並存するために・3
「じゃ、お彼岸位に帰るから、家にあるのは好きに使って。……あ、でもオンナ連れ込んだりしたら容赦しないわよ。死刑ね死刑、マジぶっ殺す」
「しませんよそんな事。行ってらっしゃい、向こうまで気を付けて」
「カズちゃんも。風邪ひかないで、元気にしててね」
三月に入った最初の日。例年よりも暖かい日差しを受けながら、章弘は大きめのスーツケースを転がして投げキッスの真似事をし、颯爽と駅の構内に消えて行った。
新しい勤務先は入社と同時に新人研修があるようで、県境を二つ三つ越えた場所にある本社へ出向く事になる。三週間程のその研修を終えてからようやくこの近くにある系列会社に配属となり、こちらの会社でも一定の研修期間を過ごしながら、同時に企業保健師としての業務も始まるそうだ。
殆ど一ヶ月という長い期間になるが、自分が留守にしている間も自由に部屋に出入り出来るようにと、彼は一尚に自室の鍵を預けて行った。直接手渡されたそれは黒いプラスチックを頭に被ったようなディンプルキーで、章弘の持っている物と同じくエントランスのセンサーにも反応する。受け取ったばかりのそれを見ていると、ほんの数日前までの自身を心底蹴飛ばしてやりたいと思えてならなかった。
どうして彼が離れて行くと思ったのか、今となっては謎である。こんなに心を傾けてくれている人が、生活が変わった位で切れる事がないと何故信じられなかったのだろう。
『これあげる。しんどくなったらウチの本でも読んでいて。少しは気も紛れるでしょう』
今朝。朝食を終えた時に章弘はそう言い、一尚にこの鍵を手渡した。あの空間が彼にとってどれ程大切な場所であるか、判らない程馬鹿ではない。この鍵は言わば、章弘という人間を誰かに開示するツールの一つなのだ。あそこは要塞だ。あの部屋にある全てが彼を癒やす為に存在し、溢れる程あった書籍はきっと彼を守る武装であり、外圧に立ち向かう武器でもあったのだ。
一尚が揺らいでいる自分の評価を外に求めたのとは逆に、彼は周囲との関わりの一切を断つ事で、打ちのめされた自身を守って来たのだ。そうやって閉じ籠もった殻から外へ出る事を決めるには相当の勇気が必要だっただろうし、最初の一歩を踏み出した後、また同じ殻の中へ戻らない……いや、戻れないと判った時も、どんなに心細かっただろうと思う。
そんな場所の鍵を渡す相手として彼が選んだ自身を、少しずつでも誇れるようにならなければ。でないとこの鍵を受け取る資格がないし、自分を思ってくれる彼に対して失礼である。
章弘が閉じ籠もっていた殻から出て行くと言うのなら、一尚は他の誰かの評価に依存していた自身の事を見つめ直さなければならない。一尚自身、逃げっ放しの自分にはうんざりしていた所だ。あのままでは大切な誰かにもっと心配を掛けただろうし、逃げ回る時間が長ければ長い程、きっともっと身動きが取れなくなっていた。
目を背けた所で結局自分自身からは逃れられなかった。どうせ同じ場所が痛いのなら立ち向かう痛みの方がずっとマシな筈なのだ。
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シャッターが開け放たれた状態の車庫に車を入れ、家の門に向かう。その途中で車のドアをロックしている間に玄関のドアが勢い良く開かれ、エンジン音を聞いたらしい父が「一尚!」と足早に近付いて来た。顔を見るなりホッとした表情を見せた父に思わず「心配掛けてごめん」と言うと、首を大きく横に振って「いやいや、子供の心配は親のライフワークだ」と苦笑で返され、言葉に詰まってしまった。
「その後身体の具合は。何処か辛い所は」
「あの朝に比べたらずっと良いよ。週明けには復帰出来ると思う」
「そんなに急に、大丈夫なのか……」
「決算期だし、無理しないとは言えないけど……。ダメそうだったら、悪いけど親父に振るよ」
「……そうだな。それが良い」
こちらに手を伸ばす父に近寄ると、昔ほど大きくも長くもない腕を肩に回されてギュッと引き寄せられた。誰かにこうして肩を抱かれるのも実に久し振りの事で、まして父にこうされたのはいつ以来だろうと考える。触れられた場所から伝わる体温にはやはり、そわそわと奇妙な焦燥感を覚えて落ち着かない。それでも振り解かなければいられない程の不快感には及ばず、しばらくの間苦しんだあの感覚も心因性の物であったのではないかと思えた。
「一尚。お帰りなさい」
