停滞するココロ・2
半月程そんな不安定な生活をしていたから、平日の朝にとうとう起きられなくなった。
半休だけ取って取り敢えず病院に行き、睡眠導入剤を処方して貰ったら栄養剤でも飲んで出勤しようと考えていたのだが、それを聞いた父に『絶っ対にダメだ!』と凄い剣幕で怒られ、渋々了承して二月いっぱいは有給を取る事になった。
周りは皆ちゃんとしてるのに、俺は一体何やってんだろう……。
暖房の利いた室内で淡々と診察を待ち、ようやく呼ばれて診察室に促され、そこにいる医師と喋って待合室に戻って来る。会計を待つ間もずっとそんな事を考えていて、頭の中はまるで休まらなかった。
何年も前の出来事にここまで囚われ、振り回されて。
周囲には年末からずっとひどい醜態を晒し続けているし、今だって世の中の誰もが動いているという時間に、待合室でただ待っているだけの自分がひどくノロマな人間に思えてくる。人と正面から向き合う自信はないし、自己管理は出来ないし、せっかく出来た大切な人の門出を素直に喜べないし、最早人間失格という域なのではないだろうか。
そして人がそういう事を考えている日に限って天候は快晴で、眩しい程の日差しと暖かさを心から喜べない自分がいかに狭量で愚鈍であるか、天から思い知らされているような気になった。
こういう時、いつもどうしていたんだっけ。
章弘に会う前もこうして時々昔の記憶に苛まれる事はあったように思う。その時は決まって図書館に入り浸り、途方も無い数の本の中から当たらずとも遠からずといった内容の本を探して読み漁り、課題そのものを自分なりに組み立てて解決方法を模索していたような覚えがある。彼に出会ってからは生き字引きのような彼自身に沢山助けられた物だから、居心地の良い距離感に胡座をかいて、自分から動き出すなんて事も忘れてしまっていたような気がする。
このままではいけないと自分でも思っている。いつかは彼のように自身の過去に何らかの決着を着けなければいけないなんて、ずっと前から判ってはいた事だ。しかし最初の一歩を踏み出そうにも、耳に捉えたいつかの言葉が腹の奥底に刺さっていて、動こうとする傍から痛みが走った。
『こんなに冷たい人だと思わなかった』
あの時、意図せず彼女を突き刺したその冷たさが、いつかまた大切な誰かに突き刺さりやしないだろうか。自分がこんなに利己的で情けない人間だと知れたら、今傍にいる人が幻滅して離れて行きやしないだろうか。
『自分は誰の事も好きになれないのに、自分の事は好きでいて欲しいのさ』
そうして大切にしていた人が離れて行った時、傾けた気持ちと時間は一瞬で崩れ落ち、気持ちごと引き裂かれて痛みだけがいつまでも残る。あの時生じた痛みがいつになったら治まるのか、空いてしまった空洞はどうしたら埋められるのか、一尚には今も判らないままだ。
「う」
「どうしました? 大丈夫ですか?」
「……ええ、はい……」
ごちゃごちゃと色々な事を考えている内に、一瞬胸が悪くなる。咄嗟に口元を抑えた一尚に外来担当の看護師が駆け寄ってきたが、適当に返事をして何とかやり過ごす。恐らくその拍子に漂ってきた消毒液のような匂いがきっかけで、脳裏にクリスマスの日の事が蘇った。
まさか、彼が看護師だとは思わなかった。
前々からやけに肝っ玉が座っている人だとは思っていたけれど、あの仕事に就く前にも病院で人間のアレコレに触れて来た人だと考えたら確かに、その理由にも納得が行く。あの時の勤務医と親しかった様子を見るに、以前に勤めていた病院もそれなりの規模だったのかも知れない。その彼がどんな経緯で仕事を辞める事になり、あの店に辿り着いたのか。そんな話は一度も聞いた事が無いし、興味さえ持たなかった。多分そういう所が冷たいと言われた所以なのだろう。それでどうしてこんなに親しくなれたかというと、頼まなくても自分からちょうど良い場所に来てくれていた彼のお陰なのだ。
そういえば。
誰かが離れる事は嫌な癖に、一尚は自分の方から相手に何かを働きかけた事が無いかも知れない。面白い事も厄介事も向こうからやって来るのをただ待っているだけで、自分でどうこうしてやろうなどとは殆ど考えた覚えがない。そんなのは考えなくても周りが勝手に投げ入れてくれる物であったし、わざわざ自分から飛び込んで行く必要なんて無かった。
これじゃあ忍の事を笑えないじゃないかと自嘲気味に考えて、遣る瀬無い感情を何度目かも判らない嘆息に込めて吐き出した。
……あんなに近くに居てくれていたのに、俺は章弘さんの事を何一つ知ろうとして来なかったんだな。
程よい存在感と温かな言葉を与えて貰う事に慣れてしまって、それが無くなると知って嘆くばかりだなんて、情けなくていっそ涙が出そうだ。
受付で名を呼ばれて会計を済ませ、病院の近くにある薬局に入って貰ったばかりの処方箋を出す。そこでもしばらく時間を過ごしながら子供用の絵本が並んだ棚を見て、唐突に章弘の家の本棚の事を思い出した。
