関係を問われる
「何それ、どうしたの」と、向かいの席に座るなり章弘が言った。彼が指したのは一尚の左右の手指にいくつか巻かれた絆創膏で、自分でも存在を忘れていたそれらについて、簡潔に説明を求められた。
「年末の成果報告会前に、資料を読んでたら切りました」
「ええっ、それ全部紙で切った傷なのっ?」
「はい。この頃どうしてかよく指を切ります」
「やだそれ乾燥してんのよっ、意外と鈍臭いんだから。ちょっと貸して」
向かいの席に座った彼がボディバッグから小さなチューブ容器に入った何かを取り出し、一尚に片手を出すよう言う。それに素直に応じた一尚の手から容赦なく絆創膏を引き剥がした章弘は、簡素な容器の蓋を開けた。やや黄味がかった固めの軟膏が手の甲にギュッと絞り出され、差し出した方の手に丹念に塗り込まれる。いつ切ったかも判らない傷であった筈なのに、その軟膏を塗られた箇所がまたピリピリと地味な痛みを生んだ。
「はい反対」と、片手にそれを塗り終えた章弘が言った。彼は周囲の視線など気にせずに、サッと出した紙ナプキンの上に剥がした絆創膏を丸めて放り出している。同様に周りを気にしない質である一尚も、彼に言われるまま反対の手を黙って差し出した。
ここは待ち合わせ場所に丁度いい、人通りの割と多いコーヒーショップだ。日曜の真っ昼間から男二人が手を取り合って何をしているのかと、周囲の人間が訝しんでいる様子があった。
「それ、何です」
「ハンドクリーム。アタシすぐアカギレが出来るから、この時期必須なの」
「これで指を切らなくなりますか」
「多分ね。普段から何か塗るようにしてなさい。待って今、絆創膏も新しいの出すから」
ハンドクリームが入ったチューブと入れ替わりに、今度はバッグの中から透明なポーチが出て来る。その中に絆創膏だけでなく、ガーゼやネット包帯、サージカルテープや小さいハサミまで入っているのが見え、一尚よりも周囲の方が少し驚いたような顔をしていた。
「章弘さんの鞄、何でも出て来ますね」
「まぁね。もしもの時のセット、何かしら持ってないと落ち着かない性分なのよ」
そう言った章弘が一尚の指にさくさくと絆創膏を巻き直し、出たゴミは小さくまとめて紙ナプキンでグルっと包む。「ハイおしまい」と言った彼がポケットにゴミを突っ込んだのを見た周囲が、やっとこちらから視線を外したのが見えた。
「もうそろそろ時間かな」
「その美容室、ここから近いんですか?」
「そこの大通り渡ってすぐ。ねえそれより、お昼どうしよっか」
「適当に近くに入りましょう」
「パンケーキ食べたいって言ったら怒る?」
「怒りませんよ。別行動するだけです」
「もう、いけず」
それまでと違って抑揚の少ない余所行き用の話し方をする彼は、表情も悪態もさっきよりやや小さめだ。いくら周りを気にしないといっても、彼は周囲の人に気を使うプロである。今し方の事で自身に好奇の目が向くのは兎も角、一尚に同様の目を向けられるのは避けるべきと判断したのだろう。プライベートでまでそんな物を気にしなくて構わないのにと思いはしたが、彼がプロなら、その配慮を黙って受け入れるのも客の仕事であるといえるかも知れない。無論今はオフだし、唯の友人として行動をしているのだが、細かい事を指摘していると険悪になるので流して然るべきである。
いつもと異なる彼の様子には目を瞑ったまま、もう湯気も消えているコーヒーを流し込んで息を吐いた。
そのコーヒーショップから大通りを横切って、向かったのは古着屋やセレクトショップがひしめく小洒落た一角だ。目的地の外装は黒く、ガラス戸から見える室内は白や濃いブラウンで統一されている。男性向けと聞いていただけあって、今日中で働いている人も全員男性のようだ。話だけを聞くと男臭くも思えそうな空間だが、さすがに店舗は清潔感に溢れていた。
躊躇なくガラス戸を開けた章弘が「ハァイ小松ちゃん、来たわよぉ〜」といつもの調子で中に声を掛ける。それを聞いた顎髭の男性が振り返って「後藤ちゃん!」と明るい声で言ったのを聞いた一尚は、一瞬で来た事を後悔した。
「やだぁ小松ちゃんそのジャケット似合うわぁ素敵ぃ〜!」
「この間話してたヤツね、結局買っちゃったのぉ。着倒して元取ってやるって決めたわ」
「やぁー頑張ってぇ。何でも大事に着れば長持ちするから。で、連れて来たわよ〜」
「いやーっ、男前〜っ!」
「でも可愛い顔して言う事可愛くないのよ、気を付けてぇ〜」
目の前で繰り広げられる賑やかなやり取りを『うるせえ』と隠しもせずに顔を顰めた一尚には、章弘が「もっと愛想よくしなさいよ」と軽く肘鉄を食らわせる。「いきなり野太い悲鳴を聞かされる方の身にもなって欲しい」と投げやりな返答をしても聞き届けられる事は無く、彼は早々に一尚を押し出して「じゃ、お願い」と言って小松という男に目配せした。
