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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
35/60

停滞するココロ・4

「お父さんのせいじゃありませんよ」


 黙って話を聞いていた章弘がそう切り出すと、俯いていた石井社長がふっと顔を上げてこちらに目を向けた。複雑な感情に揺れ動いている彼の目に見られるのはすこぶる居心地が悪いのだけれど、だからと言って黙っているのも忍びない。

 こちらを見つめる両の目からは少し顔を背けながら、章弘は「最初のきっかけを作ったのは恐らく、私の方です」と僅かに震える言葉を吐いた。


「私、知り合ってからずっと一尚さんに迷惑を掛けてばかりだったので、これではいけないから、今年は流石に自立しようと思ったんです。昔色々あって逃げていた事と向き合って前に進もうかなと。そう思って年明けから動いていたんです」

「……それは、良い事じゃありませんか。なかなか出来る事じゃないと思いますよ」

「ありがとうございます……。でも私の場合、初動にミスがあったと申しますか。私はどうも、昔から物言わずに動き始める悪いクセがあって。誰にも何も言わずに急に新しい事をやり始めてしまうから、それが周りにいる人を不安にさせてしまうんです」

「不安に……?」

「ええ。こんな事を自分から言うのもおかしな話なんですけれど。私、今回も誰にも何も言わずに動き始めてしまったので、それで一尚さんを不安にさせてしまったのではないかなと。ほら、人間誰でも環境の変化にはストレスを感じる物ですし、慣れない事で疲れている時に、タイミング悪く私が急に動き出したから、彼も焦っておかしな方向に動き始めてしまったのではないか、と。お父さんのお話を聞いていて今、そんな風に思いました」


 ただのオカマの妄言だなんて言われないように、出来るだけ言葉を選んで、筋道を立てて辻褄が合うように伝えようと心がける。それを真剣な表情で頷きながら聞いている社長が再び口を噤んだのを眺め、章弘も目の前の作業台に視線を戻し、少しずつ片付けに取り掛かった。使った道具を洗ったり拭いたりしている合間に何度か手が止まり、考え及んだ事の方に身が入ってしまう。仕事中に物思いに耽るのは止めようと常日頃から思っているのだが、今日だけはどうしても止められなかった。



 一尚の学生時代にあったという親友と彼女の不義。それはもしかしたら、順風満帆に生きて来たであろう彼の、最初にして最大の挫折だったんじゃないだろうか。


 大学生ともなると家族以外にも多くの関係性を持っているだろうし、そういう人達との関わりの中で様々な一面を持つ己自身に気付き、自分という存在を形成して行く時期だろうか。そうやって形成した自分を周囲に受け入れて貰い、居場所を確保する事で、自分という存在に対する肯定感や生き方の指針のような物が少しずつ見えて来る年頃だ。

 一尚の場合はそこに信頼していた人達の裏切りという出来事があって、形成される筈だった同一性と肯定感が一気に拡散してしまったのだ。その時受けた傷はきっと思った以上に深い所まで刻まれ、向き合おうにも乗り越えようにも、足が竦んで動けない状態なのだろう。

 面倒見が良いのは元々の性格もあるのだろうが、自身に対する肯定感が薄い点にも起因してそうだ。彼は誰かに頼られる事で、肯定される事で、無意識に揺らいでいる自尊心の回復を図ろうとして来たのかも知れない。

 そして今回、そうやって懸命に立っていた彼をドン底に陥れたのは章弘だ。黙って先に進み始めた章弘を見て、何処へ進む事も出来ずにいた彼はどんな風に思ったのだろう。どんな思いで結婚という選択肢を選び、眠れない夜を過ごしたのだろう。



「付かぬことをお伺いするようですが」とカウンター席の石井が呟くように言い、ハッとして「はい」と答えて向き直る。戸惑っているような表情の彼はそれでもさっきよりも随分落ち着いた様子をしていて、「気分を悪くされたら申し訳ない」と言葉を選ぶようにゆっくり声を出した。


「後藤さんと一尚はその……、付き合って、いるので……?」

「……へ?」

「あ! いや! 違うのなら違うで構いませんし! そうだったってその……そういうのをどうこう言うつもりでは! 決して!」


 予想外の言葉を思わず問い返した章弘に、彼は慌てて利き手の掌を突き出してそんな事を言う。「あ、いえ、こちらこそすみません」と間の抜けた返答を侘びた章弘は手にしていた道具を置き、何と返そうかと考えてふと気付いた。


 ここ最近はずっとカズちゃんの事を考えてた気がする。


 勿論昔の事や将来の事、仕事の事など、そういう事も多少考えはしたが。そもそも章弘が前に進む事を決めたのは、一尚に甘えっぱなしでいたくなかったからだ。ここまで掘り下げて考えずとも、彼の生き方には独特の空気の揺らぎがあって、幹は太くて丈夫そうでも根っこが細いままである事はすぐに判った。そういう彼に気付きながら、章弘がズルズルと甘えて来たのも確かだ。

 優しい彼はきっと章弘が何処まで落ちたとしても捨てずに傍で支えてくれただろうし、頼られる事で自我を保っているような状態の彼が、そう簡単に人の事を切り離せる訳がないのだ。だからあのまま、自身の事まで背負わせて、足元が覚束ない彼を苦しめる訳には行かなかった。


