並存するために・4
廊下からリビングに場所を移し、温かい物を淹れてそれぞれの場所で摂取する。そうして少しだけ落ち着きを取り戻した後、「私は多分、家族が欲しかったの」と言った忍が持っていたマグカップをテーブルに置き、まだ赤い目を一尚に向けて寄越した。
それを聞いて目を丸くしたのは一尚だけではなく、一緒に聞いていた両親が顔を見合わせている様を見て、彼女はバツが悪そうに顔を俯けて「ウチの皆は、こんなに温かい家族じゃないの」と続けて言った。
「小さい時から家には誰もいなくて……、私の話を聞いてくれるのはお父さんでもお母さんでもお兄ちゃんでもなくて……、交代で働いてる家政婦さん達だったの」
「そんな、まさか……。だって皆、あんなに忍ちゃんを可愛がって……」
「確かに、美味しいものも可愛い服も買って貰えて、可愛がってくれたかも知れないけど、それって全部お父さん達のタイミングで、お父さん達の都合で、です。皆忙しい忙しいって朝から晩まで帰って来ないし……帰って来ても私の事なんて見てくれないし……。テレビ見たりお酒飲んだりする時間はいっぱいあった癖に、私が居て欲しい時に居てくれた事なんて無かったと思う。お兄ちゃんも学校から全然帰って来なかったし、多分私とおんなじなの。抱っこだって家政婦さんにしてもらった方が多いくらい。良い子でいたって何やったって、誰も私の方なんて見てくれないの。だったらもう、目に留まるように騒ぐしかないじゃない」
不貞腐れたように話しながら、あちこちを少しずつ彷徨う視線はテーブルの上でようやく止まり、さっきまでマグカップを掴んでいた手も所在なさげに何度も組み替えられる。それを聞きながら昔行った事のある広い家を思い出し、そこにぽつんと佇む忍の姿を想像したら言葉が出なかった。
「ナオちゃんは、おんなじ末っ子なのに私に無いものいっぱい持ってたから」と、末弟の事に言い及んだ彼女の目が潤み始めたのを見てティッシュ箱を押しやると、彼女はそこから一枚紙を出してたたみ、目元に軽く押し当てる。
「優しいお祖父ちゃんと両親と、面倒見てくれるお兄ちゃんが二人も。ナオちゃんと一緒に居た時、私もそういう人達に囲まれたみたいに思えて嬉しかったの」
「……だから、尚徳と結婚したいなんて言ってたのか」
「だってそしたら、ホントに家族になれるでしょ。私、ナオちゃんが羨ましかったの」
涙を拭きながら正直に心情を吐露する姿に何故か、先日見た章弘の姿が重なって見えたような気がした。
「昔、私がお祖父ちゃんの大事なお皿を壊しちゃった時の事、覚えてる?」
「あの……俺と尚徳が一緒に謝りに行った時の?」
さっき思い描いたばかりの記憶を辿って言った言葉に、忍がしっかりと頷いて返す。それに「こういう事言っちゃいけないんだけど」と前置きした彼女は、泣いていた顔をクシャッとさせて「あの時カズくんが怒ってくれたの、ホントはすっごく嬉しかったの」と言って鼻を啜った。
あの時、忍が壊したのは陶器の皿だった。小さい子供が走り回るような場所にこれ見よがしに飾ってあったそれには、そんなに価値がある訳では無かったらしいが。それでも忍の祖父にとっては大切な物であったそうで、祖父の大切な物を壊したという事実を受け止め切れなかった忍は、一緒にいた尚徳に罪を擦り付けて自身はさっさと逃げ出してしまった。
そんな事など知らない一尚は食事時に戻らなかった尚徳を探しに出て、割れた皿の側で思考停止して動けなくなっていた弟に事の仔細を聞き、二人を引き摺って彼等の祖父の所へ行ったのだ。
思い返してみればあの時、確かにあの家の大人達は誰も忍を叱らなかったように思う。『私は悪くないもん!』と泣きべそをかいていた彼女を座らせて『皿を割った事より、割った事を人のせいにして黙っていた事の方がずっと悪い!』と仁王立ちで叱り付けたのは、当時中学に上がったばかりの自分だけであった。
あの時忍の周りの大人達に滲んでいたのは失望の念だったろうか。あの家の中は『この子は仕方ない』という諦めに似た呪縛に満ちており、それに触発された忍が益々手が付けられない状態になって別な事態が巻き起こる、なんていう悪循環が生じていたように思う。最初は可哀想だからと相手にしてくれていた大人も、徐々に付き合い切れなくなって相手をするのを止めたのだろうか。その結果、誰にも振り向いて貰えない彼女は更に意固地になって行ったのだ。
忍は何も騒ぎたくて騒いでいた訳ではなかった。自分の身を引き裂く痛みに耐える為に、大声を上げて騒ぐしか無かったんだ。