一尚に向き直った小松は一度仕切り直すように咳払いをしてから名刺を取り出し、「本日はありがとうございます」とさっきとは違う静かな声を出した。
「オーナーの小松と申します。後藤さんからお話は伺っております。ご協力に感謝します」
「頂戴します。石井と申します。申し訳ありませんが今日は、名刺の持ち合わせがありませんで」
「そんなそんなっ、構いません。来ていただけただけで嬉しいですから。奥へどうぞ、コートをお預かりします」
章弘とのやり取りとは異なり、一応余所行きの体でそんな風に言った彼は、一尚達からコートを受け取って奥のソファへと促す。言われるまま並んでソファに腰掛けると、A4サイズのボードを持った小松が近くに腰を下ろして紙面を見せて来た。
「こちら、サロンモデルさんへの留意事項です。上から一緒に読んで行きますね」
恐らく事前に掻い摘んで要点を聞いていたであろう章弘は、内容よりもテーブルに置かれたヘアカタログの方に見入っている。それを尻目に紙面の文字と彼の言葉を聞いている間にも、別な客が来て他の美容師に案内されて行くのが見えた。今入って来た客を含め、店内にいる客は二組程。対応する美容師と親しげに話している所を見るに、全く初対面という訳ではないようだ。前の職場からの指名客だろうか。
「と、ここまでで何か気になる点はありましたか」と、一通りの項目を読み上げた小松が言う。それに首を横に振って「いいえ」と答えると、小松の真剣だった表情が綻んで「じゃあ早速カウンセリングに移りますね」と声に喜色を溢れさせた。
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「あの、後藤ちゃん」と小声で呼ばれ、眺めていた雑誌から顔を上げた。そこには小松が立っており、困ったような表情でこちらを見ている。まだ薬剤を付けてそんなに経っていない筈なので、洗い流す為のアレコレをしに来た訳ではなさそうだ。というより、カラーの担当は別な美容師であった筈だ。
チラチラとシャンプー台のある一角を眺める様子に「どうかしたの」と訪ねて雑誌を閉じると、彼は周囲を憚るように口に手を添え、真っ青な顔で「あの男前の彼」と小さな声を出した。
「大丈夫かしら。何かどんどん表情が険しくなってきて、シャンプー行く時なんてひどい仏頂面で……。私のやり方、彼の好みじゃなかったのかしら……」
「仏頂面ぁ……?」
そう言われて改めて一尚の事を考え、一番肝心な事を伝えていなかったと思い至る。「そう言えば言ってなかったわね」とシャンプーのスペースを指して言った章弘に、小松が悲壮感漂う表情のまま小首を傾げた。
「あの子、人に身体触られるのが好きじゃないのよ。だからいっつもクイックカットのソフトマッシュだったの。勿体ないでしょ?」
「そ、そうなの? じゃあ私、まだ頑張れる……?」
「多分大丈夫、嫌だったらその場で帰るわ。仕事の立場上人に舐められたくないらしいから、その辺の事情汲んであげてくれる?」
「オッケー任せてっ。……あ、じゃ洗髪後の肩揉みとか、しない方が良いのね。可愛いからちょっとサービスしちゃおうかと思ってたんだけど」
「他人が肩なんか触ろうモンなら、アタシを置いてソッコー帰ると思うわ」
「やだ薄情~」
小声ながらそんなやり取りをしている二人が気になるのか、他の客が時々こちらを見ている様子がある。章弘の視線で周囲からの視線に気付いた小松がピンと背中を伸ばし、「貴重なご意見、ありがとうございます」と頭を下げたのをきっかけに、小さいけれど騒がしいやり取りは急に終わりを迎えた。それを特に寂しいとも思わず、さっき閉じた雑誌を再び捲り始めた。
すると間もなく鏡の前のタイマーが鳴り響き、雑誌を置いてシャンプー台のある一角へと向かう事になった。
靴の音がやけに響く床材の上を歩き、促されたシャンプー台の椅子部分に腰掛ける。靴は脱がなくて良いですよ~などと言われている間に一尚の方が身体を起こされ、「お疲れさまでした。さっきのお席にどうぞ」と言われて鏡の前に連れられて行った。表情は確かに、凄く不機嫌そうだった。
思い返してみれば、日によっては人が隣に来ただけで顔を顰める事もある男だ。電車やバス等は論外で、そういう事情で今時の若者に珍しく車を所有している。今回は美容室とはいえ髪や頭皮を触られ、相当不快であったろうに。よくこの話に乗ってくれた物だと感心した。
