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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
34/60

停滞するココロ・3

 カランとドアベルが鳴る音が聞こえ、殆ど条件反射で「いらっしゃいませ」と出入り口へ向かって声を掛けた。


「こんばんは後藤さん。昼間はどうも、お電話ありがとうございました」

「石井社長、お待ちしておりました。あのー……本人は今頃、私の所で本を読み漁っていると思いますが」

「居所が判れば大丈夫です、捕まえていただいてありがとうございました。いつも本当にお世話になって、何とお礼を申し上げれば良いか」

「いいえとんでもない。こちらこそ、こんな年してご子息にはお世話になりっぱなしで」

「はは、何を仰る。後藤さんもまだまだお若いですし、あんな倅で良ければじゃんじゃん迷惑を掛けて下さい」


 入って来たのは一尚の父親である石井社長だ。平日なので流石に仕事の後とあって少々疲れている様子は見られたものの、笑窪が出来たチャーミングな笑顔に釣られて笑い返す。

「これ、つまらない物ですが皆さんで」と手渡された手土産はやけに重たく、紙袋の大きさとタプタプと揺れる中身から、高級なお酒である事が覗える。

「わざわざご用意いただいたんですか?」と返しながらすぐにオーナーを振り返って判断を仰いでみると、彼はただ頷いて『貰っておけ』と唇だけで返事をしたので、礼を言って素直に受け取る事にした。

 頂戴した手土産はすぐにカウンターの中のオーナーに手渡し、「コートをお預かりいたしますね」と上着を示すと、「ありがとう」と言った石井が着ていた上着を脱いで手渡してくれる。それをクロークに掛けてカウンター席へ促しながら、彼の着ているテラコッタカラーのニットについ見入ってしまった。


「ああ、倅のお下がりです。親なのにお下がり、おかしいでしょう」

「道理で見覚えがあると思いました。社長がお召しになるとまた雰囲気が変わりますね。顔周りが明るくなって素敵だと思いますよ」

「ははっ、お上手ですね。私もまさかこの歳でこんな色の服を着るなんて思いませんでした」

「よくお似合いですよ」

「いやあ大将、後藤さんは褒め殺しの天才ですな」


 石井の軽口に笑って二度も頷いたオーナーがカウンター席にお冷とチャームを並べ、章弘にカウンターへ戻るよう手で指示を出してフロアに出て来る。そのまま事務所に入って行くオーナーと入れ違いにカウンターの中へ入り、着席した石井におしぼりを出して「何かお作りしましょうか」と笑い掛けた。


「そうだなあ……、モヒートが飲みたいな。温かいの、甘さは控えめで」

「畏まりました。今お作りしますね」


 温かいおしぼりで両手を拭き終えた石井は、カウンターの中で作業し始めた章弘を興味深そうにニコニコ眺めている。その視線を受けつつ、もう随分前にオーナーに教わった通りの手順を踏んでミントの葉を潰しながら、章弘は昼間見た一尚の姿を思い描いた。




『章弘さん、本を見せてください』


 章弘にしてはまだ早い時間に電話で起こされ、開口一番にそう言って訪問の約束を取り付けた彼は、それから程なくして章弘の住むマンションに現れた。招き入れた彼を見た時、あまりの変わり様に衝撃を受けた。連休前に会った彼も疲れた顔をしていたと思ったが、今日の彼はその時以上に窶れて病人のような顔色をしていた。普段の一尚からは想像も付かないような、どんよりとした目と薄らぼけた表情がその異様さを一層引き立てており、対面した時は少しの間声も出せなかった。


『朝からすみません、失礼します。何冊かお借りしてすぐ出て行きますから』

『ちょ、ちょっと待ってカズちゃん、ちょっと見ない間に痩せたわね? ご飯は? ちゃんと食べたの?』

『飯なんか食ってる場合じゃないんです。兎に角本を』

『待って待って、それに何でこの時間に私服なのよ。その袋薬局の袋よね。会社休んだの、どっか悪いの?』

『こんなの大丈夫です、原因さえ判ればどうにでもなりますから。ちょっと、すみません』

『あ、ちょっと待ちなさいって、こら!』


 あの時の彼はやけに差し迫った顔をしていて、前に立った章弘を押し退けてまで本の部屋に行こうとして、何を聞いてもまるで会話にならなかった。仕方なく『本が読みたかったらまずご飯を食べなさい!』と発してどうにか言う事を聞かせ、適当に用意したお茶漬けを食べ始る彼を見ながら、提げていた袋の中身を覗かせてもらった。七日分と書かれた袋に入っていたのは軽い睡眠導入剤だ。それを見てすぐに彼の変わり様に合点が行き、彼が抱いていた不安が思った以上に根深かった事を知った。


 あの様子ではきっと周りの事など目に入らないだろうし、店に出勤する前に彼の勤める会社へ電話して社長に繋いで貰い、その時の状況を伝えはしたのだ。必要なら自宅に送り届けると申し出た章弘に、石井社長は『もし差し支えなければ、しばらくそちらに置いてやって欲しい』と言い、仕事の後で店に寄る事を約束したのだった。




「息子には年明けから私の体調の事で負担を掛けていたんです。思えばその頃から少し様子がおかしかったような気がします。あんなになるまでどうして気付いてやれなかったのか……」


 章弘が出したモヒートに口を付けた石井は、疲れた表情で溜息混じりにそう言葉を漏らした。

 がっしりとした安定感のある体躯ではあるが、この社長には心臓の持病があると一尚が言っていたのを思い出す。年明けはそれによる不調で一尚が代わりに動き、新春の集まりに奔走していたのだそうだ。


