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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
36/60

並存するために・1

 気付いたら自分の部屋とは違う所で横になっていた。カーテンの隙間から光が差しており、今が夜ではない事が覗える。ざっと部屋の中を見回してポールハンガーに見覚えのある色の上着が掛けてあるのを見付け、自分が章弘の所にいた事を思い出し、時計のない空間で目を開けたままぼんやりと天井を眺めて過ごした。


 ……結構眠った気がする。


 何週間か振りの熟睡感で頭は寝惚けていても気分はスッキリとしており、身体からもあの重苦しさが消えている。どれ位寝ていたのかと寝転んだままポケットを探ってスマホを出すと、時計よりも先に画面を埋め尽くしている通知の方に目が行った。

 全部忍からだ。

 何も言わずに出て来た上に帰らなかった物だから、心配して何度も電話やメッセージを寄越していたようだ。昨日の夜辺りからは一切の連絡も無いようなので、章弘が父にでも何某かの連絡をしたのかも知れないと考える。

 通知欄を確認してから日付を見て、ここへ来てから殆ど二十四時間経過している事が判った。それだけの時間を眠って過ごしていた事に驚き、慌てて身体を起こすとグラリとひどい目眩がする。一日中補給もせずに眠っていた身体で回る視界に堪える事は困難で、起きた勢いのまま枕に倒れ込む事になった。

 せめて水だけでも飲まなければいけないと思い、今度は身体の負担を考えてゆっくり起き上がる。起き上がったら眼鏡が無くてひとしきり探す事になったのだが、どうやら章弘がベッドボードに置いてくれたようで、見つかった物を掛けて一安心する。そうして寝室から出てリビングに向かうと、こたつの近くに綺麗にたたまれた布団が鎮座しているのが見えた。

 室内からは人の気配が無く、この布団に寝ていた家主が出掛けているらしい事が判る。壁の時計が示す時刻は自身の出勤時間よりも少し早く、そんな時間でも彼が出掛ける事があるのだと思った。

 何か飲み物を貰おうとキッチンに向かい、調理台にドンと置かれたスポーツドリンク入りのペットボトルを見つける。それには何かのオマケのようなカラフルな付箋が貼られており、可愛らしいキャラクターの付箋にはボールペンの黒いインクで『召し上がれ』というハートマーク付きのメッセージが書かれていた。


 思ったより字が綺麗だ。


 また新たに見付けた章弘の一面にそんな感想を抱き、固い紙質の付箋に触れてバランスの取れた文字をなぞる。ペットボトルから付箋を剥がしてスマホのカバーに貼り付け、後で手帳にでも貼って取っておこうと思う。我ながら気持ちの悪い事を考えていると思いながら厚意に甘えて適当にグラスを手に取り、用意された物を口に運んで一息吐いた。


 誰もいない空間に安堵している自分がいる。こうしていると誰の目も気にする必要が無いし、自分の事だけを考えていられる。でも一尚は一人で生きていられる程人が嫌いな訳ではないから、自分一人だけの生活にもきっと限界があって、いつかは誰かと関わりを持たなければいられなくなる。

 だからって誰かに近付くと、今度はその人が離れて行く姿を考えて怖くなってしまうのも判っている。それが判っていながら、自分一人でいられないというのも実に厄介な事だと思った。


『お前は誰に対してもいい顔したいだけなんだよ』


 いい顔をしているだなんて買い被りも良い所だ。

 一尚には自身の価値を見出だせないから、頼って来る人間を自分の価値を推し量る道具として利用していたに過ぎず、佐山が言った通り『冷たい人間』なのだ。だから誰の事も『好き』になれる訳がなく、こういう自分の事を本当に判ってくれる人なんて現れる筈がない。それが意図せず人を傷付けて来た一尚に与えられた罰だと、もしかしたら半ば本気でそう思っていたかも知れない。

 最初の頃は章弘の存在だって、そういう物でしか無かった筈だった。なのに彼が纏う空気はとても居心地が良く、いつからか心を許してしまっていたのだ。大抵の人はライフステージの変化と共に付き合い方が変わるから、元々あった距離が自然と広がって行き、お互いがそんな風に深入りし過ぎる事も無かった。だけど彼にはそういう変化が無く、ずっと同じペースで付き合う事が出来た。

 今ならその理由がはっきり判る。自分と同じく停滞していた章弘は、いつも変わらない付き合いが出来る唯一の存在だった。


 一尚が欲していたのは変わらずに付き合っていける誰かだ。隣に立って同じ日々を過ごしてくれる人だ。


 この年にもなれば不動の物など存在しない事は判っている。何にでも終わりが来る事も。

 だから何かが動き始めた時期に現れた忍を拒否出来なかったのもきっと、いずれいなくなってしまう彼に代わる物を求めたからだ。そうやって自分勝手に画策して距離を取ろうとしたのに、それが思った以上に心にも身体にも響いたらしい。

『らしくないよ』とあの日銭湯で言われた言葉が耳の奥に蘇り、チクリと胸が痛んだ。そして同時に『性に合わない事はしない方が良いよ』と言った彼を思い出し、全くその通りだったと自嘲して天井を仰ぐ。こんな有様の人間が、誰を引き留められる物か。