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石井一尚は人目を惹く容姿をしていながら、人に触れられるのがあまり好きではない。
ある程度慣れた人間に触れるのなら平気らしく、気を許した人に対しては普通に接する事が出来ている。
そうは言っても握手や要救護者の搬送が関の山で、頭や肩に手で触れて愛玩表現をしたり、肩を抱いて誰かを慰めたりするような、そういうスキンシップは絶望的に乏しいと言っていい。無論その先の行為についても忌避する傾向にあり、それ故に男女交際も男男交際も努めて回避しているのが現状である。
一応聞いてみたが、別に身体接触に関わるトラウマや苦手エピソードなんかは無さそうだった。ただ単に彼の触覚に関する快不快の感覚は人よりも複雑で、どちらかというと不快に傾きやすいように見えた。
更に聞けば、彼はどうやら恋愛感情と無縁の体質であるという。焦がれる程の恋慕とか、自分の意志と関係なく湧き上がる情欲とか、そういうものに突き動かされた経験が無いから、余計に身体接触を持とうとして来る人間が理解出来ないらしい。
そして同時に。彼の感覚を理解出来る人間も周囲にいなかったから。そういう性質でありながら常に色恋に関する噂が付いて回るという、非常に気の毒な青年時代を過ごしてきた。
そういう彼が章弘と比較的親しくしているのは、章弘も特定のパートナーを作る気がない人間だと知っているからだ。下ネタや下品なやり取りは兎も角、恋愛のレの字さえ出さない章弘は、彼にとってとても希少な存在であるらしかった。
「章弘さん」と、先に写真撮影を終えた一尚が声を掛けてきた。彼はタウン情報誌を捲っており、「この後どこ行きましょうか」と飯屋のページをパラパラと示す。元のソフトマッシュから襟足をスッキリと刈り上げたヘアスタイルになった彼は、少し切った前髪をルーズに七三で分けた事で精悍な顔立ちが更に際立っている。これはまた女が放って置かなくなったと内心で苦笑しながら、章弘も向けられた紙面を眺めて「そうねえ」と呟いた。
「アタシ美肌ランチが良いわ、こういうのにしない?」
「中華レストランですか。あっさり目で良いですね、最近油物がキツくなってきたので」
「あらもうそんなお年頃なの?」
「もう五年したら四十路ですから」
「ざけんじゃないわよ、五年もしたらアタシだってアラフィフよ」
「アラフィフ……」
「しみじみ言わないでくれる?」
半ばげっそりとして返した言葉に、一尚ではなく小松がプッと噴き出したのが聞こえた。「仲良いね」と笑った彼に「でしょ」と返し、一尚の持っていた雑誌を掻っ攫ってさっさと店舗に降りる。来た時よりも少し客が増えた印象のフロアを眺めている内に、預けていたコートを返され、モデルとしての謝礼のギフト券をこっそりと手渡された。
先に店舗の外へ出て行った一尚を憚って、小松が「ねえ」とコートを掴む。それに振り返った章弘に「あの子と付き合ってるの?」と耳打ちした彼は、ランランと輝く目をこちらに向けていた。やっぱりというか、どうしてというか。一対一で親しくしている人間がいると、他者からはそういう関係に結び付けられてしまうようだ。
「ああ……、まあ……ハンドクリームを塗ってあげても殴られない仲よ」
「やっぱり! 最初に会った時からそうかと思ってたのよ。私、そういう勘は働くの」
嘘つけ。と内心で毒づいた章弘に周囲が気付く様子はないし、章弘も別にそれで構わないと思う。こちらが恋とか愛とかで生きている人が理解出来ないように、向こうもそれらの感情を抱かないこちらの事など理解出来ないのだ。感覚については共有のしようがないし、理解されないそれを盾に波風を立たせるつもりもない。そう思ってはいても、自分達の感覚を当たり前として話を進められる事を、少し腹立たしく感じる気持ちがまだ微かにあるのだ。
「彼氏さんとデート、楽しんでね」
「じゃあ行くわ。カットありがとう」
章弘は一尚との関係について、何も明確な事を答えていない。その事実に、彼等は到頭気付かなかった。
「何か言われたんですか?」と、店の外で待っていた一尚が言った。思った通り、美容師によるセットで整った髪は、彼のシンプルな装いを引き立たせている。少し突っ立っていただけであちこちから視線が飛んで来る有様で、考えてみればクイックカットで済ませていた間は、こういう視線もシャットアウト出来ていたのだと思い至った。
「付き合ってるのか聞かれて来ただけ」と、周囲に聞こえない程度の声量で答える。それにあからさまに眉根を寄せて返した彼を「まあまあ」と抑え、二人で早々にその場を離れた。