そうだ、あそこなら。あの部屋の本棚の中になら、一尚がずっと思い悩んでいる事に関連する書籍があるかも知れない。
眠れないのはひとえに恐ろしいからだ。恐ろしいのは自身を苛む物の正体が判らないからで、判らないのはそれらの概念を掴めないからだ。例え完全に理解する事が叶わなくても、せめてこの感情の枠組みや呼び名を知る事が出来たら、そこから切り崩して鎮める事が出来るのではないか。
無論あの部屋に行くという事は当然章弘に会うという事に繋がるのだが、今の一尚にはそれ以上に正体不明の感情の解明の方が急務であるように思えた。他に方法も思い付かないし、昼も夜もずっと稼働し続けた頭はもうとっくに限界を越えている。この状況をどうにか出来るのなら一分だって惜しい。
すぐにスマホを出して着信履歴を表示させ、章弘の名前をタップして端末を耳に押し当てる。比較的早い段階で『はぁい、どうしたの?』と応答した声は明らかに寝起きの声だった。
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「本は逃げないんだから、兎に角それ食べてからね」
起き抜けに電話を寄越した上、急に現れて本棚の所へ行こうとした一尚に対し、章弘はまだ眠そうな様子でそう言ってサバ茶漬けを用意した。早く本を読み漁りたくて落ち着きなく過ごしていたのもそのお茶漬けを食べ始めるまでで、温かい物を摂って空腹が満たされると自然と気持ちが穏やかになって、先程までの奇妙な衝動もすっかり消えてしまう。最初は立って腕組みしながら様子を見張っていた章弘も、一尚の動作が落ち着き始めたのを見て静かに隣の椅子に腰掛ける。その際、一尚が提げてきた薬局の袋の中身を見ていたようだが、彼は特に何も言わなかった。
茶碗の中身を全て平らげて「ごちそうさまでした」と両手を合わせた一尚に、章弘が「美味しかった?」と言い、正直にハイと答える。すると「良かった」と言った章弘は可笑しそうに笑い、一尚の髪を手櫛で梳くように軽く撫でて困ったように言った。
「やっといつもの顔に戻ったわね。もうどうしてくれようかと思った」
「……俺、おかしかったですか」
「ええ、だいぶ。目ぇ据わってるし表情はボサッとしてるし話は聞かないし、ちょっとだけ困ったちゃんだったわ」
「いや、その……すみませんでした……」
「別に良いわよ。そういう時に頼って貰えるオトコで良かった」
少し嬉しそうに、しかし冗談めかしてそう言った章弘は食器を持って離れ、それらをシンクに置いてスポンジを手に取る。空腹を満たしてやや冷静になった一尚は項垂れてさっきまでの自身の行動を猛省し、カウンターテーブルに反射する光源をただ眺めていた。
洗い物をしながら「どうせならちょっと寝たら?」と言った章弘を見ると、彼は顎をしゃくって寝室の方を示す。
「そのままだと本なんか読んだって何も入ってこないんじゃない。私はもう出るから、布団とか勝手に使ってくれて良いわよ」
「あ、いえ、流石にそういう訳には。本だけ借りてお暇しますから」
「良いの、判ってるわ。カズちゃんが一冊や二冊読んだ位で満足出来る訳ないでしょ。こういう時は頭の天辺からつま先まで活字にどっぷり浸かりたいに決まってるの」
「あー……えーっと……」
相変わらず下手くそなウィンクをしながら言われた言葉は正にその通りと言える内容で、流石に撥ね付ける事が出来なかった。
視線だけを泳がせて呻いた一尚に構わず、洗い物を終えた章弘は寝室に上着を取りに行き、袖を通しながら戻って来てこたつの傍にあった鞄を手にする。そうこうして出掛ける用意を済ませた彼は黙って座っている一尚の傍へ来て「じゃあ行ってくるわね」と笑ってまた頭を撫でた。
「良い子でお留守番してて~。お土産買って来るから」
「……ふ、行ってらっしゃい」
まるで親戚の子供にでも言うような言葉を掛けられ、身体の力が抜けてつい笑ってしまう。一尚のそんな反応を見て何処かホッとしたような表情をした章弘は、すぐにいつもの笑みに戻って「行ってらっしゃいのチュウは?」と曰う。それには「しないです」と答えて椅子から立ち上がり、ブーブー文句を言って玄関に向かう彼を送り出して一人になった。
そのまま本棚の部屋に行こうかと思い、食事で温まった身体が休息を求めている事に気が付く。どうせ眠れないのだから少しだけ横になろうと、章弘に言われた通り寝室の方のドアを開けて中に入った。
一尚の電話で慌てて起きたのを物語るように、毛布や布団が盛り上がって寝ていた家主の痕跡を残している。出勤前に悪い事をしたと思いながら、それらの間に潜り込んで固い枕に頭を押し当てた。
……章弘さんの匂いだ。
恐らく空腹を満たした事によって、急速に訪れる眠気に襲われながらそんな風に思う。いつもならば落ち着かない筈の他者の匂いが今日に限っては全く逆の効果をもたらし、何もかもが限界だった身体はすぐに眠りに引き込まれて行った。




