停滞するココロ・5
「えっえっ、どれどれ、あの人?」
「そう、あの三列目、ショートヘアの」
「眼力やば~い、肌とか超~キレイじゃないっ?」
「アラフォーなの、あれで?」
「ウチの課長とタメだって」
「「やば~いっ」」
……見世物じゃないっつーの。っていうか昼休み終わったんだから仕事に戻りなさい。かしましいのよ、ブス。
休憩時間がとっくに終わった時間であるにも関わらず、廊下から聞こえて来るそんな声に眉一つ動かさないで内心で毒を吐くのももう慣れた物だ。
最初の内は流石に落ち着かなくて気を散らしていたものだが、そんなのも三日過ぎればもう、徐かなる事林の如くである。きゃあきゃあと騒ぐ彼女達に構わずテンキーを叩いて領収書の束と睨み合っている内に、外の音はすぐ気にならなくなった。
こっちの会社に来るより早く、章弘が元々オカマバーに勤めていたという情報は既に何処かから回って来ていたようで。研修が始まると同時に物珍しい新人をひと目見ようと、何かに付けて章弘のいる部署まで顔を見に来る輩が多かった。
『何あれ、別に普通じゃん』
『女装して来んのかと思った』
『っていうか考えてみたら、仕事だから女装してただけなんじゃん』
『え。ああいう人達って女装したいからそういうトコに勤めるんじゃないの』
『そういう人はまた似たような仕事探すんじゃないの。あの人はそうじゃなかったから別な仕事してたってだけで』
『あーそっか。でも俺ちょっと期待してたのになあ』
『俺も~』
『ま、アレで実際女装とかしてたら引くけどな』
などと、こっちの事情など関係なしに、結構好き放題に言われていたりもした。社員の多くは章弘が普通の格好で出社した事で一切の興味を無くし、すぐに『全然普通の人だったよ』という感想だけが社内を練り歩く事になった。
ただ。女性社員の一部に関しては『見た目は普通でも心は乙女なのかも!』と勘違いしているフシがあり、やけに世話を焼いてくれたり甘い物をくれたり、どんな人がタイプ? と謎の探りを入れたり、あんな風に人が出入りしたりして騒がしいことこの上ない。
学生が学校でやるならまだしも、良い年をした大人が仕事をする場でそんな事をやるので、男性社員の一部に『モテる男は大変だねえ』と一連の騒ぎを揶揄されたり、一定の世代以上の社員からはちょっと遠巻きにされたりして、一週間も経つとあまり良くない雰囲気になりつつあった。
「なーんか……急に騒がしくなって迷惑だよなあ……」
「なあ。そりゃ人手は欲しいけど保健師だろ? 別に今研修しなくても良くないか? ただでさえ人足りないのに研修で一人取られるって本末転倒っていうかさあ……。何もこんな時期に入って来なくて良いのに」
と、このように聞こえるように文句を言われる始末だ。
大抵の企業が年度末で大忙しなのは判っているし、彼等もそれなりに忙しいのだろうと中立的立場に立って思う事は出来る。しかし章弘のような新人にそんな事を聞かせた所でどうにもならない話で、文句があるなら向こうの人事部と、この時期の新人研修を受け入れたこっちの総務部に直接言うべきなのではないかと思う。
確かに早めに人を欲しがったのは支社だけれど、忙しいのを承知で支社の要望を受け入れたのは本社の方だ。いくら新人と言っても時期が時期だから、研修は四月入社の人達に合わせてひと月は実務の引き継ぎという方法もあったのではないだろうか。前例が無いのか何かの理由があるのかは判らないが、現場で振り回される人間のこういう気持ちを引き上げられないのも割とどうかと思う。
などと、ふとした時にそんな事まで考えながら目の前の作業に意識を集中する。同じ姿勢で長時間座ってしているのは中々に草臥れる作業で、時折首や肩を動かすとゴリゴリと鈍い音が響いた。
新人研修と言っても前述の通り年度末に入社する新人など章弘一人なので、大勢入社した時のように一日中講義や座学がある訳もなく。
各項目の担当者の手が空いた時間に、小会議室や資料室で簡単に会社の概略や他部署の仕事内容のレクチャーを受ける以外は、こうして総務課の空きデスクに座って領収書の整理と小口現金の帳簿管理に精を出す日々である。何を考えてこんな物を預けられたのかは知らないが、帳簿など遥か昔の高校時代に簿記の授業を取った時以来である。随分昔の記憶を頼りに、使っていなかった分野の事に頭を慣らすには結構時間が掛かった。
今は初日よりマシになったとはいえ、大して面白くもない言葉を時々聞かされながら、こんな事をしてあと二週間もここに座って居なければいけないのだろうかと思うとひどく憂鬱だ。テンキーを叩いて数字と向き合う作業をひたすら続けていると、自分が経理で入ったのか保健師で入ったのか、段々と判らなくなって来るのだった。