 付き合うだの何だの、相変わらずそういうのはよく判らない。でも少なくとも章弘はまだまだ彼と関わっていたいし、多少生意気な事を口にしていても元気でいて欲しいと思っている。それが社長の問いへの答えになるだろうか。


「確かに私の方はこの通りゲイですけれど」という前置きをし、視線をゆっくり上げて石井社長と目を合わせる。それに頷いた彼の顔にはまだ戸惑いが見え隠れしているように思えたが、押し潰されそうな程の落胆の色はもう見られなかった。


「お互いがどうとか、付き合う……とかはまだよく判りません。でも私の方はとにかく、一尚さんが可愛くて仕方ないみたいなんです」

「あれが可愛い、ですか」

「ええ。甥っ子の年が近いから似たように思えるんでしょうか。見た目が良くて要領も出来も良いけど、お人好しで不器用な所、案外嫌いじゃないんですよ」

「そうですか」


 章弘の答えはどうやら石井の許容範囲内に収まったらしく、ホッと息を吐いた彼の表情がようやく緩む。その反応にこちらも肩の力を抜いた所で、そうして更に「それなら、良かった……」と言った声が少し震えている事に気が付いた。張っていた気を抜いたからか、もっと違う理由があってか。安堵したように細められた目からはツルリと静かに雫が落ちた。


「誰かと一緒になるのがあんなに苦しいなら……、あのまま誰も寄せ付けないで、ずっと……、ずっと一人でいるつもりなのかと……。でも、そうして貴方が近くにいてくれるなら、あいつは一人ではないんですね……」


 滲んだ涙と感情で多少声を震わせながら、石井は笑ってそんな事を言う。カウンターの中からティッシュを箱ごと差し出すと彼は礼を言って受け取り、涙と鼻水を拭ってすっかり冷めてしまったモヒートに口を付けた。

 目の前で溢れた感情の片鱗に少し鼻の奥がツンとした気はしたが、それ以上の反応は何とか堪えて平静を装う。それがこのカウンターの中にいる間の、せめてもの矜持だ。努めていつも通りに頬杖をついて「彼が一人になる訳ないじゃありませんか」と言った章弘に、グラスを置いて両手を組んだ石井社長が一瞬キョトンとした顔をした。


「あんなイイ男がいたら、オトコもオンナもほっときませんよ。一体誰の息子だと思ってるんです?」

「……ふ。また、上手い事を仰る」

「本心です。一尚さんは絶対一人になりません。ひと目見たら誰だって彼の魅力に当てられてしまうし、多少ナマイキは言いますけれど、あの忍耐強さと安定感は皆が頼りにしていると思いますよ。社長のようなイイ男が手塩にかけて育てた息子が、誰にも愛されないなんて事、有り得ないじゃありませんか」

「ありがとう」


 一瞬泣き笑いのような表情でそう言った彼は、スッと席を立ってトイレの方へ歩いて行く。その背中を見送る間は流石に堪えられなくて、目に滲んでいた物を指先だけで静かに拭った。




----------




 閉店間際のスーパーに寄って自宅へ戻ると、部屋の中はひんやりとして真っ暗だった。とても人がいたと思えない空間に驚いて玄関の明かりを点けて見ると靴はあり、一尚がまだ室内にいる事が覗える。もしやと思って買って来た物を玄関に置いたまま、静かに靴を脱いで寝室に向かった。

 朝急いでカーテンを開け放ったままの室内でベッドに沈む人影があり、『あの後ずっとここで寝てたのか』と考えて一人で苦笑した。廊下からの明かりを頼りに、開けっ放しだったカーテンを閉め、寝ている彼に近寄って乱れた寝具を掛け直してやる。そうしてベッド脇に座って見ると、彼が何故か眼鏡を掛けたまま横になっている事に気が付いた。

 金属製のフレームをそっと引いて顔から離し、ベッドボードに避難させる。顔に付いた眼鏡の跡を軽く押しても全く起きる気配はなく、スースーと気持ち良さそうな寝息を立てている姿に自然と笑みが漏れた。


 あーあ。幸せそうに寝ちゃって。


 こういう無防備な姿を晒してくれる程度には信頼されていると、ちょっと自惚れても良いだろうか。

 明日。ぐっすり眠って起きた一尚に、きちんと顔を合わせて話をしようと思う。年明けから考えていた事の何をどう切り出したら良いのか見当もつかないが、このまま黙って有耶無耶にしてしまうのは得策ではないような気がした。


 私の環境が変わる前に、今思っている事をきちんと伝えて置かないと。


 押し付けがましい表現をせず、気負わせ過ぎないように。だけど自分が一尚を大切に思っている事はきちんと伝わるように。いっそ思考の中身を割って見せてやれたら良いのにと思いながらまた一人で苦笑し、目の前で眠っている一尚の髪を軽く撫でた。

 人の寝顔をいつまでも眺めているとこちらも釣られて眠くなってしまいそうである。名残惜しいがベッドから立ち上がって上着をクローゼットに掛け、寝室を出て買って来た物を取りに玄関に向かった。

 エコバッグを拾い上げながらふと、玄関の壁に付いた飾り棚に目が行く。その棚の下部に鍵を掛けるフックがいくつか付いているのに今更気が付いて、何を考えるでもなく『あ、コレだ』と一瞬で頭がクリアになった。


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