『少し前から頭痛がしてます』


 少し前にハローワークで会った一尚の青白い顔と、何処か心許ない様子の立ち姿を思い出す。今思えば慣れない事をして余程気を張っていたのだろう。

 それにそういう集まりに社長秘書とはいえ年の近い女性を伴って出向いていたとなれば、当然その人との関係を勘繰られたり、囃し立てられたりもしたかも知れない。そういう類の話は冗談だとしても好きではない人だし、反論できない立場であった彼にとってそれらが如何に不快だったか、章弘には想像する事しか出来ない。


「新年の挨拶回りが一段落したと思ったら、二月に入って急に、あれが知り合いのお嬢さんを連れて来たんです。相手はちょっと気性が激しい子で、元々はウチの三男を気に入っていて、私もいずれ三男とくっ付けようとしていたんですが……」

「確か……そちらの息子さんは職場結婚でしたか」

「その通りです……。だからそのお嬢さんには頭を下げて引いて貰っていたのが、今度は何でか一尚の嫁になると言い出しまして」

「それが噂の、濱村のお嬢さん」

「はい……。流石、随分と良くご存知で」

「こういう仕事ですから」

「そうでしょうね」


 話しながらグラスの中身を口に入れた彼は、ふう……と深めに息を吐いた困ったように笑う。滲み出る何かの感情に耐えるようなその姿は、やはり何処か一尚に似ていると章弘は思う。


「ちょっとした事情があって、それからしばらく濱村のお嬢さんをウチでお預かりしているんです。勿論正式な婚約もまだですから、部屋も生活空間も当然別にしていますよ。間違いがあってはいけませんから」

「ええ、そうでしょうね」

「でもココだけの話、これがかなり我がままなお嬢さんで、最初の何日かは本当に手を焼きました。一尚も結構ギッチリ締め上げていたので、正直言って音を上げて出て行くと思っていたんです」

「ええ」

「だけど一つ一つ出来る事を増やして馴染んでいく姿を見ていたら……情が移ったと言いますか。うちには娘がいないものですから、キャンキャン騒ぐのも可愛く思えて来てしまって。こんな風に騒がしく過ごして行くのも悪くないと。だからつい舞い上がってしまって。『この調子ならホントに結婚して構わない』と、考え無しに一尚に言ってしまったんです……」

「ええ……」

「あいつを突き落としたのはもしかしたら、”それ”だったんじゃないかと。今頃になってそんな風に思えてならんのです」


 テーブルの上に組まれた両手が忙しなく動き、話している声に時折感情が滲んで震える。堰を切ったように流れ出る言葉の端々には後悔の二文字が浮かんでおり、胸に抱いていたそれを誰にも言えずに来たのかと思うと、目の前の彼を気の毒に思った。


「元々、絶対に結婚なんかしないと言い張っていたヤツなんです。理由は判りません、話してくれませんでした。私達は口ではそれでも良いと言っていましたが、内心では本気にしていなくて、何処かで好い人を見付けて欲しいと思っていました。あいつは多分私達の気持ちに気付いていたんでしょう。だから無理をして……あんな風に……」


 ”だから”無理をした……?

 落胆した様子の石井社長の言葉を聞きながら、章弘の中に湧き上がったのは違和感だった。


 あの一尚が親のために意思を曲げてまでそんな選択をするだろうか。と、普段の彼を思い浮かべて考える。確かに今は色んな事が重なって訳の判らない行動に走っているように見えるが、本来の彼はイヤな事はイヤときっぱり言って自分の領分を守ろうとする人間の筈だ。年明けから今月の頭まで忙しくて疲れていたからといって、あの一尚が自分のスタンスを変えてまで親の期待に沿うような事をするだろうか。


 多分だけど、それは否だ。


 彼は何故急に結婚なんて言い出したのか。何を考えてそんな風に動いたのか。

 一尚は良くも悪くも人の事を考えて動く人間だ。誰かのして欲しい事を的確に捉え、自分の出来る最大限の事をして相手を喜ばせようとする。時に無理をしてまで行われるその行動を一分病的だと思った事はあるが、通常の彼はむしろ、自他の境界線をハッキリ認識しているタイプの人間だと思う。恐らく彼が無理をするのは、その境界線が揺らぐ程の何かがあった時なのだ。

 正月の時も今回も、そういう何かがあって今までしなかった事までやろうとして、あそこまで自分を追い込む結果になったのだ。


『不安障害の一種で、よく言う先端恐怖とか、高所恐怖症みたいな』


 頭の中に吉武の言った言葉が蘇り、同時にこたつで横になっていた一尚の姿が目に浮かぶ。あれだけ安定感のある一尚を不安に陥れる物。あれを揺るがす物とは一体何だ。


『年明けから石井さんとちょっと距離置いてたでしょ』


『人から身体触られるの、苦手なんです』


『触れられるのが嫌いっていうか、怖いんじゃないかって』


『本当は何かありました?』


『あの人は仲良くしてる人から距離置かれるのが一番しんどいの』


『章弘さん、今日は何か雰囲気違いますね』


『絶対越えられない境界線みたいなのがあるのは何となく判ってたし?』


『良かったなあヒロちゃん、石井さんが褒めてくれるってよ』


『そうやって何にも言わないで自分だけ先に行っちゃうから、置いて行かれる方はいっつも不安なんだよ』




 ああ、そうか。

 彼が最も恐れている物。


 それは”分離”だ。


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