停滞するココロ
銭湯で長々と沸かし湯を堪能して上がり、下着とスウェットパンツを身に着けた所で古臭い体重計が視界に入った。思い立って脱衣所の隅に置かれているその体重計に乗ると、今時見ないようなアナログな文字盤の針は思っていたよりも少ない数値を指す。文字盤を読んで『あれ』と思って一度下り、何も乗っていない状態での針がゼロの所にあるのを確認する。そうして再び乗ってみても指し示される数値が変わる事はなく、一番最近体重を量った時の事を考えた。元々マメに量るような生活は送っていない方だが、それからそんなに経っていないというのに何故かキロ単位で数値が落ちている。この頃はむしろ忍に何かと食わされているので少し重量が増したかと思っていたのだが、身体の中は全く逆の事態に陥っているようだ。
浴室に続く引き戸を開けて戻った末弟の尚徳は、身体を拭きながら体重計に乗ったままの一尚に近寄って「何キロ減った?」と後ろから文字盤を覗き込んで来る。何故減っている前提で聞くのだと思いながら「四キロ」と答えると、彼は「やっぱり」と言って手首から外した鍵でロッカーを開け、大判のバスタオルを出してガシガシと髪を拭き始めた。
「やっぱり?」
「うん。この頃背中の厚みが減ったなあって思ってはいたんだ。それこそ頭痛薬渡した頃からちょっと顔色も良くないし、何か二課に配属になった頃の俺に似てると思って。最近眠れてないんでしょ」
いきなり確信を突かれて言葉に窮し、乗っていた体重計から下りてロッカーに向かう。黙ったまま肌着とシャツに袖を通している間、尚徳も同じ様に下肢衣類だけを身に着けて体重計に乗りに行った。
尚徳の言う通り一度落ち着きかけたリズムはすぐに崩れ、あれから更に寝付けない日々が続いている。お陰で全く疲れが取れず、身体が常に重たくて食欲も無い。忍が何とか物を食わせようと躍起になっているのは一尚のそういう変化に気付いているからで、何をしても追い付かない状態が続いた事で、彼女の表情にも焦りが滲んでいるような気もする。
そんな状況なので元々悪かった顔色はもう、ちょっとやそっとじゃ隠せない段階まで来ており。当然父だけでなく稲葉や他の社員にも指摘され始め、決算期を間近に控えたこの時期に『早めに帰って休んで下さい』と言われる始末だった。
「今更結婚するなんて、らしくない事言ってるからじゃないの」
「……らしくないか」
「らしくないよ。うまく言えないけど……、無理してる感じがする」
既に他の衣類も身に着けた尚徳がそう言い、洗面台に向かってドライヤーに手を伸ばす。自宅にあるものよりも明らかに出力の弱いそれで生乾きの髪をあちこち乾かした彼は、ロッカーの前で固まっている一尚に「とりあえずボタン止めたら」と言って鏡に向き直った。
言われた通りシャツのボタンを止め終えた一尚は、弟と入れ違いに洗面台に向かい、彼が使い終えたばかりのドライヤーを使って髪を乾かす。そうしてから先にロビーに出た弟を追うと、カウンター付近でフルーツ牛乳を買った尚徳が戻って来て、「ハイ」と両手に持った紙パックの片方を一尚に差し出して寄越した。
「他の皆は先に家に着いたから始めてるって。帰りにナッツ買って来てって連絡来てた」
「判った。何処かに寄って帰ろう」
差し出された紙パックを受け取り、規則的に置かれたベンチに並んで腰を下ろして周りを見る。連休中とはいえ遅い時間になると流石に客足が遠のくらしい。兄弟揃って女性陣よりも長風呂であったのは確かだが、湯船に浸かり始めた頃にはまだ何人もいた筈の入浴客は、小一時間もすると一尚達二人だけになっていた。
「所帯は持たないなんて言ってたのに、いきなり慣れない事考えたから身体が悲鳴上げてるんでしょ」
「かもな」
「性に合わない事は止めた方が良いよ。頭痛薬常備してる俺が言うんだから間違いない」
言いながら紙パックを開ける尚徳を眺め、こんなにハッキリ物を言うヤツだったろうかと少し前までの様子を考える。どちらかといえば口下手で満足に物を言えない性格をしていた筈の彼が、いつの間にかやけに突っ込んだ物言いをするようになっている。その話し方や言い回しは何処か畑中に似ているような気がして、弟の成長は後輩の育成の賜物でもあるのだと他人事のように考えた。
「俺としては、無理に結婚してストレスで早死にされるより、独り身でも長生きして欲しいんだけど」
「したら、お前らと子供に迷惑かけるだろ」
「かけてよ。そんな風に痩せちゃうより、そっちの方がずっと良い」
「……そうかな」
「親父は倒れたって年だからってある程度諦めはつくけど、兄貴まで具合悪くなって入院なんて事になるの、俺は嫌だからね」
きっぱりと言った尚徳の隣で、紙パックを持ったまま年季の入った床板の模様を眺める。
数年前に父が病院に搬送されたあの時、パニック状態だった家族をどうにかこうにかまとめ上げたのがこの尚徳だ。例えば近い将来、それも万が一、父ではなく一尚が搬送されるとなっても二度目の事だし、他の家族も多少冷静でいられるとは思うのだが。母や兄弟以上に、一尚の事で動揺した父が発作を起こして一緒に搬送されないとも言い切れないから、せめてそうならないように少しは気を付けなければいけないと思い直した。