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「悪い一尚、ちょっとトイレ寄って来るから、後頼んだ」
「あ、うん」
忍の事を母に任せ、父と共に買い出しを済ませてレジに並ぶ。待ち時間が結構かかりそうだと判断し、そう言って去った父を目で追い、遅々として進まない列の最後でカゴを提げたまま待つ。結局今日は忍の勢いに飲まれてしまったまま、大事な話をするタイミングを見失ってしまっていた。
これから改めて真剣な話に持っていける自信はないし、する予定だった『結婚しない宣言』は考えてみれば、真剣に話す程の内容であるかどうかすら怪しい。どうした物かと目の前の人のカゴの中身を眺めて立っていると、すぐ後ろにドサリと買い物カゴを置いて並んだ人があった。
「あれ、久し振りぃ」
「……、どうも」
後ろに立っていたのは章弘の知り合いのあの吉武という医師で、前回同じスーパーで会った時よりもずっと晴れやかな表情で一尚に笑い掛けた。
「お使い?」と一尚のカゴを覗き込んだ吉武に聞かれ、ハイと答えて彼が置いたカゴに目をやる。味噌や醤油、みりんなどの重そうな物が入ったそれを見てまた義妹の言葉を思い出したのと同時に、カゴの中に放り込まれた調味料の数々に、忙しそうなのにきちんと料理をする人間なのだと少し感心した。
「ああ、コレ? こう見えて料理すんの、意外だったろ。今日は久っし振りに何もない休みだし、足りないのの補充に」
「まあ……はい……」
「出来合いばっかだと偏るじゃん。仕事の後どっか寄って食うのも何だし、コンビニか閉店前のスーパーでおつとめ品の肉とカット野菜テキトーに買ってジューして飯にドーンよ」
ジュー、の下りでフライパンを返すような動作を見せた吉武はニカッと笑い、ズボンのポケットから財布を出していつでも支払いが出来るようスタンバイしている。毒気のない雰囲気の彼はそれから一尚の全身をまじまじと眺め、「ちょっと痩せた?」と言って腕組みして見せた。
「ええ。先月、色々あって眠れなくて。今はもう大丈夫なんですけれど」
「へえ。で、食欲は? 飯は食えるの」
「はい。眠れるようになったら食えるようになりました」
「その”ちょっと色々”の方は? 何とかなりそう?」
「……あー、どうでしょう……。その辺は追々、どうにか出来ればと……」
思いの外突っ込んだ事も聞いて来る人だなと返答に困り、視線を外して床の上を見る。その時前の人がレジに一歩進んだのが見え、同じく一歩進んで持っていたカゴを反対の手に持ち直した。一尚同様にカゴを持ち上げた吉武が一歩前に距離を詰め、「別に特別な事しなくても、感じた事口に出すようにすると全然違うかもよ」と言って持ち上げたばかりのカゴを足元に下ろす。優しい声音に思わず振り返って見ると、彼はニコリと笑って手の中の財布を弄り始めた。
「あー腹減った、とか、今日はしんどい、とか、天気良くて仕事したくねえ~とか、さ。難しく考えないで、そういうのを口に出す所から始めてみたら良いんじゃない。イシーさんだったっけ、お兄さん見るからに真面目そうだし、大方、思った事全部溜め込んで寝られなかったんだろ」
「う、……」
ぐうの音も出ない、とはこういう事を言うのだろう。カラカラと笑って言う吉武に何を言い返す事も出来ないまま、一尚は視線を外して彼の手元を見ていた。話しながら彼はずっと財布を閉じたり開いたり、意味のなさそうな動作を繰り返している。
「聞いてくれる人は周りにいる訳だしさあ。働いて食って寝て運動して、程々に鬱憤吐き出してラクにやったら良いと思うよ」
手元の物をいじる時は何かしらの葛藤を抱えている時と何かで読んだ覚えがあり、彼のその動きが何から来るのか、頭の隅でふとした疑問が湧き上がった。しかし湧いた疑問をその場で解消する時間は無いようで。トイレから戻った父が小脇にしっかりビールの六缶パックを抱えて現れた様を見て、口を噤まざるを得なかった。
「あ! これは先生、どうもどうも、その節は」
「あ、どうも。やだなあイシーさん、こんなトコでまで先生は止してくださいよ。っていうか、そのビールは? 見た事ない奴ですね」
「ええ、今家内に頼まれまして。数量限定品だそうです」
「ああ~良いですね。ちなみに肴は何を?」
「ふふん、今日は餃子です。帰ったら皆で餡を包んで大量に焼きます」
父よ、そこで何故誇らしげにそれを言うのだ。と成り行きを見守っていた一尚を振り返り、吉武が「俺もそうしよ」と笑ってカゴを持つ。そうして自身を見ている一尚に「じゃ、お互い程々に頑張ろうや」と言って軽く肩を叩き、彼は列から離れて酒売り場の方へ歩いて行った。




