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或る社会人の取るに足らない話  作者: 佐奈田
本編
31/60

彼は誰時・3

「ココで良いわ、ありがとう」

「おい待て。こいつはどうする。持ってくか」


 会食を終えて康正に店の近くまで送って貰い、早々に車を降りようとした章弘に、彼はタブレットを示してそう言った。聞かなくてもあの動画の事だと判り、「要らないわ」と返してドアノブに手を掛けると、彼は「ああ?」と柄悪く言って章弘の方を見た。


「こんなモン俺に押し付けられたって困るんだが?」

「じゃあそのまま消しちゃって良いわ。多分だけど、アンタに任せといたら余所に流れもしないでしょ。それこそ、今更私が貰ったってどうしようもないし」

「まあ、そうだろうけどよ」

「自分で言うのも何だけど若い頃の私、結構イケるでしょ。こっそりオカズにしてたって怒りゃしないわ。叩いちゃったお詫びと車代って事で」

「ばっおま、っする訳あるか、バーカ!」

「じゃあね」


 外に出る背中に子供じみた暴言を受け、苦笑してドアを閉める。降り立った章弘に手も振らず、ハザードを消して方向指示器を点滅させた彼は、また緩やかに車を出して大通りを走り去った。

 車が見えなくなったのを確かめ、章弘も店に向かう。この道を通勤路として使う日々ももう僅かである。間近に差し迫った期限を思うと、早く過ぎて欲しいような、まだ訪れて欲しくないような、そんな微妙な心地がしてつい顔が下を向いてしまう。まだまだ胸を張って歩くには程遠いと息を吐き、その時初めて気が付いた。章弘の記憶にあるこの道は、来る日も来る日も同じ光景ばかり。それはつまり、自分がいつも下ばかり向いて歩いていたという事に他ならなかった。




----------




 ちょっとした出張先からの帰り。車じゃないのを良い事に、家には遅くなると連絡を入れてバーに立ち寄り、少し前に入れたきりのボトルを消費しながら駅の売店で買った文庫本を読み、適当に時間を潰して待っていた。

 平日なのに遅い時間にカランとドアベルを鳴らした人があり、オーナーがいらっしゃい、ではなく「よお、お帰り」と口にする。それを聞いて一尚が振り返るより早く「ただいま」と聞き慣れた声がし、この間のように余所行きみたいな格好の章弘がすぐ隣の椅子に陣取った。


「お帰りなさい。終わったんですか」

「ええ、つつがなく。もしかして待っててくれたの?」

「はい……、終わったら店に寄るんじゃないかと思って」

「大っ正解、んもぉ~疲れた。お願いカズちゃん、私を癒やして」


 すぐに鞄を床に落とした彼が一尚の腕にしがみ付き、冗談なのか本気なのか判らない事を言う。突然の接触に一瞬驚きはしたが、彼の衣類が外気で冷えていたからか、この前程嫌な感覚は無かった。


「イヤです」

「このイケズ! ノッポ、脚長、色男!」

「いや、後半褒めてんじゃん!」


 それでも構わず腕を引き抜き、すかさず文句を言う彼に大笑いしたオーナーにグラスを頼む。受け取ったそれに氷と液体を入れて適当に水割りを作り、「一杯どうぞ」と言って隣に置いた。

すぐに受け取って「あら、ありがとう」と言った声は確かに疲れてはいたようだが、表情は何処かスッキリしており、癒やせと言った割にあの時のような虚ろな目でもない。多分、今日彼の中で何かが片付いたのだと。そう考えたら不思議と手が伸び、風に流されたような短い髪に自分の方から触れて撫でていた。

「良かったなあヒロちゃん、石井さんが褒めてくれるってよ」と、一尚の様子を見てオーナーが笑う。一尚としては決してそんなつもりで触れた訳ではなかったのだが、かと言って湧き上がるこの気持ちを上手く言語化出来る気がせず、そういう事にしておこうと思って曖昧に頷いておいた。

 その様子を見て怪訝そうにグラスを置いた章弘が「私、明日死ぬんじゃないかしら」と口にして、穏やかじゃない単語に一瞬ドキリとする。思いがけない発言に固まった一尚がオーナーを見ると、彼もこちらに目を向けて困惑したような表情を見せた。


「え……章弘さん、どっか悪いんですか」

「判った、頭だな」

「失礼ね、どっこも悪くないわよ。ちょっと疲れたけどとってもいい気分なの。スッキリしてサッパリして、愉快痛快、スカッと爽快!」

「それならまあ、良いけど。それがなんでいきなり、死ぬだなんて物騒な話になるんだよ」

「だから、よ」

「だから?」

「だから……って?」

「そう。だからぁ……」


 一尚にもオーナーにも首を傾げられ、章弘は言葉を選ぶように黙って目の前のグラスを揺らし、中の液体と氷を馴染ませて口に含む。珍しく神妙な、それでいて困ったような顔をした彼は手の中のグラスを揺らしたまま、他の二人と同様に首を傾げ、表情の通りに困ったような声を出した。


「こんなに幸せで良いのかしら」


 しみじみと吐き出された声に、返す言葉もなく章弘を見る。恐らく誰に問われた訳でもないその声は彼がそれまで抱いてきたしがらみからの解放を意味しているように感じられ、その事実を目の当たりにした途端殴られたような衝撃を受ける。急に周囲が真っ暗になったような不安が足元から這い上がり、鼓動が乱れて目眩がしそうだった。