 この空間のそこかしこに溢れる彼の気配に、湧き上がるのは苦い思いばかりだった。




 キッチンで少し水分補給をし、そのままリビングの棚にある雑誌を捲りながら怠惰に時間を過ごす。そうしている内に玄関の方で鍵の開く音がし、ガサガサと何かを提げた章弘が「ただいま~」と帰って来た。

 その声を聞いて雑誌を棚に戻し、「お帰りなさい」と返して玄関に向かう。歩いて来る一尚を認めた彼は「おはよ、起きられた?」と目を細め、脱いだ靴を三和土の端に揃えてキーケースを無造作に下駄箱の上に置いた。


「おはようございます。ベッド占領してすみませんでした」

「良いわよ。そんなに心配してくれるならまた抱き合って寝ましょう」

「それは遠慮します」

「あら調子出て来ちゃったの? 可愛くなくなっちゃったわね」


 茶化すように言いながら廊下を歩く彼は手にエコバッグを提げており、そこからは透明なフィルムに包まれた長いバケットが入っているのが見える。パン屋にでも行ってきたのだろうかとそのバッグを見ている一尚を振り返り、章弘は「お腹空いたでしょう」と言って脱衣所のドアを開けて中の明かりを点けた。


「ちゃちゃーっと朝ご飯作っちゃうから、先にシャワー浴びて来ちゃって。私の部屋のクローゼット開けて良いから、適当に着替えて洗濯物出しておいてね」

「何から何まで……すみません」

「そんなに畏まらなくって良いのよ。好きでやってるんだから」


 恐縮して頭を提げた一尚を相手に、章弘がそう言って柔らかく笑って見せる。その表情を目の当たりにして、また胸の奥がギュッと締め付けられるように苦しくなった。


「ご飯を食べて落ち着いたら、聞いて欲しい事があるの」


 その柔らかい笑顔のまま、章弘が言った言葉を恐ろしく思う。きっと抱いた感情はそのまま表情に出たのだろう。彼はすぐにこちらに歩み寄り、聞かされる話の内容を邪推して不安を抱いた一尚の手を取った。

「お願い」と言った声は少し震えており、穏やかだった笑顔が切なげに歪んでしまう。それを見てまた咄嗟に怖いと思った自分がいて、無理矢理「はい」と絞り出した声は掠れて声にならなかった。


「……これじゃ脅してるみたいだね。ダメダメ、今のナシ。やり直し」


 一尚の返答を聞いて苦笑した章弘が手を離し、エコバッグを床に置いてこちらに向き直る。そうして更に近寄って両手を広げた彼に一瞬身体が強張ったが、肩や背中に優しく軽く触れた腕も、互いの鼓動が伝わりそうな程近付いた胸も、どうしてか不快には思わなかった。


「大好きなカズちゃんと話したい事があるのよ。私の馬鹿な話を聞いて欲しいし、カズちゃんの話も聞きたい。これは私のお願い」

「お願い……?」

「私がお喋りしたいのはカズちゃんと一緒に、少し前に進みたいから。でもカズちゃんがイヤなら断ったって良いの、そしたら今までとおんなじ。何も変わらない」

「……同、じ……」

「ホント言うと私もちょっと怖いけど、それでもカズちゃんと話がしたい。カズちゃんは? 私に話したい事、ない?」


 すぐ近くで声が聞こえる度、耳だけでなく密着した胸に低い声が響く。慣れない感覚に鼓動は少し乱れ、いくらか息も苦しくなる。しかし彼が言った言葉は胸の奥にこれまで抱いてきたどの不快感とも異なる波を起こし、胸の奥を締め付けるような憂いを少しずつ切り崩していくようだった。


 今、彼は『一緒に』と言ったか。

 立ち止まったままの一尚を連れて行くと言ったか。


 一度立ち止まった人間が前に進むのにどれ程エネルギーを使うか、それがどれ程大変な事か、一尚だって判っているつもりだ。動き出した事できっと嫌な思いも辛い思いもしただろうに、それらを切り抜けた先でなお、立ち止まったままの一尚を引き受けてくれると言うのか。

 例えば同じ立場だったとして、自分に同じ事を言えるだろうか。ようやく進んだ先で人の事を考える余裕なんかあるんだろうか。


 元々、色んな意味で凄い人だとは思っていたけど。


 この人は何て人だろう。どうして一尚が求めている言葉を使えるのだろう。どうしたらこんなに懐の深い人間になれるのだろう。


「あ、ります。章弘さ、んに……話したい事、多分、沢山あります」


 優しいハグをくれた章弘の肩に、背に、腕を回して何とかそう答える。詰まったように苦しい喉から放り出した声はやはり掠れており、途中途中で突っかえた言葉を自分でも情けなく思った。それを聞いた彼が優しく笑ったのが聞こえ、大きな手が優しく何度も背中を撫でるので、抱いていた感情は決壊してすぐに目の前が滲んで見えなくなった。


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