ」と言った彼女は、瞬く一尚を見て温かい声で笑った。
「すき焼き程栄養バランスが良いレシピはありません。お兄さんこの頃お疲れだったでしょう。美味しくて栄養たっぷりなご飯を食べて疲れを癒やして、英気を養って来てください。決算が終わったら総会まで一直線ですよ、今年も力いっぱい走り抜けましょうね!」
力強い言葉と共にグッと握った拳を突き出されると、心を占めていた窮屈な思いが一息に霧散して解けてしまうようである。明るい声と表情を受けて身体全体から力が抜け、口からも自然と笑みが漏れた。
「はい。じゃあ行って来ます」と返事して拳を作り、彼女の拳に軽く当てて横をすり抜ける。駐車場へ向かう背中に「いってらっしゃーい」と軽快な声を掛けられながら、早足で車に乗り込んでエンジンをかけた。