「……ただいま」
玄関を潜ってすぐ、そこで待っていた母と対面する事になる。上がり框の上から母からも腕を伸ばされ、グッと頭を引き寄せられて包み込むように抱き締められる。一尚がまだ三和土の上にいる分、普段ならある身長差も縮まっており、すぐ近くにある母の顔を横目に見てむず痒さが湧き上がった。
頭全体を包むような柔らかな抱擁は実に女性らしく、ピタリと密着した状況に母性という言葉が思い浮かぶ程だ。対して、先日受けた章弘からのハグはどちらかというと海外ドラマなどで見る父子の抱擁に近い軽い物で、思わぬ所で彼を男性らしく感じられた。
「……忍?」
ふと。視線を廊下へ向けると、不自然に立ち止まったままの忍の姿が見える。いつもなら真っ先に飛び出して来てビャービャーと騒ぎそうな彼女が、今はやけに強張った表情でこちらを見ている。その表情と蒼白になった顔色には一尚も覚えがあり、母の腕を解いて立ち尽くしている忍の傍に向かった。
昔、彼女が自分の祖父の大切な物を壊した時、似たような顔をしていた事を覚えている。その時は近くにいた尚徳が濡れ衣を着せられて大いにメソメソしていた物だが、逃げ回っていた彼女を捕まえて一緒に謝りに行った時、こういう表情をして下を向いていたのだ。
見張ったままの目の淵には涙が溜まっている。それを見て「どうした」と尋ねると、彼女はその目で傍に立った一尚をジッと見つめ、「ごめんなさい」と小さな声を出した。
「……具合、悪くさせてごめんなさい……」
「どうして。お前が謝る事じゃない」
「……怒らないの……?」
「怒らない。俺がこうなったのは別に、忍のせいじゃない」
「何で……? 私が来なかったら、カズくん元気だったでしょ。私が我がまま言ったから、私が嫌だったから、苦しかったんじゃないの……?」
「そうじゃない俺が苦しかったのは俺の問題だ。ずーっと自分に向き合う覚悟が出来ないまま来たから、忍が来なくても多分……いつかはこうなっていたと思う。だからお前のせいじゃない。謝る事なんかないよ」
涙目の忍に向き合いながら、自分が泣きたい心境になっていた時、誰に何をして貰ったかを考え、この数ヶ月の間に何度も頭に触れた手の感触を思い出す。それを真似て忍の頭に手を伸ばし、綺麗にまとめられている髪を撫でると、彼女の目にはまたじわりと涙が滲み、瞼の外にボロっと大粒の涙が零れ出た。
会社に怒鳴り込んできた初日はあれだけ声を張り上げて泣いていたというのに、今日の彼女は声もなくさめざめと泣いている。その姿に驚いた母が近寄って抱き締めても彼女が泣き声を上げる事はない。静かに流れる涙を服の袖で拭う忍を前に、こんなにも感情に素直になれる彼女を羨ましいと思えた。
「忍は凄いな」と思わず出た言葉はその本人に視線で受け止められた。
「俺は人に失望されるのが怖くて、自分の感情に素直になれなかった。我がままは少し過ぎるけど……お前って実は、自分の軸をしっかり持ってる凄い奴なんだな」
一尚が染み染みと言った言葉に対し、忍はしばしの間瞬いて返す。予想もしなかった事を言われて流れていた涙はどうやら止まったようで、頬を濡らす雫がそれ以上溢れる事はない。
「……おまえ、て、言わないで」
やがて捻り出した声は震えていたが、いつも通りの言い草に口元が緩む。泣いていた目に少し力が戻ったのを見て思わず腕を伸ばし、母の体ごと軽く包んでやる。自分にも咄嗟にそんな芸当が出来たのだと驚きながらも、そうして「ほら。ブレない忍は凄い」と言ってやると、彼女の目はまた止めどなく涙を流し、溢れた雫が頬を伝って落ちて来た。
「すごくない……っ、わかってるもんっ……! 空気、読めないし……つまんない、し……なんにもできなく、て……うるさくて、いっつも自分の事ばっかりっ。だから皆が、嫌になるって、自分でわかってるもん……っ!」
「おお、合ってるぞ忍。よく判ってるな、偉い偉い」
「ばかにしないで!」
「馬鹿になんてしてない。そこまで判ってる忍は凄い」
「すごくないもん!」
「はいはい、凄くない凄くない」
「~~~~もう、カズくんのばかぁ!」
そうして忍がいつも通り声を上げた所で、後ろで成り行きを見守っていた父がブフッと噴き出したのが聞こえる。それに釣られた母もクスクスと笑みを漏らしたのを聞き、真っ赤になった忍が「わらわないでっ」と涙声で強がる物だから、彼女が落ち着くまでの間、笑い声を噛み殺して過ごす事になった。