「いーんだよ」


 何も言えない状態から先に立ち直ったのはオーナーの方だ。嬉しそうな、でも何処か寂しそうな顔をした彼は章弘に何度も頷いて見せ、温かな声で繰り返し「良いんだ」と言って唇を引き結ぶ。それを聞いた章弘は何も答えない替わりに同じく頷いて返し、黙ったままグラスを弄んで中身を口にした。その目には薄っすら涙の膜が出来ていたように見えたが、それが溢れて彼の頬を濡らす事は無かった。

 きっと本当に終わったんだ。章弘を縛り付けて動けなくしていたモノが今日、何もかも。本来なら嬉しいと思わなければいけないのだろう。前に進む彼を、笑って送り出してやらなければいけないのだろう。それで良かったと言ってやらなければならない。例え心にない事だったって、嘘だったって良いから。


 なのに、こういう時にどうして何も言えない。


 思ってもいない事を言うなんて仕事でいくらでも出来たじゃないか。取り繕うのは得意だった筈だ。ただ口を開いて『良い』と言ってやるだけの事が、どうしてこんなにも痛みを伴うのか。


「!」


 不意にスマホが音を立てて震え始め、我に返って画面を操作する。静かになったそれを手に取っていつも通りを装って「はい」と出ると、いきなり大きな声で『ちょっとカズくん! いつまで遊んでるのよ!』と怒鳴られて端末を押し当てていた耳が痛くなった。


「……忍」

『カズくんが返って来ないとお洗濯が終わらないでしょ! 明日もお仕事なんだから、早く帰って来て!』

「判った、判ったから電話口で怒鳴るな。周りに聞こえる」

『え! うそっ!』

「ん~バッチリ聞こえるわぁ」

「若い子は元気だなあ」


 周囲にいる彼等は突然の大声にも驚いた様子が無く、さっきまでの雰囲気が嘘のように、微笑ましそうな顔で忍の声を聞いて頷き合っていた。『やだ、恥ずかしい!』と言った忍が慌てて電話を切ってしまったのを聞き、「すみませんが、そういう訳で」と仕方なく席を立って荷物をまとめに掛かる。それを見て同じく立ち上がった章弘が一尚の上着を取って「ハイ」と広げてくれるので、礼を言って袖を通し、上着の襟元を直して鞄を手に取った。

「噂の彼女?」と章弘が尋ねて来るのに驚き、思わず「噂になってるんですか」と聞き返してしまう。それに頷いた彼は「まあね」と笑い、一尚に近寄って曲がっていたネクタイを直した。ごく近くに寄った彼が手を動かすのを見ていて、その後すぐに離れて行くのを名残惜しいと感じる自分がいる事に気付く。そんな気持ちのままいたらスッとこちらを見た彼とバッチリ目を合わせる事になり、財布を出す振りをして咄嗟に顔を背けた。


「ねえ。ホントにその子と結婚するの?」

「さあ……どうでしょう。向こうが強気でそう言って来たので、もっと強引にそうなるのかなとは思ったんですが」

「ンまあ厭らしい、若い娘とひとつ屋根の下で組んず解れつするのね。オカマの事なんてほっといて帰ったらこのまましっぽりなんでしょ、妬けちゃう」

「いや、しっぽりはしませんよ」

「ヒロちゃん、お客さんにそういうのマジでやめよう、セクハラだからねえ」


 ご近所でたむろする主婦のように、口に手を当ててそんな事を言った章弘を前に、オーナーがニコニコとした表情のままピシャリとそう言って腕組をする。客に嫌な思いをさせずにきちんと従業員を教育している様を目の当たりにしながら、一尚はまだ宙ぶらりんなままの忍との関係について思う所を口にした。


「本当に何も厭らしくありません。彼女とはそういうの、一切無いですから」

「あら、そうなの?」

「そうですよ。苦手だったとはいえ、小さい頃から知ってる子ですし……今も何というか、夫婦というより兄妹と言った方が近いような状態なんです。ここから男女の仲になるとは……とても思えなくて。どんな風に転ぶかは俺にも判りません」

「そっか」


 一尚の体質の事を知っている章弘がそれ以上こちらの言う事を掘り下げようとする気配はない。それから一段落した会話にホッとして会計を済ませ、呼んでもらったタクシーに乗り込んで家路に就いた。


 車窓の外を流れる街並みを見ながら、ついさっきまで近くにいた章弘の事を思い出す。どうしてあの時声を掛けてやれなかったのか。考えてみればそれはごく単純な事だ。


 この関係が終わって欲しくないと思っている。俺はあの人と離れたくないんだ。


 今頃になってそんな事に気が付いたからって、もう遅い。しがらみを断ち切って前に進む事を決めた彼を、どうしてこのまま引き止める事が出来るだろう。

 戸惑うように『こんなに幸せで良いのかしら』と言った彼の声は、胸の奥底に突き刺さったまま余韻を伴って何度も一尚の中で疼き続ける。これもいつか耐え難い痛みになって、佐山達の時のように自身を苛む日が来るだろうか。そしたら、あの時『良い』と言ってやれなかった己の器の小ささに嘆く事になるんだろうか。


 幸せになって離れるのなら、あの頃よりもずっと喜ばしい事の筈なのに。

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