そんな事になったら章弘にどやされそうだと一瞬考えかけ、その思考を振り払うように息を吐いてふと隣の尚徳に目を向けた。
「尚徳」
「なに」
声を掛けると、既に中身を飲み終えて紙パックを潰し始めている尚徳が顔を上げてこちらを見る。そのままじっとして一尚が発する次の言葉を待っている状態の彼に手を伸ばし、乾かしたての頭を何度か撫でてみる。自分と似た髪質をした髪に触れても、それが髪だと思う以外に思う事はない。そして恐らく予想外の展開で弟が固まっているのを良い事に、さっきまでのお湯の温度が残る頭を自身の首元に引き寄せてみると、やはり背筋をゾワリと嫌な感覚が走り抜けた。
「えっ……、ちょっと、何してんの、どうかした?」
家族でもダメか。と口の中で呟いた一尚の手を払い除け、尚徳がとうとう焦った様子で距離を取る。その一部始終をちょうど見てしまったらしい男性客がいて、ドン引きしながら奥の脱衣所に消えていくのも見えた。
見るからに動揺した尚徳には「何でも無い」と話して払い除けられた手を見る。そこに残った体温と感触の余韻でさえ、風呂で弛緩した筈の神経をやけに刺激して落ち着かない気分になった。
----------
先に銭湯から自宅へ戻っていた家族はとっくに酒盛りを始めており、合流した尚徳も早々に酔っぱらい連中に引っ張り込まれてしまった。
出来上がった面々に「じゃあ、俺はもう寝るから」と言って洗面所に回って歯を磨き、無理に引っ張り上げていた表情筋を元に戻して息を吐く。そうしていると洗面所にルームウェア姿の忍が顔を出して来て、「ご飯、本当に良いの?」と不安そうな声を出した。
「カズくん、今日お昼もあんまり食べてないし……、この頃顔色だって……」
「そうだけど……。まあ、今の内だけだろ。気温が高くなれば多分何とかなると思うし、そんなに心配しなくていい」
本当はこれ程長期間眠れなかった事も無かったから、実際にどうだかは知らないけれど。せめて出来るだけ軽く聞こえるように言ってみた所で、忍の表情が晴れる訳もない。こまめに整えられた眉をハの字にして視線を落とした彼女は、ゆっくりと下を向いて「私のせい?」と小さく言い、ボロボロと涙を流し始める。突然の事でギョッとした一尚に構わず、忍はルームウェアの袖で目元を拭いながら声を震わせた。
「私がここに来たから、カズくんは具合悪くなったの……?」
「いや、それは、」
「私がお友達の事悪く言ったからいけないの……? だから毎日おせんたくとおそうじの刑なの?」
「……、忍?」
「やだよぉカズくん、おせんたくもおそうじも毎日やるから、おやつは無くっても良いから、カズくんは死んじゃやだぁ……!」
「ちょっと待て。おい忍、一回こっちを見ろ」
何だか様子がおかしい、と俯いた彼女に顔を上げさせてよく見ると、涙を流している目はとろんとしていつもの安定感がない。血色が良いのは湯上がりだからだとばかり思っていたが、それにしては少々顔が赤いような気がする。まさかと思って鼻を近付けて匂いを嗅ぐと、彼女の口元からは僅かに甘いカクテルの匂いがした。
「おい、お前酒を飲んだな」
「お前じゃないもん、忍だもん!」
「弱いんだからあんまり飲むなって言ってただろ……」
「そんなに飲んでないもんっ、コーヒー牛乳みたいな甘いのだけだもんっ」
「甘いからって沢山飲んだな? あれは味の割に度数高いから気を付けて飲まないと……」
「もう、私は心配してるのに、カズくんのばか!」
酔っていてもお決まりのやり取りはするのか。と呆れて嘆息する一尚に構わず、泣いているんだか怒っているんだか判らない彼女は鼻を啜りながら洗面所を出て行く。それを見送って『あれは確実に二日酔いコースだな』と考えながら、一尚は洗面所の明かりを消して真っ暗な階段を上った。
暗くて寒々しい廊下を歩いて暗い部屋に着き、デスクに荷物を放り出してベッドに横になる。そうするとすぐにスマホが震えて着信を知らせ始め、この時間に電話を寄越す発信者を思い浮かべて寝転んだままポケットを探った。
『後藤章弘』
その名を目にして喉の奥が詰まったような苦しさに見舞われるが、当の本人がそれを知る事はない。
この頃彼はこうして時々電話を寄越すようになった。まるで一尚が何を考えているか判っているように、他愛のない話をして一尚の感情を優しく残酷に刺激する。
画面に表示される名を見てまだ電話を寄越すような立ち位置でいてくれるのだとホッとし、一方で敏い彼に感情の起伏を読み取られやしないかと話しながらヒヤヒヤしている。ならばいっそ出なければ良いだけの話で、これまではそれでも関係性には全く支障が無かった筈なのに。章弘と離れたくないという事を自覚してからは、どれだけ疲れていても電話があれば出たくなるし、あの声を聞いている僅かな間の安らぎを求めている自分がいるのだ。例え話し終えた後で色んな事を考え込んで眠れなくなったとしても、この時間を拒絶する事など出来はしない。
多分こういうのを『焦がれる』というんだ。そして『焦がれる』程大切な相手であればある程、離れて行く日が恐ろしい。
スマホの画面に出ている名前を眺め、今日も出るかどうか迷ってから通話を繋ぐ。少し強張った「はい」と言う声が、電話の向こうの彼に伝わらなければ良いと思った。