「すみません先輩、ここの日付の領収書、まだ出ていないようです」
「え~、これ出張のヤツかなあ……出せって行ったのに……」
「それからこっちの部署は帳簿と現金の金額が合いません。前後に買った物を見ると慶弔用の持ち出しだと思うんですが、どちらも一度ご確認をお願いします」
「えっ、これももう終わったの?」
「はい。他に何か出来ることがあれば……」
言いながら朝渡されていた物を全て彼等に返し、次の作業があればと周囲を見る。そうして指示を待っている間に次の研修担当に「後藤さんお待たせ~」と声を掛けられ、周囲に頭を下げながら担当者と共に小会議室に向かう事になった。
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なーんか変に疲れるわ。これじゃ酔っぱらいにクダ巻かれてる時の方がずっとマシ。
ようやく終業時間を迎え、一応は他の社員を気にする素振りを見せつつ、『後藤さんはもう上がって良いよ~』の声に甘えて会社を出る。目も頭も使った上におかしな気の使い方をして疲れ切っているせいか、帰る頃には毎日シクシクと頭が痛んだ。駅近くにあるドラッグストアで何年か振りに間に合せの頭痛薬を購入したのは入社した初日の事だったが、一日中痛みが取れずに複数回服用する事もあった為、二枚入っていたシートの内一枚をあっという間に飲み切ってしまっていた。
一週間でこれか。買い足すかどうか迷うラインだわ。
陰鬱な仕事の気配を引き摺ったまま社員寮に戻るのも嫌で、帰る途中にある古い書店に立ち寄って目ぼしい物が並んでいないかをザッとチェックする。そうやって多少時間を潰してから大して欲しくもない雑誌を何冊か買って書店からコンビニに移動し、夕食の時間に口にする物を物色して店内を歩いた。
取り敢えずタンパク質は欲しいけど、肉の塊を食う元気は無いからゆで卵で良いか。野菜はスープので十分、もう寝るだけだし。あと、明日の朝用に何かパンでも買って、水分も摂らないといけないからペットボトルのお茶か何かを……。
上手く働かない頭で身体に必要な栄養を考えながら、そうやって棚の間を何度もウロウロしている内、『ああコレ、ダメになった時と似たような感じの生活じゃないかしら』と思えてしばし佇んでしまった。
十五年前のあの時も、本屋とコンビニに寄って無為に時間を過ごし、寝るためだけにワンルームの部屋に帰って横になり、夢も見ないまま朝を迎える生活を送っていた。そうやって疲れの取れない身体を無理矢理起こしてまた仕事に向かい、消耗した頭で仕事に臨み、ストレスを抱え込んだ挙げ句にあんな馬鹿な事を考えたのだ。今はもうああいうトコに行く体力も無いからそこは大丈夫だけれど。変に神経を使う状況と中々疲れが取れない状態がこのまま続くとしたら、肉体的にも精神的にも流石に厳しい物がある。
地元のように知り合いだらけの場所もそれはそれでやりにくかったと思ったが、誰も知らない土地に来て新しい生活を始めるというのも結構ストレスが溜まるものだ。今の所は職場の誰に何を話して良いかさえ不鮮明で、打ち解けた所ですぐにいなくなってしまう都合上、気軽に愚痴を零せる人間が一人もいないような環境である。そんな中日々のフラストレーションはただ溜まって行く一方で、一週間も経たない内からこんな状況に陥ってしまい、向こうに帰るまでの時間をどう過ごして行けばいいか、少しも見当がつかなくて途方に暮れる日々だった。
疲れ切った身体で何とか小銭を出して会計を済ませ、昼間の生暖かい空気が残るコンクリートの上を寮に向かって黙々と歩く。そんな中、ポケットに仕舞っていたスマホが振動して耳障りな音を立て始めた。
カズちゃんか……。
誰からの着信かを確かめた後、そんな風に思って画面の文字を見なかった事にして、取り出したばかりのスマホをまたポケットに戻す。律儀に電話を掛けて寄越す彼を最初はありがたく思っていたのに、この何日かは言葉を交わす事すら億劫で、度々聞こえてくる着信音は黙って適当にやり過ごす。そうやって特に何をするでもなく、自身の中に空いた空白を埋めるように一人だけの時間を固持していた。
下を向いて歩いていると、周囲の明かりを反射した腕時計が時々キラリと光る。それを目の当たりにする度に胸の奥が苦しくなり、自分の不甲斐なさに一層足が竦むのだ。
つくづく嫌な奴だな私。嫌な奴嫌な奴嫌な奴……。
備え付けのベッドとテーブル以外は空っぽの部屋で、買ったばかりの雑誌を粗方捲り終えた後、床の上に寝転んで簡素なシーリングライトの明かりを眺める。買って来た食料品には結局手を付けないまま、何もない寮でただ過ぎ行くままに時間を過ごした。




